FC2ブログ

北九州古代史の謎を解く その1

北九州古代史の謎を解く
03 /26 2020

今回から北九州に秘められた古代史の謎に挑戦します。古代史を検討する場合、今までは現地の神社などを訪問した上で、そこかしこに漂う雰囲気を感じ取りつつ、宮司さんや近隣の方のお話を聞き、諸史料などと照らし合わせながら調査を進めていました。けれども深刻化する新型コロナウイルスの問題を考慮すると、それらの作業を飛ばして書き進めるしかなさそうです。

幸い本シリーズにおいては、各史料に記録された最も古い時代を扱う予定なので、「魏志倭人伝」や記紀などの記載内容、ネット情報を基にした探索で何とか書いていけるはず、と勝手に楽観しています。もちろん近い将来、ぜひ現地を訪問したいとは思っていますが……。

さて、北九州は日本における古代史の始まりと根源の地であり、多くの謎が秘められています。今回は「魏志倭人伝」をベースに邪馬台国問題をさらに深めながら、伊弉諾尊や伊弉冉尊、天照大神の誕生、天岩戸、天孫降臨、日向三代、山幸彦と海幸彦など、記紀に記された神話群の意味するものを追求し、現実の中に落とし込んでいきたいと思っています。

酔石亭主の見解では、邪馬台国は北九州に存在できません。その理由も過去に何度か書いています。本シリーズでは多少の新しい知見も含め項目毎に纏める予定ですが、難しいのは陳寿が編纂した「魏志倭人伝」の中に、倭国への使節団が直接確認した内容、使節団が倭人から聞き取った内容、帯方郡の商人が倭人との交流の中で書き留めた情報、陳寿の見解などが混在していると推察される点です。加えて陳寿の生没年は233年~297年であり、卑弥呼の死後50年近くも生きていたことになります。従って、彼にとって卑弥呼の時代は過去のものであり、この点も考慮に入れる必要がありそうです。

また上記した事情から、各種公文書や史料の間のみならず、それらと陳寿が得た雑多な倭国情報との間にも、食い違いや相互矛盾、時代的なずれなどが生じている可能性を否定できません。当然陳寿も頭を抱え、幅広い年代の出来事がよく整理されないまま、また各記事間で相互に矛盾する部分を残したまま編纂作業が終了し、後代の私たちを悩ませる原因にもなっているのです。

このように「魏志倭人伝」には幾つかの気配りすべき事情や問題があり、それらを十分に踏まえた上で見ていく必要があるでしょう。なお「魏志倭人伝」の内容に関して、本論考を読まれる方は既にご存じとの前提で進める予定なので細かくは書きません。必要な方は以下のホームページに原文、訳文、採用資料の色分けまでされた力作がありますので、是非ご参照ください。と言うことで、早速検討に入りましょう。
http://www.eonet.ne.jp/~temb/16/gishi_wajin/wajin.htm

1「魏志倭人伝」を素直に読めば、邪馬台国は北九州から遠い場所にあると理解できる。
 邪馬台国に行くには、不弥国(福岡県宇美町など諸説あるが、どこであるにせよ北九州の範囲内)の次に南へ水行20日で投馬国に至り、そこから南へ水行10日、陸行一月の行程となります。方位や日数に疑問はあるものの、素直に読めば北九州の範囲内ではあり得ず、遠隔地に邪馬台国は存在すると理解される記述です。

さらに不弥国までの距離は里数(例えば奴国から不弥国までは百里)で表示されていますが、投馬国や邪馬台国までは日数表示であることから、これらの場所に帯方郡の使節は訪問しておらず、倭人から聞き取った内容であると理解されます。つまり伝聞情報なので、方位や旅程に誤りや誤解があると判定できるのです。

