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邪馬台国はどこにある その7


本シリーズは前回で一応終了ですが、卑弥呼の女王国が北九州にあり、邪馬台国は大和にあると言う自説を展開するのが精一杯で、古田武夫氏の邪馬台国は北九州にあるとする説の検証が十分にできていませんでした。この書き足りなかった部分を今回で補足的に書いてみたいと思います。同氏の邪馬台国問題に関する説は、『「邪馬台国」はなかった』(ミネルヴァ書房)に非常に詳しく書かれていますので、この内容を検討する形で進めていくことにしましょう。

ただ酔石亭主の自説が正しいとするためには、古田氏の論を批判する形にならざるを得ず、気が重い話ではあります。と言うことで、早速検討に入ります。まずは「魏志倭人伝」に書かれた以下の文面を再掲します。

南、投馬国に至る。水行二十日。五万余戸ばかり。南、邪馬壱国に至る。女王の都とする所。水行十日、陸行一月。七万余戸ばかり。

これをどう解くかで論者の立ち位置は完全に決まってしまいます。酔石亭主はこの部分が後から挿入されたものとして一旦外し、位置の特定をする作業をしました。その結果、個人的には一定の納得感がある結論を導き出せたと思っています。一方で、九州王朝説を主張される古田氏の見解では、邪馬台国は北九州(博多湾岸)にあるとなります。

同氏によれば、邪馬台国への行程である水行十日、陸行一月は帯方郡治から倭に至る全行程の全所要日数になります。具体的には水行十日が帯方郡治(現在のソウル近辺)から帯方郡西南端、狗奴韓国から対海国、対海国から一大国、一大国から末盧国までの合計距離で、陸行一月が帯方郡西南端から東南に陸行し狗奴韓国(現在の釜山辺り)、対海国、一大国内の陸行、末盧国から邪馬台国までの陸行とされています。その根拠まで書くと長くなりますので省きますが、字義解釈なども交え詳細な論理を展開されています。

古田氏は邪馬台国の位置問題に関して、「魏志倭人伝」の内容を改定してはいけないとしています。例えば方位の南を東に改定したり、所要日数陸行一月を一日に改定したりすべきではないとするのです。その考えに従った場合、古田氏自身も改定していることになります。

例えば、韓国内、対海国、一大国内の陸行は「魏志倭人伝」に何も具体的に書かれていません。記述内容の字義解釈で陸行とされているのですから、これは改定の一種です。他にもあります。「魏志倭人伝」では不弥国の次に南、投馬国が来て、次に南、邪馬台国になるのですから、投馬国の南に邪馬台国が来なければなりません。それを投馬国は不弥国の南に持ってきて、邪馬台国までは帯方郡からの全行程としてしまうのですから、「魏志倭人伝」の記述には全く沿わない形で改定していることになるのです。

同氏は邪馬台国が倭国の首都である点に固執されているため、何としてもそれに合致させる解釈を導き出そうとして、邪馬台国への行程である水行十日、陸行一月を帯方郡治から邪馬台国までの全日程とするしかなかったのです。

他にも問題があります。「隋書」には夷人(倭人)は里数を知らずただ日数でもって測ると書かれています。従って、卑弥呼時代の倭人は当然距離を里数で測れず、日数になるはずです。ここから、距離が日数で表示される投馬国と邪馬台国は使節が行っていない遠方となります。

一方「魏志倭人伝」には帯方郡から投馬国の前の不弥国までは里数表示されていました。古田氏は不弥国と邪馬台国は隣接しているので距離はゼロとされています。同氏の見解に従うと、「魏志倭人伝」には帯方郡から邪馬台国までの日数と里数の両方が表示されていることになり、非常に理解に苦しみます。

もちろん古田氏はこの疑問に答えるべく、「漢書」西域伝に両方表示されている場合があるとして、例を挙げています。それは難兜国(西域都護内)からハイヒン国(都護外)までの往路が里数、復路が日数表示されていると言うものでした。しかしこの例は、単一区間内の往路・復路の距離であり、しかも都護内から外への経路なので両方が表示される可能性はあり、比較の対象にはなりません。他の漢籍に往路のみの全行程に関して日数・里数の両方が表示されている例がない限り、例があるとは言えないのです。

行程に関して古田氏はもう一つややこしい論理を展開されています。それは主線行路、傍線行路として表現されています。使節が倭の各国に向かう際、例えば末盧国に行く場合は、海を渡る、千余里、末盧国に至る。」とあり、「渡る」と言う先行動詞があって次の「至る」の動詞となり、両方が揃っている行路が主線行路になるとしておられるのです。

