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浜松の秦氏 その29

浜松の秦氏
01 /02 2019

明けましておめでとうございます。新年の始まりは蜂子皇子の母である小手子から見ていきます。彼女は確か養蚕や機織に関係しているはずと思っていましたが、その通りでした。詳細はWikiから引用します。

小手子(こてこ)は、第32代天皇崇峻天皇の妃。大伴連糠手(おおとものむらじぬかて)の娘。崇峻天皇との間に蜂子皇子と錦代(にしきて)皇女の一男一女を儲ける。小手子には、現在の福島県川俣町に落ち延びて養蚕を伝えたという「小手姫(おてひめ)伝説」がある。小手子の子、蜂子皇子は厩戸皇子(聖徳太子)の計らいで京を逃れ、山形県鶴岡市の出羽三山の開祖となったと伝えられるが、小手子も、蜂子皇子を捜し求めて、実父と娘・錦代皇女とともに東北に落ち延びた。旅の途中に錦代皇女を亡くした小手子は、故郷の大和の風情に似た、現在の福島県伊達郡川俣町や伊達市月舘地域にとどまり、桑を植え養蚕の技術を人々に広めたという。その後小手子は、蜂子皇子に会えないことを悲嘆して、川俣町大清水地内にある清水に身を投げたと伝えられている。
史跡 機織神社(川俣町) 小手姫の霊を祭る。

いかがでしょう?小手子自身も中央を離れ東北にまで逃げていますが、この内容に違和感を覚えませんか?そもそも崇峻天皇暗殺の原因は、即位から5年後の592年に献上された猪を見ながら天皇が、いつの時かこの猪の命を絶つように、私が嫌いと思う人の命を絶とう、と独り言を言ったのを、小手子が蘇我馬子に密告したことによるものであり、馬子にしてみればこれ幸いとばかりに天皇を暗殺した訳です。

天皇暗殺に貢献した小手子がなぜ逃げなければならないのでしょうか?蘇我馬子から感謝されこそすれ、逃げる必要など全くないはずです。一方、小手子の子供である蜂子皇子の場合は崇峻天皇と血が繋がり、逃げる必要があるかもしれません。前回で蜂子皇子は長谷部王の子なので644年に秦氏の保護の下で逃げたと書きました。けれども、蜂子皇子を長谷部王の子とする「上宮記下巻注云」の記事は本文ではなく注に記載されたものです。その場合、注が書かれた時代も考慮する必要があります。さて困りましたね。原点に戻ってもう一度この問題を考え直してみましょう。その中心にはもちろん「上宮記」の存在があります。

では、「上宮記」とはどのような史書だったのか?書名から判断すれば、聖徳太子の命により編纂が始まった歴史書だった可能性があります。歴史書と言っても、書名からして私家版の歴史書のはずで、聖徳太子の死去(622年)に伴い編纂も終了するはずです。その史書に注が付けられた訳ですから、「上宮記」は私家版にもかかわらず「日本書紀」と肩を並べ得る史書だったと想定されます。くだらない偽書の類であれば、注が付くなど有り得ません。また私家版的な性格から、聖徳太子一族に関する注は、一族と同時代に近い時期に付けられたはずです。

さてそこで、公平に見て蜂子皇子が崇峻天皇、長谷部王のどちらの子であるかは確率的に50%、50%になると思われます。これではどちらとも言えない状態ですが、よくよく考えれば「日本書紀」の場合、政治的な思惑や何らかの意図に基づく捏造・改変が数多く見られました。一方「上宮記」は私家版的性格があるので、そうした思惑の入る余地は少ないと判断されます。以上の観点から長谷部王の子である蜂子皇子だけでなく、その母小手子も蘇我入鹿の乱を避け、秦氏の保護の下、東北方面へ向かったものと考えます。

小手子が養蚕や機織を逃亡先の地元民に教えた伝承も、秦氏の保護下で逃げたと考えれば納得できる話となります。そうした視点からさらに調べてみました。すると、「神戸大学経済経営研究所「新聞記事文庫」の「蚕業と大和史 吉村県蚕業技手談」に面白い記事があったので以下引用します。

福島県蚕業取締所の編簒に係る「福島県の蚕糸業」と題する冊子に仁徳大皇即位十四年大和国高市郡川俣の庄司秦峰能其女小手姫を携え今の川俣(福島県伊達郡)の地方に来り気候風土の蚕業に適するを認め養蚕製糸織物の業を教う之を東国蚕業の開始となす云々とあるを見て吉村県蚕業技手は大和史の上に就て調査する所があった、

秦峰能(秦峯能)の娘である小手姫が養蚕製糸織物の技術を地元に教えたとあります。おや、小手子の父である大伴連糠手がいつの間にか秦氏にすり替わってしまいました。地元伝承では追手の追及を逃れるため大伴連糠手が名を変えたとされているようですが、秦川勝と蘇我入鹿の関係はよくなかった(注:平野邦雄氏の見解)はずで、秦姓に変えるのが安全策とは到底思えません。(注:崇峻天皇の時代であれば安全策だったのかもしれませんが)

上記の、秦峰能が娘の小手姫と逃げたと書かれた伝承こそが、小手子が秦氏の保護下で東北にまで避難した事実の証明になると思います。蜂子皇子や小手子が秦氏の保護下で逃げたストーリーの基本構造は内藤家由緒書と全く同じです。だとすれば、蜂子皇子や小手子の避難行動も蘇我入鹿の乱による中央の混乱を避けるためのものであり、644年に起きた話だとほぼ確定できることになります。但し、「福島県の蚕糸業」と題する冊子に仁徳大皇即位十四年云々は時代を遡らせ過ぎですね。

