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古墳から見た大和の古代 その16


水石好きな酔石亭主ですから、ここで鎮懐石に関して詳しく見て行きます。「筑前国風土記逸文」によれば、鎮懐石は二個あり、一個が長さ一尺二寸(約36㎝)、周囲が一尺八寸(約54㎝)、もう一個が長さ一尺一寸で周囲が一尺八寸とのこと。重量に関しては四十一斤(約27.5kg)と三十九斤だそうです。色は白くて硬く、円いことはまるで磨いて造ったかのうようだとされます。(注:1尺が約30㎝、1斤が約670g、1両が約42gにて計算しています)

この記述から鎮懐石は楕円形的な形状で海擦れした石英だと理解されます。酔石亭主の所有する長さ約30㎝、周囲約58㎝の石(注:員弁川石で石英ではない)は、重量が約15㎏となり、ここから鎮懐石の場合、寸法に対して重すぎるような気もします。仮に「風土記逸文」の記述が正しいとして、これほど大きな鎮懐石2個(注:皇后の体重と同じかそれ以上になる)を裳の腰にさし挟むなど不可能な点が問題となります。現実的な側面から見れば、二人の侍女に持たせ、腰と腹に当て祈願したと言ったところでしょう。そして遠征の際は船に積み込んで持って行ったことになりそうです。

一方、既に書いた「万葉集」巻第五 山上憶良の歌は以下のように続いています。
筑前国怡土郡深江村子負原の海を臨む丘の上に二つの石がある。大きい石は、長さ一尺二寸六分(約38㎝)、周囲一尺八寸六分(約56㎝)、重さ十八斤五両(約12.2kg)。小さい石は、長さ一尺一寸、周囲一尺八寸、重さ十六斤十両。両方とも楕円形で卵のような形をしている。

この重量であれば、まあ妥当な数字と言えそうです。それでもなお2個で25㎏近い石を裳の腰にさし挟むのは困難です。従って、こちらの場合も二人の侍女に持たせ、腰と腹に当て祈願し、石は船に乗せたと理解されます。

これとは別に蚊里田八幡宮の由緒をベースすればまた異なる視点が得られそうです。同社宮の由緒によると鎮懐石の由来は、源義家が陸奥征伐に陣中の守護神として奉持し、戦が終ってその子の義隆に授けられ、仁平年間(1150)に現在の本殿裏山をゆかりの地、九州蚊田の里の地名を取って蚊里田山(かりたさん)と称し、その麓に蚊里田神社(かりたじんじゃ)として霊石を祀ったと伝えられている、とのことです。

こちらの鎮懐石は桐の箱に収められ、男根石と伝えられているそうですから、裳に入れることも可能なサイズと推定されます。男根石を祀る神社は各地にあり五穀豊穣や安産・子宝を祈願する対象となっています。この石の場合は裳の腰に挟んで遠征するのも、実際はともかくとして、理論的には可能と思われます。

蚊里田八幡宮の由緒をベースにした場合、暫定的な結論としては、本来の鎮懐石は2個の小さな男根石で、深江海岸にて拾われ、蚊田にて裳の腰に挟んで祈願し、新羅遠征に持っていき、帰還して応神天皇を出産した蚊田にて保管されたものであり、二丈深江の鎮懐石はそうした伝承に題材を得て、海岸にあった二個の丸みを帯びた大きな石英を拾い上げ、崇拝の対象としたもの、となります。(注:鎮懐石八幡宮由緒では深江海岸にあった二つの石を腰に差し挟んでとありますが、海岸の様子をグーグルで見ると砂浜が広がっているだけなので、深江の海岸にて採取された石かどうか確信はありません)

江戸時代1814年(文化11年)に建てられた石碑によると、今を距つる 百五六十年までは其石具に在り 後所在を失す 天和癸亥に至り驛民其一を拾得す 則ち鳩有り 其家を祥す 是に於いて邑民協議し小祠を建てて藏す 誓って人に示すを肯ぜず。とのことで1600年代中頃までは二個揃っていたが紛失し、天和3年(1683年)に驛の人が一個を拾ったことになります。また「筑前続風土記」には、寛永の末(1645年)まであったが盗人に盗まれ、近年(貝原益軒の編纂なので1683年で問題なさそうです)深江村の村民六郎が見出した。石は横7寸(21㎝)高さ6寸(18㎝)色少し赤青と書かれています。

いくつも違う寸法や重量があるのはともかくとして、紛失したのが事実だとすると、蚊里田八幡宮の由緒は誤りとなりますが、社名が蚊田から取られている点、石のサイズが現実的である点、鎮懐石が蚊田にあったとする場合そこが応神天皇の生誕地になる点、長野の地名が蚊田より持ち込まれた可能性がある点、鎮懐石八幡宮は鎮懐石以外の要素がない点などから蚊里田八幡宮の由緒を切り捨てることはできません。

また同社は、「八幡本紀及び筑前続風土記によるに霊石二個の内、一個は東国に移れること明らかなれば云々」と書かれた明治43年の史料画像を元にして鎮懐石は真正なものだとしています。(注:以下の同社由緒の一番下にその画像があります。なお「筑前続風土記」をざっと見てみましたが東国云々といった内容の記事は見当たりません)
https://www.karitahachiman.com/由緒/

色々ややこしいものの、蚊里田八幡宮の由緒をベースにした方が現実的な解釈になることから、あくまで暫定的にですが、鎮懐石を裳の腰に挟んだ場所と応神天皇の生誕地は同じ筑前国怡土郡長野村蚊田としておきましょう。具体的には、糸島宇美八幡宮一帯すなわち現在の糸島市長野、糸島市川付に相当します。(注:そもそも鎮懐石は実在したのか、応神天皇は本当に神功皇后と仲哀天皇の子なのかなど、もやもやした疑問も残っていますが、当面は各伝承や史料に沿って見て行くこととします)

では神功皇后はいつ頃新羅に遠征したのか?「新羅本紀」には倭人による新羅侵攻が300年代から400年代にかけて数多く記されていますが、神功皇后の死去年が実年代では389年なので、それ以前で最も近い時期の倭人の侵攻は以下の通りです。
364年 倭兵が大挙して侵入してきた。倭人は多数をたのんで、そのまま直進して来る所を伏兵が起ってその不意を討つと、倭人は大いに敗れて逃走した。
この年は敗北したものの、それ以前、以後のどちらも何度か勝った記述が見られます。これらを総合して神功皇后の三韓征伐譚が出来上がったのでしょう。

以上あれこれ書きましたが、神功皇后は伝承の量や史料面の集積度からして北九州の人物である可能性が主で、大和の人物である可能性が従になりそうな気配です。ちょっと困りましたね。
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