ところが、奴国、投馬国、邪馬台国には不弥国の「東行不弥国に至る。」に見られるような「行く」の先行動詞がありません。従って、奴国と投馬国は傍線行路になるとされています。(注:邪馬台国の場合は少し後で書きます)

奴国が傍線行路になるとは、伊都国から分岐した行路の先に奴国があることを意味し、伊都国の次に不弥国に至るのが主線行路と言うことになります。投馬国も同様に傍線行路で不弥国から分岐していることになります。

従って、不弥国からの主線行路が邪馬台国になるとされています。つまり、主線行路で見ると、伊都国→不弥国→邪馬台国、になるとの考え方です。具体的には、使節は伊都国、不弥国、邪馬台国の経路で移動するが、例えば伊都国は使節の常駐する所なので、時間があれば伊都国から奴国へも行きそれが傍線行路になると言ったところでしょう。

では、先行動詞のない邪馬台国が傍線行路にならないのはどうしてでしょう?古田氏によれば、邪馬台国が倭国の首都で、「南、邪馬台国に至る。」の「至る」がそれ以前の全ての動詞を受けているからで、先行動詞がなくても主線行路になるとのことです。要するに、邪馬台国が倭国の首都であるとの大前提で考察されている訳で、そこに大きな誤りがあるのではないかと思料されます。

邪馬台国は倭国の首都であるとの前提なしに見れば、邪馬台国は傍線行路であり、使節の最終目的地でもなかったことになります。いかがでしょう?古田氏の論理を素直に援用するだけで、投馬国と邪馬台国は北九州ではなく遠方にあるとすんなり理解されますね。また邪馬台国が倭国の首都であれば、方位だけでなく女王国のように位置関係も明示されていなければなりません。ところがそうした詳細記事は何もないのです。これらからも、傍線行路の遠い先にある大国が邪馬台国だったと確認されます。

以上、邪馬台国問題に関する古田氏の論考をあれこれ検討してみました。短くまとめたので不十分な点があることはご容赦ください、邪馬台国の位置に関しては、それがどのような意見であれ、必ず別の視点からの批判は可能になります。例えば、酔石亭主の見方では、投馬国と邪馬台国の方位である南を東に、陸行1月を陸行1日に改定しています。この改定には当然批判もあるでしょうが、批判する論者もまた別の面で改定をしていると言った具合で、いつまで経っても最終結論に至れないのです。そうした難しさを指摘しつつ、今回の検討を終了します。
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巻向に邪馬壹国をもっていこうとされますが、そもそも巻向には舶来品がろくに有りません。北九州由来の土器も殆どありません。一大率を伊都国に置い巻向て諸国を監視して、外国の使者や舶来品のチェックをしてから女王国に送る訳ですよね。この伊都国を含む地域と女王国が出土物にかなり違いがあるというのは甚だ矛盾です。大型古墳を早い時代から継続的に作らせるにもおかしいと思います。巻向には集落跡がありませんからね。東遷、東遷といいますがたくさんの人を東にやれば平和裏に本当に移民出来たのでしょうか?さらに、戦争で五瀬命が命を落としてまでも神武天皇はなぜ奈良に入ったのでしょうか。しかも和歌山からですよ、河内湾ではなくです。それから、王位についてから周囲の人々がほぼその姿を見ていないはずの卑弥呼が女王であると魏志倭人伝は記していますが、魏の使者はどのようにして知ったのでしょうか?倭人達がその気になれば言わずに済んだはずでしょう。でもそんな事をすれば親魏倭王として認められなかったでしょうね。

Re: タイトルなし

暇人様

コメント有難うございます。

>巻向に邪馬壹国をもっていこうと
そんなこと一言も言っていませんよ。暇人さんは邪馬台国の大きさに関してご理解されているのですか?邪馬台国は7万戸ですから人口が20万から30万人の当時としては恐ろしく巨大な国になるので、纏向のような小さな領域内では全く収まらないと思いませんか?

>戦争で五瀬命が命を落としてまでも神武天皇はなぜ奈良に入った
饒速日は戦もすることなく大和に入っていますが…?

まあ瑣末な点はともかく、暇人さんは私の記事内容をきちんと読めていないようで、基本的な部分を誤認されています。少なくとも「邪馬台国はどこにある その1」から全部読んでいただいたうえでコメントください。また邪馬台国が北九州にあるとお考えなら、その根拠を箇条書きで結構ですのでお知らせください。

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