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北九州古代史の謎を解く その2

北九州古代史の謎を解く
03 /28 2020

前回までで邪馬台国が北九州に存在できない理由を三つ挙げました。今回は四つ目の理由から書き始めます。

4邪馬台国が北九州にあるとすれば、人口面で他の各国と不整合が起きる。
 邪馬台国の推計人口は245,000人、前回で書いた北九州の8国+21国+狗奴国で218,500人となります。8国+21国+狗奴国を倭国とすれば、邪馬台国の人口規模は倭国をはみ出してしまいます。(注:投馬国も北九州とすればさらにはみ出す)邪馬台国北九州説の論者は倭国(北九州の30国の総称)と邪馬台国の領域をどう分別されるのでしょうか?北九州だけで既に30も国があるのに、それ以外に邪馬台国の7万戸を配置できる場所はなさそうです。投馬国も北九州とすると配置の困難さはさらに増してくるでしょう。

また、21国は戸数不明と「魏志倭人伝」に書かれているのに、北九州全体を覆うはずの邪馬台国が7万戸と戸数が書かれており、矛盾してしまいます。21国の戸数が不明なら、邪馬台国の戸数も不明となりませんか?さらに「魏志倭人伝」では6国の戸数が表示されています。邪馬台国が北九州に存在するなら、6国の戸数は邪馬台国の内数になってしまいますが、「魏志倭人伝」を読めば6国、投馬国、邪馬台国はそれぞれ別個の戸数として書かれていると見るしかなく、大きな不整合が生じます。

5邪馬台国=女王国とする誤解。
 邪馬台国に関して「魏志倭人伝」には女王の都する所と書かれており、これとは別に女王国の名前が頻出し、その女王は卑弥呼であると判断される書き方となっています。北九州説論者は「魏志倭人伝」の、邪馬台国は女王の都するところとの記述と、北九州にある女王国は女王・卑弥呼の国になる点を根拠として、邪馬台国=女王国と考えます。

この論理の流れだと卑弥呼が女王である邪馬台国(=女王国)は北九州に存在するとの結論になるしかありません。こうした見解は大きな矛盾を生じさせますが、北九州説論者は意識的或いは無意識的に目をそらし続けているようです。ではどんな矛盾が生じるのか見ていきましょう。
 
「魏志倭人伝」によれば、女王国では侍女が千人も侍り、男子一人が飲食物を運び言葉を伝え、女王の住居に出入りしている。また宮殿や高楼は城柵が厳重に作られ、警護の兵士が武器を持って警護しているとのこと。これらの記述から、女王国は卑弥呼の宮殿、侍女のための各種設備と住居、兵士による防御のための高楼や城柵と住居などによって構成されていると考えられます。女王国に戸数が書かれていないのはこのためで、一般的な国邑とは大きく異なっているのです。そう理解すれば、女王国と戸数が記載された邪馬台国は別個の存在だと確認できるはずです。

次に女王国の位置を検討します。「魏志倭人伝」には、女王国より以北は、その戸数・里程を略載できるが、とあります。従って、末盧国から不弥国までの戸数・里程が書かれた6国の南側に女王国が存在できることになります。この場合6国全体に対して南と見れば、大宰府辺りが想定可能ですし、宇美町が不弥国なら大宰府はその南とも言い得ます。また大宰府は狭小で盆地的な場所なので、卑弥呼の宮殿、侍女などのための付帯設備、防御のための城砦を配置する程度の余裕は十分にあります。

けれども、6国の南に7万戸の邪馬台国を配置できる余地はありません。なぜなら、行程と戸数の不明な21国が6国の南を含む周辺に既に存在しているからです。いや、邪馬台国はそれらを支配下に置いた総称だとの論も出てくるかもしれませんが、総称は既に書いたように倭国であって邪馬台国ではないのです。続いてもっと別の視点から絞り込んでみましょう。

「魏志倭人伝」には、女王国の以北は特に一大率を置き検察し、諸国はこれを畏怖する。常に伊都国に治す。国中に於ける刺史(州長官)の如く有り、と書かれています。また卑弥呼が使者を派遣したり郡から来た使者に応対したりするのは伊都国の役目となっています。こうした伊都国の機能、女王国の以北に設置された一大率が伊都国に常駐する点などから判断すれば、女王国は伊都国(現在の糸島市、福岡市西区一帯)に隣接した南に位置すると考えるのが最も妥当な見方となりそうです。


糸島市の位置を示すグーグル地図画像。

さらに、糸島市には多くの北九州説論者が卑弥呼の墓(或いはその母か祖母の墓)とする平原遺跡(平原王墓)があります。この点はかなり説得力の高い見方になると考えられるので、これらを併せて考えれば卑弥呼の女王国は伊都国の南側(或いは伊都国内の南側に宮殿を造り女王国と称した)にある可能性は高そうです。と言うことで、以下のグーグル画像を参照ください。


