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頼朝以前の鎌倉

頼朝以前の鎌倉
10 /02 2010

前回から少し間が開いてしまいました。今回はさらに時代を下り、鎌倉幕府成立以前の鎌倉を見ていきましょう。

源頼朝が幕府を開く以前の鎌倉は鎌倉党が支配する地でした。鎌倉党といってもあまり馴染みのない名前だと思われますので、その流れを以下のように系図風に書いてみます。ただし、これらには諸説あり定まっていない点お含み置き願います。

桓武天皇(737年~806年)―葛原親王(786年~853年)―高見王(生没年不詳)―平高望王(生没年不詳)―村岡五郎良文(平良文)(886年~953年)

良文の5代孫が鎌倉権五郎景政(景正)で、大庭に居住した子孫が大庭氏を、梶原に居住した子孫が梶原氏を長尾にいる者が長尾氏を、俣野にいる者が俣野氏名乗ったとされ、彼らが鎌倉幕府成立前の鎌倉党の主だった面々となります。以下はWikipediaより引用。

景正の死後の鎌倉党の系図は諸説あるが、一説としては次の通りである。(『系図纂要』及び『桓武平氏諸流系図』を主とする)景正の嫡子の鎌倉景継が後を継ぎ、さらにその息子の義景が三浦郡長江村にて長江氏を称し、義景の弟である重時は板倉重家の跡を継いで板倉氏を称した。景正の息・景門は安積氏を称し、その末裔は只野氏(多田野氏)を称した。また、景正の子景秀の孫の家政は高座郡香川郷にて香川氏を称し、景経の息子の景縄は古屋氏(降矢氏)を称した。 景正の叔父の系統では、景通の息子の景久が鎌倉郡梶原郷にて梶原氏を称した。もう一人の叔父である景村の系統では、孫の景宗が大庭御厨に因んで大庭氏を称し、景弘は鎌倉郡長尾郷にて長尾氏を称した。
この様にして鎌倉郡周辺に盤踞する武士団鎌倉党が形成されたのである。 なお、鎌倉党の一族は名前に概ね「景」の字が用いられている。


細かく見ていくとややこしいのですが、要は桓武天皇の子である葛原親王の子孫たちが鎌倉党になっていると考えてください。そして葛原親王は秦氏の強い影響下にある人物でした。その理由は下記の通りです。

葛原親王が生誕したのは長岡京の乙訓で、ここは秦氏の支配地域であり、平安京に移ってからは秦氏最大の拠点である葛野が活動地域でした。また親王は秦氏の氏寺である広隆寺の西に平等寺を建立、後に寺域は広隆寺に吸収されています。父親の桓武天皇は秦氏にとって最重要なキーパーソンですから、その息子に対して目配りがあるのも当然かと思われます。

次に、「続日本後記」によれば葛原親王の家令は秦忌寸福代で、承和15年(848年)紫宸殿において除目があり、福代が土佐大目を兼任したそうです。家令とは親王家などが持つことを許された公的な家政機関の長を意味し、会社で言えば総務・経理担当取締役に当たり、親王家の運営において要の役割を担っています。また土佐大目とは土佐における国司の役職です。除目については以下Wikipediaより引用。

平安中期以降、京官、外官の諸官を任命すること。またその儀式自体である宮中の年中行事を指し、任官した者を列記した帳簿そのものを指す(除書ともいう)。


葛原親王は妻の照玉姫と東国に下向し、現在の藤沢市葛原に御所を構え、そこから高倉郡葛原村の地名ができたとされます。ただ、既にご存知のように高倉郡の名は「日本書紀」天武天皇4年(675年)に既に見られ、この説が正しいかどうか疑問はあります。

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親王を祀る皇子大神参道。場所はややわかりにくい。

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皇子大神社殿です。

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扁額です。

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解説板。

この下向に際し、秦忌寸福代は親王に同行したと酔石亭主は推測しますが、その根拠は追って別の記事にて書く予定です。

また『秩父慈光寺栄朝大禅師系図』によれば、高見王の母は秦忌寸福代の息女とされています。よくありがちな話ですが、それが正しければ、鎌倉党には秦氏の血脈が入っていることになります。

「鎌倉の謎を解く」で佐助ガ谷に秦氏がいた可能性を指摘し、その根拠の一つとして、近くに葛原岡がある旨記載しましたが、この地名は葛原親王に由来しており、ここからも佐助ガ谷と秦氏との関連が窺えます。

ちなみに、親王の妻照玉姫は病に倒れ、天長元年(824年)9月28日、公田にて亡くなりました。その後里人の手で塚が築かれ、上臈塚・皇の御前塚・女臈塚と称されたのですが、文禄元年2月、僧侶である信永により皇女神社が建立されています。この神社も本郷台の近くに所在しています。

以上から、鎌倉の始まりには秦氏の関与が窺えます。それが頼朝の時代における佐助ガ谷の老翁に繋がっていくのでしょう。この記事を書いていて、倉が付く地名には秦氏の関与が見られることに気が付きました。例えば、嵯峨嵐山にある小倉山、島田市の初倉、大月市の畑倉、鎌倉などです。

理由は比較的簡単で、秦氏は朝廷の直轄領である「屯倉(みやけ)」の運営を財務官として任されていたからだと思われます。今で言えば財務官僚ですが、以前の大蔵官僚の方が蔵という文字が入りイメージとしては近そうです。

屯倉は深草屯倉や茨田屯倉など秦氏の支配地域に数が多く、また通常屯倉は一国に一カ所ですが、秦王国があった豊前国には、勝碕屯倉、大抜屯倉、肝等屯倉、我鹿屯倉、桑原屯倉の五カ所があり、これらは秦氏の強い影響によるものと思われます。

鎌倉の地名由来は、藤原鎌足が大蔵の松ガ岡(今の鶴岡八幡宮)に鎌を埋めたからだと書きましたが、倉に秦氏の関与がある以上、このネーミングには藤原氏と秦氏が関与し、また鎌は産鉄を象徴しているので、鎌足が霊夢を見た由井の里の特殊技能集団とも関連し、結局鎌倉の地名は、藤原氏、秦氏、由井里の民の三者合作的なものと言えるでしょう。染屋太郎大夫時忠はこの三者の協力を足掛かりとして、中央における地位を固め、鎌倉の始祖の立場を得たのかもしれません。

頼朝以降の鎌倉に関しては数多くの史料・論考があり、酔石亭主の出る幕はなさそうです。ただ、興味深いテーマでも出てくれば、個別の記事として書いてみたいとは思っています。

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酔石亭主

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