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古墳から見た大和の古代 その5


今回は成務天皇陵に治定される佐紀石塚山古墳を見ていきます。位置は佐紀陵山古墳の左隣なので、「その3」の地図画像を参照ください。

以下Wikipediaより抜粋します。

佐紀石塚山古墳(さきいしづかやまこふん)は、奈良県奈良市山陵町字御陵前にある古墳。形状は前方後円墳。佐紀盾列古墳群を構成する古墳の1つ。
佐紀陵山古墳(伝日葉酢媛命陵)の西に接する前方後円墳で、墳丘は南面している。全長218.5メートル、後円部の径132メートル、高さ19メートル、前方部は幅121メートル、高さ16のメートル規模である。墳丘は三段に築成され、葺石が多用されているために石塚山古墳の名がある。
前方部の前面をのぞいて、周濠の幅は全体に狭いが、ことに東側では極端に狭く、佐紀陵山古墳(日葉酢媛命陵)の後円部の周濠が当古墳のくびれ部にくいこんだ状況である。佐紀陵山古墳が先に築造されていたためであろうが、どのような理由から、このように接近させて古墳を築造させたのか不明である。佐紀陵山古墳との時期差は数十年の差はないようであるので、両古墳の被葬者には親族関係など特別な関係が存在したのかも知れない。周濠外には、北から東北にかけて3基の陪塚があって、順次い号、ろ号、ほ号と名付けられている。
佐紀石塚山古墳は成務天皇陵に治定されているが、「続日本後紀」によると神功皇后の狭城盾列後陵と間違えられた時期があり、843年(承和10年)、奇異があることにより、改めて北を神功皇后陵、南を成務天皇陵と決められたことが記録されている。



佐紀陵山古墳との寄り添い具合を示すグーグル画像。写真で見ると寄り添い具合がよくわかります。

築造は4世紀末頃とされているので、垂仁天皇陵とほとんど時代差がない状態となっています。またWikiも指摘するように日葉酢媛命陵に寄り添うように成務天皇陵が築造されています。両古墳の寄り添い具合からすると、成務天皇陵を真の垂仁天皇陵とする方が筋も通りそうにも思えてきます。逆に、2基の古墳がいずれも丘陵部を最大限に利用する形で築造されたためで、寄り添ったのではなく、単に効率性の問題だったと見ることも可能です。

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よく整備された拝所です。

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石柱に成務天皇狹城盾列池後陵(さきのたたなみのいけじりのみささぎ)と刻まれているようです。

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周囲はすがすがしい公園のような風情です。

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松と古墳。

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周濠と古墳の写真。

「日本書紀」によると、成務天皇の時代に国造・県主が設置されたことになっています。けれども、国造制度などは5世紀の終わりから6世紀の初め頃の話なので、全く整合していません。他の事績はないに等しいので、成務天皇の実在性にも疑問が出てきます。成務天皇の宮殿は志賀高穴穂宮(しがのたかあなほのみや)で、現在の滋賀県大津市穴太となっています。宮殿と墓の場所に全く整合性がないため疑問も出てきますが、これには何か意味があるかもしれないので、後の回で検討してみます。天皇の実在性はさて置いて、200m超級の大王墓と考えられる4世紀末頃築造の佐紀石塚山古墳が存在するのは事実であり、古墳の大きさに相当する大王がいたのは間違いないと思われます。

ややこしいのは、佐紀陵山古墳(日葉酢媛命陵)、宝来山古墳(垂仁天皇陵)、佐紀石塚山古墳(成務天皇陵)次回で見ていく五社神古墳(神功皇后陵)のいずれも、4世紀後半の後期から末頃(5世紀初頭も含む可能性あり)の築造となるので、彼らが生きていた時代(4世紀半ば過ぎから後半)がほぼ重なってしまうと判断される点です。

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