平原遺跡(平原王墓)の位置を示すグーグル画像。拡大してご覧ください。

この地図で見ると一目瞭然ですが、平原遺跡から南の山麓まで2.5㎞しかなく、伊都国の南に邪馬台国を配置できないのは言うまでもありません。伊都国の南に婢と警護の兵士で千五百人程度がいる女王国があったとする場合には、そうした疑問も完全に払拭されます。但し、女王国と推定される出土物が確認されていない現状では、仮説の域を出ないことになります。またこの場合、末盧国、奴国、不弥国に対しては南とはならない問題も発生します。

そうした問題はあるものの、大宰府近辺、伊都国の南のいずれも7万戸の邪馬台国を配置できる余地はなく、邪馬台国=女王国ではないことは確認できるはずです。今まで誰もこの問題を提起しなかったのが酔石亭主には不思議でなりません。北九州説論者は意識するしないに関わらず、邪馬台国が伊都国の南、或いは6国の南に存在できない事実から目をそらしているのではないでしょうか?
 

伊都国の中心と推定される場所を示すグーグル画像。拡大してご覧ください。
 
拡大すると多くの古墳や遺跡の名前が出てきます。この位置の少し南で、西側の台地上に卑弥呼の宮殿があったのかも。

6邪馬台国は鉄鏃(てつぞく=鉄のやじり)や鎧、鏡、絹、勾玉など先進的な出土物がある場所に存在するとの思い込み。
 邪馬台国北九州説を唱える論者の畿内説に対する反論を見ると、弥生時代における鉄鏃(てつぞく=鉄のやじり)や鎧、絹、鏡、勾玉など先進的な出土物に関し、全国でも福岡県が圧倒的に多い点を挙げています。また鏡に関してはその大きさのトップ5までが平原王墓出土となっている事実に基づき、そうした出土物がほとんどない畿内説を厳しく批判しているのです。以下のホームページにはこれらの論点が実に詳しく書かれているので参照ください。
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku370.htm

けれども、鉄鏃の出土数の多さは「魏志倭人伝」に書かれたように、小国同士の争いが長く続いた事実を証明するものに過ぎず、その他の先進的出土物も北九州が大陸との交流と諸物品の取り入れ窓口であったことを証明するだけで、これらを理由・根拠にして邪馬台国が北九州にあったと証明することはできません。ある国がどこに位置するのかを決めるのに、出土物は本来何の関係もないのです。

北九州論者は、邪馬台国は鉄鏃や鎧、絹、勾玉、大型の鏡など先進的な出土物が多い弥生時代の先進地域に存在しているはずとの思い込みをベースに、福岡県(北九州)はそれらが圧倒的に多い、だから邪馬台国は北九州以外にないと、一種の自己言及的な論理を展開しているのです。その主張にいかに強いバイアスがかかっているか理解されます。

これは邪馬台国畿内説論者にも同じ思い込みがあり、詳細は長くなるので省きますが、卑弥呼と邪馬台国を幾つかの論点から大和に結び付け畿内説を唱えています。この説に対し北九州論者が奈良県には福岡県のような出土物が何もないと主張すれば、返答に窮することになります。

邪馬台国問題は思い込みや思い入れを排し、客観的で合理的な視点から検討すべきでしょう。そして、邪馬台国と卑弥呼の女王国を切り離しさえすれば、北九州に卑弥呼の女王国があり、畿内(人口から判断すると近畿地方全域)に邪馬台国があることになって、両説のどちらにも軍配を上げられ、めでたしめでたしになるのではないかと思います。

面白いのは弥生時代における鉄鏃(注:2世紀から3世紀にかけての弥生時代後期に普及した武器)の出土数に関して、福岡県が398でトップ、熊本県が339で第二位となっている点です。「魏志倭人伝」によれば、正始8年(247年)、帯方郡太守の王頎が着任し、倭女王の卑弥呼は使節を派遣して、狗奴国と戦争状態であることを説明しています。

狗奴国を熊本県(の一部地域)に比定すれば、卑弥呼を共立した国々にほぼ匹敵する軍事力を持っていることになり、鉄鏃の出土数が「魏志倭人伝」の記述を証明するものとなっています。(注:「魏志倭人伝」には、女王の境界の尽きた其の南に狗奴国があると書かれ、倭国の範囲が狗奴国(熊本)の北になるとも受け取れる内容です。ただ既に書いたように狗奴国も併せて30国になることから、狗奴国は中国側から見て倭国に含まれると考えられ、倭国は狗奴国(熊本)を南限とする北九州の範囲内と理解されます)

ここまで邪馬台国が北九州に存在できない理由を六つほど書いてきました。次回は七つ目から始めます。
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酔石亭主

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