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古墳から見た大和の古代 その21

古墳から見た大和の古代
02 /12 2020

仲哀天皇の実像に関して、もっと別の視点から考えてみます。例えば後代の別の天皇をモデルにして創作した可能性です。その視点から見ると第19代・允恭天皇が怪しそうです。仲哀天皇の妃は大中津比売命で、允恭天皇の妃も忍坂之大中津比売命。允恭天皇の妃の場合、名前の頭に忍坂が付く点のみが異なるように思えますが、仲哀天皇の子に麛坂王(かごさかのみこ、香坂王)、忍熊王(おしくまのみこ)がいて、二人の名前に忍と坂があり、妙な繋がりが感じられます。忍坂は百科事典マイペディアによると以下の通りです。

奈良県桜井市の東部,外鎌(とかま)山西麓の古代以来の地名。恩坂,押坂とも書き,〈おさか〉ともいう。遺称地である桜井市忍阪は〈おっさか〉。地名〈忍坂〉は《日本書紀》神武天皇即位前紀や垂仁天皇39年10月条にみえ,後者の記事によるとこのとき大刀1千口を新たに作らせ,〈忍坂邑〉に収蔵したのち石上(いそのかみ)神宮(現奈良県天理市)に移している。

仲哀天皇陵は「日本書紀」によると「河内国長野陵」で、允恭天皇陵は「河内の長野原陵」と全く同じ場所です。仲哀天皇の重臣は中臣烏賊津連で允恭天皇の重臣は中臣烏賊津使主となります。仲哀天皇は新羅討伐に反対して亡くなっていますが、允恭天皇は新羅との深い友好関係が記紀に書かれています。これらを勘案すれば、允恭天皇をモデルにして創作されたのが仲哀天皇で、その実像は400年代前半から半ば頃にかけて糸島市の長野川流域に存在していた親新羅或いは新羅系の小さな邑の首長で、天日槍が率いた製鉄集団と近しい人物であった、となります。一応これが仲哀天皇の実像に関する最終的な結論とご理解ください。

神功皇后が応神天皇を生んだので古名の蚊田が宇美になったと言う宇美八幡宮の由緒は、この地が不弥国に比定されることから、不弥が宇美に転訛したもので、応神天皇生誕で宇美になったと言う伝承は後付けのものであると既に確認しています。では、仲哀天皇にも似たような話がないでしょうか?

既に書いたように、仲哀天皇が筑紫行幸の際、怡土県主らの祖・五十迹手が出迎え、天皇に八尺瓊勾玉、白銅鏡、十握剣などを献上、お褒めの言葉を頂いて伊蘇志(いそし)の名を与えられ、それがなまって伊覩(いと)→伊都になったと伝えられています。伊都国は「魏志倭人伝」に書かれた地名ですから、この地名由来は成立せず、後付けのものであると確認されます。ただ、神功皇后の系図上の祖先は、それが事実かどうかは別として天日槍であり、五十迹手も天日槍の後裔を称し、仲哀天皇と神功皇后の双方に天日槍を介して何らかの繋がりがあるように思えてなりません。

続いて「播磨国風土記」宍禾郡の御方里条を見ていきます。ここには、葦原志許乎命と天日槍命が黒土の志尓嵩(くろつちのしにたけ)に至り、それぞれ黒葛を足に付けて投げ、天日槍命の黒葛は全て但馬に落ちたので、天日槍命は伊都志(いづし、出石)の土地を自分のものとしたとあります。

仲哀天皇が天日槍の後裔・五十迹手に与えた伊蘇志(いそし)と天日槍の伊都志(いづし、出石)。どちらも天日槍に関連したもので、極めて似通った地名です。天日槍の但馬から丹波、近江、山城、大和北部へと続く流れの中に大和における神功皇后がいて、天日槍の上陸地に彼の子孫の五十迹手がいて仲哀天皇(に擬せられた人物)と関係があり、それは北九州において神功皇后に擬せられた女性首長へと繋がっていく訳ですから、天日槍は(心的な意味において)全てを結ぶ媒介の役割を担ったようにも思えてきます。

天日槍の天は美称で、日は太陽、槍は鉾、矛だと考えれば、太陽を祭祀する祭具としての鉾を人格化したものが天日槍とも理解されます。天日槍が実在の人物ではないとの前提で見れば、天日槍が心的な意味において全てを結ぶ媒介の役割を担ったとの理解も、ある程度納得できるものになりそうです。

「日本書紀」の編纂者はそうした背景や、糸島市と敦賀市を結ぶ見えない水脈も考慮して記事を書いたのかもしれません。問題は神功皇后の擬せられた女性首長の古墳が北九州に見当たらない点です。仲哀天皇のように事実関係は別として、皇后の墓とされる古墳があってもよさそうなものですが、この点が納得できない部分ではあります。

ところで、各史料は応神天皇を神功皇后の子としていますが、最新の考古学の成果に基づくと、「日本書紀」に書かれた応神天皇→仁徳天皇→履中天皇は、古墳の築造順で見ると履中天皇(5世紀前半の前期)→応神天皇(5世紀前半の後期)→仁徳天皇(5世紀半ば)になるようです。例えば履中天皇陵古墳の埴輪は土師質で三者の中では最も古い時代となり、応神天皇陵は土師質とより新しい須恵質埴輪が混在し、仁徳天皇陵は須恵質のものが主体となっています。

応神天皇陵は体積で日本最大とのことですから、仁徳天皇陵(築造に15年以上を要したと推計されている)よりも長い20年程度を要したと考えれば、実年代での推定没年が400年頃ですから420年頃の完工になります。5世紀前半の後期よりは早いのですが、何とか時代的な説明は付きそうです。けれども、履中天皇はどう扱えばいいのかとの疑問が残り、全体で整合性のある説明は不可能となります。無理やり筋を通せば以下のようにも考えられます。

三韓を討伐した(とされる)神功皇后の後に墳丘長で2番目・体積でトップの応神天皇を配置し、墳丘長トップの仁徳天皇に続けることで、「日本書紀」編纂当時の皇室はこの時代の日本の力量を広く知らしめることができると考えた。トラブルが目立ちそれほど事績のない履中天皇は仁徳天皇の後の時代に飛ばされてしまった……。

まあこれは単なる推測に過ぎず、古墳から古代を検討するのは本当に難しいですね。今回のシリーズでは神功皇后、仲哀天皇、応神天皇の生誕までの時代が主な検討対象となっており、応神天皇から仁徳天皇、履中天皇に関してはほとんど視野に入っていない状態です。これらの問題もまた機会があれば取り組んでみたいとは思っています。

ここ数回は主に仲哀天皇に関連する問題を追ってきました。あれこれ書いた割には仲哀天皇と神功皇后の関係や鎮懐石に関してすっきりしない部分が残っているので、次回で追加的に書いてみます。
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酔石亭主

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