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古墳から見た大和の古代 その12


今回はウワナベ古墳を見ていきます。古墳の位置は前回の地図画像を参照ください。コナベ古墳の東側にウワナベ古墳があります。残念ながら写真はお粗末極まりないものになっているので、興味のある方は地図画像からストリートビューでご確認ください。

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背後に見えるのがウワナベ古墳です。

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古墳を撮影。

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後円部です。

以下Wikipediaより引用します。

ウワナベ古墳(宇和奈邊古墳/宇和奈辺古墳)は、奈良県奈良市法華寺町にある古墳。形状は前方後円墳。佐紀盾列古墳群(ウワナベ古墳群)を構成する古墳の1つ。
実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「宇和奈辺陵墓参考地」(被葬候補者:第16代仁徳天皇皇后八田皇女)として陵墓参考地に治定されている。佐紀盾列古墳群の東端に位置する。

ウワナベ古墳は5世紀中頃の築造で、被葬者は八田皇女に治定されていますが、磐之媛命から酷く嫌われた八田皇女が磐之媛命と同じ墓域に埋葬されるなど有り得ない話です。従って、磐之媛命の墓とされるヒシアゲ古墳同様、ウワナベ古墳の被葬者も八田皇女ではなく佐紀王朝の誰かとなります。

ここまで四基の佐紀古墳群(東群)を検討した結果、かなり興味深い内容が浮き彫りになってきました。まず、コナベ古墳(墳丘長204メートル)、市庭古墳(推定復元墳丘長253m)は築造時期が5世紀前半で、誉田御廟山古墳(応神天皇陵)と相似形であることから応神天皇とほぼ同時代であると確認されます。

そして古墳の設計の配布は佐紀王朝が河内王朝に先行している点、河内にある墳丘長200mの摩湯山古墳が佐紀陵山古墳の相似墳で設計を配布されたと考えられる点、などを考慮すると、コナベ古墳・市庭古墳の設計が誉田御廟山古墳に配布されたと見做せます。また事実関係は別として、応神天皇は神功皇后の子とされていることから、佐紀王朝出身の(或いは佐紀王朝に所縁がある)人物と考えられ、後に河内に移住して巨大な勢力を築いたとも理解されます。応神天皇が佐紀王朝と関係があるなら、コナベ古墳・市庭古墳の設計が配布されたと考えても違和感はありません。

誉田御廟山古墳は古市古墳群最大の古墳である一方、同古墳群の最古は津堂城山古墳で墳丘長208m、築造時期は4世紀後半から末となっています。規模は大王墓級ですが、近くに陪冢(ばいちょう)と推定されるような小古墳が存在しておらず、在地の大王ではなく佐紀王朝から河内に送り込まれた人物と推定されます。

津堂城山古墳は二重の濠と堤や造出しを有した古墳であり、この構成は誉田御廟山古墳や大山古墳(仁徳天皇陵)などの超巨大古墳に引き継がれました。津堂城山古墳の場合、古墳の設計は摩湯山古墳のように佐紀陵山古墳から配布されたものではありませんが、その影響を受けていたとの推測は可能です。

藤井寺市ホームページによると、佐紀陵山古墳に見られる前方部の渡り土手を墳丘から切り離すと津堂城山古墳の島となり、佐紀陵山古墳のくびれ部付近の濠内に造られた島を墳丘に引き寄せて接続すると津堂城山古墳の造出しになるそうです。やや無理筋とも思われますが、詳細は以下の2件のホームページを参照ください。
https://www.city.fujiidera.lg.jp/rekishikanko/kodaikaranomesseji/daiofunhanazeidosurunoka/1387424976491.html
https://www.ne.jp/asahi/fudoki/fujiidera/07)kofungun/4)kofun/6)shiroyama/shiroyama.html

津堂城山古墳の被葬者は仲哀天皇、応神天皇、日本武尊など諸説あり、また葛城氏との関係も想定されそうなので、酔石亭主の能力では藤井寺市見解(多分書いた方は専門家でしょう)の正否を論じることはできません。ただ、この見解が正しいとすれば津堂城山古墳の設計思想は佐紀陵山古墳の発展形と位置付けられることになります。

上記したように、河内王朝の巨大古墳と佐紀王朝を繋ぐ地下水脈が存在するのであれば、コナベ古墳と市庭古墳の設計が誉田御廟山古墳に配布された可能性は高くなります。配布の背後には古墳の造営に力を振るった土師氏の存在も見逃せません。それを証するかのように誉田御廟山古墳の北東部には土師の里があり、一帯の古墳築造に彼らが関与していたのは間違いないと思われます。その場合、コナベ古墳と市庭古墳の設計を誉田御廟山古墳に応用したのは、佐紀王朝の指示に基づき河内に移住した土師氏とも考えられます。

もちろんこれには別の見方も可能です。「その8」にて書いたように、佐紀王朝の主流派だった忍熊王を神功皇后と応神天皇が排除して応神天皇に政権のバトンが渡り、天皇が新たな主流派となった上で河内に移住。その後大勢力を築き、佐紀王朝の古墳築造に従事していた土師氏を呼び寄せて、自分の墓を築造させたとするシナリオです。コナベ古墳と市庭古墳の設計を土師氏が担当していたとすれば、その基本設計を巨大化する形で彼らが応神天皇陵の築造を指揮したことになります。

以上、応神天皇陵の設計思想に関して二つの可能性を書いてみましたが、どちらかに限定させるのは難しそうです。ただ、どちらの場合も土師氏が関与していたのは間違いないでしょう。続いての検討課題として佐紀古墳群全体の時代を概観してみます。

ヒシアゲ古墳(磐之媛治定陵、218m、5世紀中葉から後半の築造)とウワナベ古墳(八田皇女治定陵、265m、5世紀中ごろの築造)に関し、事実関係は別として仁徳天皇の皇妃の墓と治定されている点や築造時期から見て、同天皇の時代にほぼ相当していると考えられます。

よって佐紀王朝は「日本書紀」の書紀紀年において、垂仁天皇、成務天皇、仲哀天皇、神功皇后、応神天皇、仁徳天皇の時代に相当し、実年代では300年代後半後期から400年代半ば過ぎまで、約80年程度継続した王朝であったと確認されます。但し、西群と東群の間で築造時期に時代差があることや、忍熊王の反乱事件などから、佐紀王朝主流派、反主流派の間で政権交代があったと見られます。

内部抗争はいつの世にも付きものですが、抗争を乗り越えるかのように佐紀王朝の時代だけで8基(垂仁天皇陵も含む)もの200m超級の巨大古墳が築造されました。それなのに、「日本書紀」に取り上げられたのは神功皇后だけになっているのが奇妙でなりません。(注:既に書いたように成務天皇は実在しない可能性が高く、佐紀古墳群に充てられただけと考えられる)

佐紀古墳群の東群の中でも市庭古墳は墳丘長253m、ウワナベ古墳は265mと実に巨大であり佐紀王朝の大王に相応しい古墳なのにそうした扱いとなっておらず、ウワナベ古墳とヒシアゲ古墳の2基は仁徳天皇の皇妃に充てられる形で無視されています。垂仁天皇に至っては、実際には景行天皇の後なのに過去に飛ばされて崇神天皇と景行天皇の間に置かれ、宮殿も三輪王朝のように見える三輪山の北側にあったことにされ、酷い扱いとなっています。

こうした佐紀王朝の無視の背後に「日本書紀」編纂者の意図、言い換えれば当時の天皇家の意図があったはずで、次回からその辺の事情を探っていきたいと思います。

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