参考までに、福島県伊達郡川俣町字舘58に鎮座する機織神社を見ていきましょう。きちんとした由緒は見られませんが、川俣町のホームページには以下の記載がありました。

機織神社は今から1400年前、崇峻天皇の妃である大伴小手子(小手姫)が政争に巻き込まれた実の息子の蜂子皇子を探し、この地にたどり着きました。この地に養蚕を伝えた神様として、祀られています。

以下のブログには多くの写真が掲載されていますので、参照ください。
https://ameblo.jp/idjericho/entry-12170105532.html

仁徳天皇云々の由緒は川俣の「機織神社縁起」や「小手濫觴記」より引用したもののようで、その内容は近世になって形成されたものだと以下のPDFは主張しています。けれども、何もないところに伝承が出現するはずがなく、何らかの古い情報が後代に伝えられた結果、それらが再生成されたと考えるべきでしょう。
http://ko-sho.org/download/K_025/SFNRJ_K_025-02.pdf

さて、蜂子皇子を崇峻天皇の子と見るか、聖徳太子の子供・長谷部王の子(聖徳太子の孫)と見るか、論者によって意見・見方は様々でしょうが、644年の中央の緊迫した政治情勢と同年に秦川勝が富士川に行ったり、播磨国坂越の浦に避難したりする動きの実態(実際には秦氏の中央の混乱を避ける動き)も踏まえれば、蜂子皇子は長谷部王の子で秦氏に保護されつつ避難し、その母の小手子もまた秦氏の保護下で避難したとする可能性の方が高いことになります。(注:蜂子皇子や小手子、大伴連糠手に関する今回の論証はやや強引な面があったことは否めません)

非常に不可解に思えるのは、崇峻天皇の殯(もがり)がなかった点です。暗殺後の政治情勢に混乱はなく、にもかかわらず殯がないのであれば、崇峻天皇は名前だけの人物に過ぎず、誰も重要視していなかったと言えそうです。そんな人物が何らかの理由で暗殺されたとしても、蜂子皇子が避難する必要はないはずで、天皇の存在感は限りなく薄れていきます。これらの点を勘案すれば、やはり蜂子皇子は聖徳太子の孫(長谷部王の子)と考えるしかなく、内藤家由緒書と同様に入鹿の乱から避難したことになり、年代も644年となりそうです。

内藤家由緒書の信憑性を検討するため、ずいぶん話が横にそれてしまったようです。纏めれば、蘇我入鹿が山背大兄王一族を自害に追い込み、その後の政治を専断し、これを嫌った秦氏が山背大兄王の子供を保護しつつ遠江国に向かった話と、長谷部王の子である蜂子皇子及びその祖父や母の逃避行の構造が基本的に同じであることから、内藤家由緒書には一定の信憑性がある。となります。

ただ、あくまで一定の信憑性に留まります。例えば聖徳太子の三皇子が浜松に来たとの内容は既に書いたように誤りです。これは地元で自分の立場を高く見せるため秦氏が盛った話とも見做せますし、実際に山背大兄王の子供かそれに類する貴人を保護しつつ遠江国に入ったとも言い得ます。

他にも秦氏や服部氏が644年に遠江国に到来した可能性を示唆するものがないか見ていきましょう。以前に「東三河の秦氏 その37」で、新城市大野の服部神社(赤引きの糸関連)をアップしました。同社の解説板にはこの地が大化元年の645年頃に服部郷と称されたとあり、年代的に秦氏と服部氏が遠江国に来た時期とほぼ合致しています。

豊川の河口は秦氏が多いので、浜松の前に秦氏と服部氏一行が船で来訪し上陸した可能性もありますが、豊川の場合は秦氏と関係する千手観音出現譚が見られません。また東三河における秦氏が、浜松のケースと異なり今に至るまで存在しているのは、入鹿の乱を避けるためではなく、それ以前から定着し現在に至ったからと考えられます。よって豊川の場合、秦氏と同行した服部氏の一部のみが別行動をとり、豊川を遡って新城市大野に定着したと推定されます。

三つ柏服部さんが調査された榛原の教育委員会発行の『榛原町の地名』には、
服織氏の定住と服織地名 
大化改新(645)と前後して、勝田(かつまた 榛原郡)郷の海岸地域(静波)に入ってきたのは服織氏であろう。大化改新(645)と前後して、勝田(かつまた 榛原郡)郷の海岸地域(静波)に入ってきたのは服織氏であろう。
」と書かれているとのことで、これも同様の動きと理解されます。

豊川の上流部である新庄市大野が645年頃服部郷と称され、大井川流域に近い榛原郡にも645年前後に服部氏が入ってきたとされるなら、二つの大河に挟まれた形の馬込川(古代の天竜川本流)流域へと、秦氏に率いられた服部氏が644年にやって来たとする酔石亭主の推論も正しいことになりそうです。

以上、643年年末の蘇我入鹿による山背大兄王襲撃と一族の自害、翌644年から続く入鹿の中央政治の専断を嫌った秦氏は、西は自分たちだけで播磨国方面へ、東は聖徳太子の孫を保護しつつ服部氏を伴って遠江国から駿河国、相模国(注:服部氏が相模まで行った形跡はない)へ、北は蜂子皇子を保護しつつ丹後の由良から東北へ、さらには蜂子皇子の母を保護しつつ東北へと、少なくとも4回に亘り避難行動をとったことになります。そして、その一つが内藤家由緒書の形で残されたのです。

随分と長くなりましたが内藤家由緒書関連の検討は以上です。次回は三皇子の墳墓ともされる蛭子森古墳を見ていきます。
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