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浜松の秦氏 その41


今回は服部連公の解説板の最後の部分をもう一度アップします。

地名服部は全国各地にありますが、連の住まいしたのはこの地であり、塚脇が墳墓の地「連塚」になります。

塚脇が墳墓の地「連塚(服部連塚)」となるので、この場所に行ってみましょう。


服部連塚の位置を示すグーグル地図画像。

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石碑と塚。

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石碑を拡大。服部連塚とあります。

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塚を拡大。

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解説板。内容を以下に書き出します。

服部連塚は、直径14m、高さ2.5mで、横穴式石室をもつ円墳(えんぷん)である。被葬者は、5世紀中頃に諸国の機織(織部)を統率した服部連と伝えられ、上宮神社と呼ばれていたが、明治四十一年(1908)に神服神社に合祀され当時の鳥居が今も残っている。塚脇一帯には、六~七世紀頃に築造された三十数基の古墳が群集し、塚脇古墳群と呼ばれている。そのうちの一つは、南平台の市立埋蔵文化調査センターに移築・復元され、保存・公開されている。

解説板では被葬者は5世紀中頃の服部連となっていますが、これは允恭天皇の時代に服部連を賜ったとされることからそう書いているものと思われます。一帯の古墳が6~7世紀の築造とされているので、服部連塚も実際には6世紀頃のものではないかと推察されます。

酔石亭主の視点では秦氏と服部連は644年に浜松に移住していますので、古墳の築造はそれ以前に終了していると判断されますが、少し異なる見方もできそうです。一般的な古墳時代の終了時期は畿内・西日本の場合7世紀前半頃と考えられています。理由としては6世紀の終わり頃から仏教寺院が建立され始め、死者の弔い方が変化してきた点が挙げられます。この点を踏まえると、浜松移住以前に古墳の築造は終わっていた可能性も否定できません。

さて、神服神社と服部連塚は見終わり一定の検討も進めましたが、秦氏と服部連の関係について地元ではどんな見方をしているのでしょう?調べたところ、地元の郷土史家は以下のように書いていました。

允恭が治めていた5世紀中葉、半島から渡来人弓月君がやってきた。後年秦氏を称する氏の先祖で、同族を多数率いて渡来した。その一人に麻羅と名乗る人があり、かれがこの服部地域に養蚕の技術をもたらした。用水路設計など農業技術をはじめ養蚕機業をもたらし、服部に豊かさをもたらしてくれた恩人は麻羅氏であった。この麻羅氏の何代目かの子孫が「宿祢」の位を朝廷より賜り、麻羅宿祢と称したのである。またこの一族は機業に従事していることから、「機」(はた)氏の姓を賜り、かれらが元は中国秦朝の子孫として朝鮮半島に移住したとの由緒をもっていることから、「ハタ」の漢字に「秦」をあて、秦氏ととなえるようになった。秦氏は機業に携わる部民を統括する職務を与えられ、彼の傘下にある村々は「服部」と呼称されるようになったのである。島上郡の服部を支配する秦氏は、諸国に散在する機業従事者を統括する職務を命じられ、「服部連」という姓(かばね)を朝廷よりさずかり、秦氏は服部氏を称するようになり、その支配下村も「服部」村と称されるようになったのである。現在、塚脇には「服部連」を葬った「連塚」(むらじつか)が残る。明治期まではその妻の墓とされる「御女塚」(おんにょつか)も存在していた。

書き方の違いや誤解も幾つか見られますが、色々参考になる記事だと思います。詳細は以下のホームページを参照ください。
http://sokemuku.lolipop.jp/furusato_qing_shui_de_quno_li_shi/shen_fu_shen_sheto_ji_li.html

上記のように地元では秦氏=服部連と見ているのは間違いないようです。高槻市は服部連の中心地に当たることから、この地に服部姓が多いはずと考えて苗字ランキングでチェックしたところ、大阪府下で最も多い69件となっていました。ただ、既に書いたように各町内に1~2件程度と薄く広く分布しており旧服部郷に集中してはいません。秦姓に関しては14件で決して少なくはないのですが、他の地域にも秦姓が多いため、府下では6番目となっています。

ここまで神服神社における秦氏と服部連を中心に検討を進めてきました。不十分ながらある程度の解読はできたようなので、少し話題を変え、気になるところを見ていきたいと思います。「浜松の秦氏 その16」で以下のように書いています。

太田亮氏の姓氏家系大辞典5巻には、「遠江の服部 延喜式、長上郡に服職神社、榛原郡に服織田神社あり。共に古代服部の奉齋せし神社なるべし。而して、長上郡に服部氏の名族あり。」と書かれていました。

姓氏家系大辞典5巻詳細は以下のデジタル史料コマ番号127を参照ください。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1123956