2邪馬台国が北九州にあったら倭国大乱は起きていない。
 「魏志倭人伝」には、七、八十年、倭国は乱れ、相攻伐すること歴年、などとあり、「後漢書」にも、桓帝と霊帝の治世の間(146年~ 189年)、倭国は大いに乱れ、相争った、とあります。争いはその後も長く続いたものと思われ、疲弊した各国は相談の上卑弥呼を共立しました。その結果一旦争いは収まりますが、卑弥呼の晩年には狗奴国との争いが起きています。

卑弥呼の死後男王が立ったものの、国中が不服で互いに争い、千余人が殺されました。これらの記述から倭国は小国が乱立し、小休止はあったものの、常に相争う状態が続いていたと理解されます。(注:倭国の範囲は北九州全域と考えられ、「魏志倭人伝」によれば当初は百余国あり後に30国に集約されています)

そうした倭国の状況を踏まえた上で、北九州沿岸の里程と戸数が表示されている各国を見ると、末盧国四千戸(14,000人)、伊都国千戸(3,500人)、奴国二万戸(7万人)、不弥国千戸(3,500人)となっていました。(注:一戸当たり3.5人で計算)他に里程と戸数が不明な21国、卑弥呼と敵対した狗奴国があります。これらに朝鮮半島の狗邪韓国や対海国(対馬)、一大国(壱岐)、女王国を含めたものが合計30国で北九州の倭国となります。

そう考える理由は、「魏志倭人伝」の冒頭に倭人(倭人の国=倭国)の交流可能な国は30国と書かれた記事があるからです。この国数や倭国の構成から見ても、邪馬台国は北九州に存在しないと理解されるでしょう。(注:上記30国から狗邪韓国と女王国を除き、投馬国と邪馬台国を入れて合計30国と主張することも形式的には可能です)

けれども、国数や倭国の構成だけで邪馬台国が北九州にないと断定はできません。最も重要と考えられるのは人口パワーです。北九州最大の奴国でも推計人口は7万人に過ぎず、仮に上記30国とは別に7万戸(24万5千人)を擁する邪馬台国が北九州にあったとしたら、同国の圧倒的な人口パワーから大乱など起きるはずがないのです。

よって邪馬台国が北九州にあるとの主張は、「魏志倭人伝」や他の中国史書の記述に不整合となり、間違いだったと確認されます。(注:邪馬台国が卑弥呼共立によりできた国との反論もあるでしょうが、共立により一瞬にして7万戸の国が登場したと考えるのは不自然で不合理です)

3邪馬台国を北九州に嵌め込むと地域の総人口が日本の推計総人口を越えてしまう。
 200年頃の日本の総人口は歴史人口学者が60万人、その他の研究機関が50万人、70万人との推計を出しています。そこで、「魏志倭人伝」の記述から各国の人口を推計してみましょう。一戸当たり3.5人との前提で計算します。

国名             戸数         人口
狗邪韓国(朝鮮半島南端部)  不明         3,500人(推定)
對海国(対馬)        千戸         3,500人
一大国(壱岐)        三千戸        10,500人
末盧国(唐津市の東松浦半島) 四千戸        14,000人
伊都国(糸島市付近)     千戸         3,500人
奴国(福岡市付近)      二万戸        70,000人
不弥国(福岡県宇美町など)  千戸         3,500人
女王国            婢と兵士       1,500人(推定)
小計             三万戸       110,000人
(卑弥呼の女王国とその北側にある国で合計8国)
                        
斯馬国、巳百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、為吾国、鬼奴国、邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国の21国。
21国の小計(一国当たり千戸として推計)二万千戸   73,500人 
 
(注:「魏志倭人伝」には21国に関し、その余の旁国は遠くして絶へ、詳を得べからず。とありますが、斯馬国は後の志麻郡(現在の糸島市北部)と判断され、「魏志倭人伝」の記述は明らかにおかしく、21国は遠隔地ではなく倭国を構成する北九州の範囲内に収まると理解されます。また倭人の交流可能な国は30国と書かれた記事とも矛盾し、これ一つ取っても情報ソースがまちまちであると確認されます)

