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浜松の秦氏 その43

浜松の秦氏
01 /24 2019

今回は秦氏=服部連とする他の例を調べるため、豊中市服部元町1丁目2-17に鎮座する服部天神宮を訪問します。


鎮座地を示すグーグル地図画像。

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服部天神駅のプラットホーム。

結構な巨木がそのまま残されています。他でこのような例はほとんどないと思われ、ちょっと感動しました。駅から服部天神宮まではすぐの距離です。

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狭い通り。

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解説板。かつては殷賑を極めた能勢街道だったとのことです。

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鳥居と比較的狭い境内。境内右手に建物があります。

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建物。何が祀られているのでしょう?

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古い五輪塔のようなものが…。よほど名のある方のお墓だったのでしょうか?

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五輪塔を拡大。

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解説板。読みにくくなっているので、以下に書き出します。

摂津国豊能郡は、もと川辺郡と称し、ここにあった川辺荘は藤原魚名公の別業であったと伝えられ、ここ服部郷は川辺郡機織(はたおり)郷から服部(はっとり)と地名が生れたといわれています。川辺左大臣藤原魚名公は藤原鎌足の曽孫にして光仁、桓武両朝に幾多の要職を歴任しましたが、延暦元年事に坐し太宰府に左遷御下向の途次、摂津国川辺荘の別業において病に臥して身を動かすことあたわず「よろしく京都に帰養すべし」と恩勅がありましたが、遂にこの地にて薨ぜられ、服部郷松ヶ市にその骸を葬られました。それより約百年後の延喜元年、菅原道真公もざん言に逢い太宰府に流される途次、足の病に悩まされましたが此の地において村人の案内によって医薬の祖神少彦名命を祀る天神祠に詣でその平癒を祈願されました。そして境内近く路傍の片隅にある五輪塔を御覧になって、これはまさしく先賢魚名公の墳墓であることを知られ、「昨日は人の身、今日は吾が身にふりかかるさだめか」と嘆ぜられ懇ろに供養を捧げられました。かくて菅公は吾が天神祠と魚名公の御神霊の加護によって足の病が全快し、無事太宰府に旅立たれたと伝えられます。菅公歿後この天神祠に菅公の霊を合祀し堂宇を建立し、吾が服部天神が全国津々浦々にまで聞こえて、足の神様としての霊験をいただく善男善女で門前市をなす様になったと申し伝えられています。魚名公の子孫の正統は四条家で、四条流包丁道を伝え、この四条家の祖たる魚名公は、日本料理、割烹料理の祖神として料理飲食を業とする方々の崇敬を集めています。

摂津国豊能郡は、もと川辺郡と称し、服部郷は川辺郡機織(はたおり)郷から服部(はっとり)と地名が生れたとのこと。この記述はいつの時代の話だったのか明確ではありません。多分大化の改新前後の情報ではないかと思いますが、その当時川辺郡に機織郷があったとの史料が見当たらないので内容の確認ができない状態です。もう少し丁寧な説明が欲しいですね。

祀られている五輪塔に関しては、なんと藤原鎌足の曽孫である藤原魚名の墓とのこと。この人物の生誕年が養老5年(721年)ですから、随分古い話になります。その百年後には菅原道真が大宰府に流される途中に立ち寄り天神祠に足の痛みの平癒を祈願されたとか。そして境内近くの五輪塔を見て、魚名公の墳墓であると知られたそうですが…、この部分はちょっとおかしいと思います。五輪塔が供養塔、供養墓として造られるようになったのは平安時代末期以降だからです。

それはさて置き、この場所には色々な歴史が詰まっていると知らされました。服部天神宮と秦氏や服部連の関係は次回とします。
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