この太田氏の見解は、遠江国の長上郡に服部氏の名族がいるとの主旨であろうと理解し、では何が服部氏の名族に当たるのか、逆にもやもやした気分が残り続けていました。そうした気分の中何度も読み返し、二通りの解釈・見方ができるのではないかと思えるようになったのです。

今までの検討から、酔石亭主は神服神社(当時は服部神)の服部連も秦氏に同行し遠江国にやって来たと理解しています。従って一つ目は、服部氏の名族を遠江国に来た服部連とする見方です。服部連であれば、諸国の服部を総領する立場であり、しかも秦氏系と言い得るので、名族と評価できる存在となります。それは太田氏が服織神社と服織田神社に関して「服部」と表記し、長上郡の名族は「服部氏」と書き分けていることからも理解されます。

秦氏と共に遠江国に来た呉織、漢織の流れに連なる機織集団(伎倍人)としての服部氏の場合はどうでしょうか?彼らの祖は機織女工であり、彼ら自身も機織職人なので名族とは言い難いものがあります。となれば、遠江国に来た服部連が長上郡の服部氏の名族と考えて間違いはなさそうです。他の可能性として太田氏は、例えば室町時代から江戸時代辺りまでの服部氏を長上郡の名族としたのかもしれません。

ところがです。コマ番号128には播磨の服部氏の項に遠江同様名族と書かれており、出自は書かれていませんが、服部道存以降何人もの名前が挙がっています。このように太田氏は、時代が下った場合必ず具体的な個人名や由来を入れたり、「又後世」と言った文言を付けたりしており、そうした記述のない遠江国の場合は室町~江戸時代の話ではないと考えられます。

太田氏は遠江国に関して「共に古代服部の奉齋せし神社なるべし。而して、長上郡に服部氏の名族あり。」と書き、古代服部の後に続けて、長上郡の服部氏の名族を書いています。この流れと具体的な個人名がない点を踏まえれば、長上郡における服部氏の名族は古代の名族と考えるしかなく、遠江国に来た服部連が長上郡の服部氏の名族と考えて間違いはなさそうです。

ここまでが一つ目の見方です。けれども、遠江国における服部連の存在は酔石亭主が様々な状況証拠を基に推断したものであり、同国に服部連が存在するとした史料は、知る限りでは見当たりません。それなのになぜ、太田氏は長上郡に服部氏の名族あり、と断定的に書けたのでしょう?ここがどうにも理解しがたい部分となって残ってしまいます。と言うことで、二つ目の見方を考えてみます。

上記の姓氏家系大辞典5巻コマ番号127を見ると、日本各地の服部郷や服部氏に関してかなり詳しい記述が見られます。それらの中で服部連が書かれているのは、もうご存知のように大和国と摂津国のみになります。大和国の服部連は遠江国とは関係なく、関係があるのは摂津国に鎮座する神服神社の服部連と推定していますので、太田氏がどう記述しているか見ていきましょう。

摂津国に関しては、「當國島上郡に服部郷を収む。當國には服部連住す。」と書かれていました。さてそこで、服部氏の名族と言う限り、遠江国において該当するのは服部連と考えるしかなく、この部分は動かせません。摂津国の服部連と遠江国における服部氏の名族をどう繋ぎ合わせればいいのか?そこまで考えてハタと気付いたのが、摂津国島上郡に服部郷を収む。の部分です。

遠江国の場合は長上郡、摂津国の場合は島上郡。ちょっと見ただけでは間違いなく混同しそうな郡名です。長上郡に服部氏の名族あり。との記述はこの混同に起因するものなのかもしれません。そうした解釈から具体的には以下の可能性が指摘され、二つ目の見方となります。

太田氏は遠江の服部に関して、「服織神社と服織田神社は服部の奉斎する神社だ。そうして(而して)、(高槻の)島上郡には服部氏の名族(すなわち服部連)がいる。」と書いたつもりだった。名族と断定できたのは彼らが摂津国の服部連だったからである。太田氏は、史料にはないものの、摂津国の服部連が遠江国にも来ているはずと理解し、その点を踏まえ、遠江の服部の項で摂津の島上郡にいる服部氏の名族(服部連)を書き入れた。印刷前の校正で編集者が島上郡を長上郡の間違いだと勘違いし、長上郡に直して印刷に回し、太田氏はその変更に気が付かなかった。その結果、「長上郡に服部氏の名族あり。」との記述で書籍が出版され、読み手の混乱を招いた。

以上、長上郡の服部氏の名族とは遠江国に来た服部連を意味する、長上郡は島上郡の誤記で摂津国にいた服部連を指す、と言う二つの解釈・見方を提示してみました。どちらが正しいのか太田氏にお聞きしたいところですが、残念ならが同氏は既に泉下の人。お聞きする術はありません。

次回は蜂前神社の検討に戻り、神服神社との関係も含め総合的に見ていく予定です。
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