狗奴国                        35,000人  
(不明だが卑弥呼に敵対する実力から一万戸と推計)        

(注:狗奴国は熊本県の菊池川流域に比定され、方保田東原(かとうだひがしばる)遺跡からは多数の土器、鉄鏃、刀子、手鎌、石包丁形鉄器、鉄斧など武器その他の鉄製品、巴形銅器、銅鏃、小型仿製鏡などの銅製品が出土しています)
 
ここまでの合計                     218,500人

投馬国            五万戸          175,000人
邪馬台国           七万戸          245,000人
小計                          420,000人

総合計                         638,500人
 
いかがでしょう?里程と戸数不明の21国を各千戸と最小限に見積もっても、邪馬台国と投馬国を含めた前提での北九州の人口が日本の推計総人口を越えてしまいました。仮に日本の推計総人口が60万人の三倍で180万人であったとしても、その3割以上が北九州にいるなど有り得ない話です。よって邪馬台国は北九州に存在できません。(注:弥生時代の人口に関する内閣府の記述は以下の2ページ目を参照ください。ここには歴史人口学の研究者である鬼頭宏氏の「人口から読む日本の歴史」を引用して60万人と書かれています。)
https://www8.cao.go.jp/shoushi/shoushika/whitepaper/measures/w-2004/pdf_h/pdf/g1010100.pdf

ここまで200年頃の人口に関し、日本全体で60万人に対し北九州が8国+21国+狗奴国で218,500人との前提で書いています。ややくどくなるかもしれませんが、人口問題は重要なので別の視点からも見ていきます。歴史人口学者である鬼頭宏氏によれば、日本全体の60万人に対する北九州(注:鬼頭氏のデータは北九州と言う場合、壱岐、対馬、筑前、筑後、豊前、豊後、肥前の前提)の人口は驚いたことに40,500人しかいないことになっています。詳細は以下のWikipedia記事を参照ください。

https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwjTxLX7zcLjAhVGHKYKHYguB_UQFjAAegQIAhAB&url=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E8%25BF%2591%25E4%25BB%25A3%25E4%25BB%25A5%25E5%2589%258D%25E3%2581%25AE%25E6%2597%25A5%25E6%259C%25AC%25E3%2581%25AE%25E4%25BA%25BA%25E5%258F%25A3%25E7%25B5%25B1%25E8%25A8%2588&usg=AOvVaw3x27xT9spXZ7Qa-LZFUq6F
 
北九州に関して狗奴国も含む前提で考えれば、肥後の一部も含めることになり、仮に北九州で50,000人としても、日本の全体数である60万人の8.3%に過ぎないことになります。そんな馬鹿なと思われるでしょうが、現在の日本の総人口に対する、福岡、佐賀、長崎、大分、熊本各県の合計を%で見たところ、驚いたことに約8%とほとんど変わらない数字が出てきました。こうなると、「魏志倭人伝」の戸数に関する記事が相当盛られている可能性もありますし、人口学の専門家による総人口60万人の数字も絶対視はできません。

どんな設定で見るのが最も適切なのか悩みますが、試しに240年頃の北九州倭国の推定総人口である218,500人(「魏志倭人伝」に基づく数字)を8%で割ってみました。この場合、日本の推定総人口は273万人となります。273万人は「魏志倭人伝」をベースにして北九州の総人口に邪馬台国と投馬国を含めない前提での数値です。

明確な根拠はないものの、この総人口の場合、ひょっとしたら有り得るかもしれません。仮に邪馬台国と投馬国を含むとした場合はどうでしょう。638千人を8%で割ってみると、日本の総人口は800万人近い数字になり、全く非現実的なものとなってしまいます。以上の人口に関する考察から、やはり邪馬台国と投馬国は北九州にはなかったと確認されます。
スポンサーサイト



コメント

非公開コメント

酔石亭主

FC2ブログへようこそ!