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古墳から見た大和の古代 その14


前回までで佐紀古墳群に関する謎や疑問はほぼ解消されたように思えます。これで一安心としたいところですが、神功皇后に関しては別の大きな問題が残っていました。それは彼女の主な活躍の舞台が大和ではなく北九州になっている点です。この点に関連して皇后の夫となる仲哀天皇はどうなるのかと言った問題も浮上してきます。研究者によると九州における神功皇后の伝承地は3000か所もあるとのことで、膨大な数の伝承が事実だとすれば皇后は大和ではなく北九州の人物とせざるを得ません。

一方で、但馬、丹波、近江、山城、大和北部へと続く彼女の系譜の流れから判断すると、北九州とは縁のない人物になると見られ、相互に矛盾を来しています。また奈良盆地北部の佐紀古墳群と言う極めて狭い墓域に築造された多数の大王墓の中で、神功皇后のみが北九州の人物になり得るはずがありません。彼らは言うまでもなく、同じ一族或いは同じ集団に属した大王たちになるでしょう。

これらの検討内容を踏まえると、あくまで暫定的な判断ですが、北九州における神功皇后は別人として位置付けるしかないように思われます。その別人に神功皇后の名前があることから、北九州の神功皇后伝説は同地にいた女性の首長をモデルとして、「日本書紀」の成立以降に神功皇后に事寄せして創作された可能性が出てきます。また神功皇后の名前は漢風諡号であり、淡海三船によって天平宝字6年(762年)~同8年(764年)頃に他の天皇と共に一括撰進されたと推測されるので、かなり遅い時代となってしまいます。

神功皇后を検討する際大きな問題となるのは、「日本書紀」の記述そのものです。特に仲哀天皇から神功皇后、そして応神天皇へと続く記事内容は非常に粉飾が多く、また幾つかの異なる時代の出来事を同じ時代として書いているため、問題をより複雑化させてしまいました。その結果変数が多くなり過ぎて、実態の解明が極めて困難になっているのです。

例えば、北九州の神功皇后と大和の神功皇后は同一人物か否か、応神天皇は神功皇后の子か否か、子である場合どちらの子か、仲哀天皇は実在するか否か、実在する場合どちらの皇后の夫か、忍熊王は仲哀天皇の子か否か、忍熊王は佐紀王朝の主流派か否かなど、どの流れを辿るかで結論も変わってしまいます。いずれにしても、全ての問題の起点にいるのは神功皇后となるので、上記した諸点も考慮に入れつつ、北九州における神功皇后の実像を各史料から検証してみましょう。

彼女の北九州における事績は三韓征伐と応神天皇の生誕が特に有名です。「日本書紀」にも、応神天皇は神功皇后の子供で北九州(筑紫の蚊田)にて誕生したと書かれていました。けれども、応神天皇陵が佐紀古墳群の市庭古墳やコナベ古墳の相似形である事実から、佐紀で生まれた後に河内に移って、本家をはるかに凌ぐ巨大な勢力となったとした方が合理的なように思えます。(注:この場合応神天皇は神功皇后の子供との前提ですが、応神天皇が神功皇后の子供でない可能性も既に指摘しています)もちろん応神天皇から仁徳天皇の時代(河内王朝の時代)にも佐紀王朝は存続し、ウワナベ古墳やヒシアゲ古墳などが築造されたのは既に書いた通りです。

北九州の神功皇后は別人なのか、或いはそうでないのか。この悩ましい問題を検証するため、応神天皇の生誕伝説を掘り下げてみましょう。最初に取り上げるのは「日本書紀」の記述です。神功皇后摂政前紀には、十二月十四日誉田天皇(応神天皇)を筑紫にお産みになったので、時の人が、その産み所を名付けて宇瀰(うみ)という。と書かれていました。この内容は極めてシンプルで明快なように思えます。天皇の生誕場所は現在の宇美八幡宮周辺とされ、鎮座地は福岡県糟屋郡宇美町宇美1丁目1番1号となります。住所が1丁目1番1号とは、宇美町がいかにこの場所を重要視しているかが伺えます。


鎮座地を示す地図画像。

宇美八幡宮のホームページによれば、伝承は以下のようになっています。
http://www.umi-hachimangu.or.jp/about/

当宮は、神功皇后が三韓征伐より御帰還され、産所を蚊田の邑(蚊田は宇美の古名)に定め、側に生出づる槐(えんじゅ)の木の枝に取りすがって、應神天皇を安産にてお産みになられたこの地を宇瀰(うみ)その後、宇美(うみ)と称されました。

宇美町は「魏志倭人伝」に出てくる不弥国(ふみこく)の有力な比定地となっています。従って、宇美は不弥が転じたものと見るべきで、宇美の古名が蚊田(かだ)であれば、不弥国の不弥と宇美の関連性が消滅してしまいます。ではなぜ宇美八幡宮が古名を蚊田の邑と書いたのか?それは「日本書紀」の応神天皇前紀に、筑紫の蚊田で生まれたと書かれているからです。

宇美と蚊田の二つの地名を整合させるため、宇美八幡宮はかなり苦しい書き方にするしかなかったと理解されます。多分蚊田の地名は別の場所にあるはずなので、あれこれ調べたところ「大城村誌」(おおきそんし、現在の久留米市北野町大城一帯)には以下のような記述がありました。
http://snk.or.jp/cda/ohokisi/

加駄についてはその所在に定説がありませんが、潟(かた、がた)即ち低濕な沼沢地帯が開拓されたことからその村名が起ったものでしょう。潟の渟名井や蚊田宮のことから察して現在稲数内になっている蚊田(加田)であることにまちがいないと信じます。

上記の「潟の渟名井」や「蚊田宮」に関して村誌を調べてみると、大城小学校々庭に益影の井(渟名井)がありました。また、往古神功皇后が三韓の遠征から凱旋され、蚊田の行宮で皇子(応神天皇)を出産された折、水沼の君が産湯としてこの水を差し上げたと伝えられている。これ以来村人達は、産湯としてこの清水を使うと生れた子は見目麗しく、賢く長寿であるとして大変珍重された。とのことです。

この詳細は以下のPDFの14ページを参照ください。
http://snk.or.jp/cda/kodaikyushu.pdf


久留米市北野町大城の位置を示す地図画像。

蚊田の地名が宇美町とは異なる場所のものであれば、「魏志倭人伝」に書かれた不弥国の不弥が転訛して宇美の地名になったと見ることができ、神功皇后が応神天皇を宇美町で出産したとの伝承も創作となります。久留米市北野町に鎮座する赤司八幡宮の「止誉比咩神社本跡縁記」にはより詳しい内容も書かれており、こちらが真の蚊田のようにも思えてしまいます。「止誉比咩神社本跡縁記」詳細は以下を参照ください。
https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwi4_6Wi0e3mAhVmxosBHfuRAmkQFjAAegQIAxAB&url=http%3A%2F%2Fsnk.or.jp%2Fcda%2Fohokisi%2Ffuroku%2F4toyohime.html&usg=AOvVaw1ODAPNgCVhgxQB-jAEeg9T

ただ大城村の場合、新羅遠征の関係地である香椎宮、伊都県(「魏志倭人伝」に書かれた旧伊都国)、対馬などからは距離が遠くなって、その意味での合理性に欠けるのが弱点となります。となると、他にも蚊田の候補地が存在するのかもしれません。次回ではそうした視点から探っていきたいと思います。

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