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北九州古代史の謎を解く その6

北九州古代史の謎を解く
04 /09 2020

前回までは「魏志倭人伝」の内容をベースにして、台与の東遷と邪馬台国は近畿地方全域を意味する点を論証してきました。一定の成果はあったものの、まだ不十分であるのは言うまでもないので、引き続き探索する必要があります。

ただ、「魏志倭人伝」の検討は一応終わったので、今回以降は記紀神話から北九州古代史の謎に迫りつつ、台与の東遷と邪馬台国問題も検証していきたいと思っています。検討範囲としては、記紀神話の伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)による国生み、伊弉諾尊の禊と天照大神の誕生、天岩戸、天孫降臨、日向三代、山幸彦と海幸彦の神話までとして、これらの神話を現実に落とし込みながら、古代の北九州で何が実際に起きたのかを見ていく予定です。

その際重要なのは、上記の各神話の元になる事実がどこで起きたかを特定することです。と言うか、場所の特定さえできれば良しとすべきでしょう。酔石亭主の視点では、卑弥呼の女王国は伊都国の南或いは伊都国内の南部にある、となります。また、飛行機も自動車もない時代の話ですから、神様の行動範囲は相当狭いものになるはずです。

この2点を前提として考えれば、卑弥呼は天照大神の原像なので、天照大神に関連する神話の元になった現実が、伊都国及びその周辺一帯に存在していることになります。本当に記紀神話に見合う現実が伊都国とその周辺にあるのか、早速検討を始めましょう。探索を進めるため「日本書紀」で天照大神以前にまで時代を遡り、伊弉諾尊と伊弉冉尊の国生みから見ていきます。

「日本書紀」では天地開闢の話から始まり、伊弉諾尊と伊弉冉尊までで神代七代となります。この二神が天浮橋に立ち矛を指し下ろすと、矛先から潮が垂れて島になったので、彼らはその島をオノゴロ島と名付けました。そこで二神は島に天降り国を生むのですが、淡路州(淡路島)や伊予二名州(四国)など具体的な名前が出てきます。だとすれば、オノゴロ島も同様に現実の島が存在していると考えられます。では、どこにこの島があったのでしょう?酔石亭主の視点では当然伊都国にも近い場所になるはずです。

と言うことで調べたところ、博多には能古島(のこのしま)があり、古代の海上交通の要所となっていました。Wikiによれば、神子柴系石器群の片刃磨製石斧が表採されているほか、島内各地から黒曜石製の打製石器が表採されている。島の南東部の高台にある北浦遺跡や島南部の西遺跡では、弥生時代前期末から中期前葉の弥生土器が表採されたほか、島北端の也良でも磨製石斧が表採される。とのことです。

かつて能古島の北部には防人も配置され、本土防衛の重要拠点でもありました。また外敵の侵攻に備えた烽火台もあり、敵の船が襲来すれば大宰府に急報できる態勢になっていたようです。能古島はオノゴロ島と語感も似ており、弥生時代の土器も発掘され、古代の日本にとって重要な島であることから、オノゴロ島の候補としての資格を有しています。

能古島の名には、「神功皇后が住吉の神霊を残した島なので残島(のこのしま)になった」といういわれがあるとのことですが、神功皇后が応神天皇を生んだので古名の蚊田が宇美になったと言う宇美八幡宮由緒と似たような地名由来です。神功皇后以前を想像してみれば、位置関係や島の名前からここ以外にオノゴロ島に対応する場所はなさそうです。(注:後で古田武彦氏の「盗まれた神話」(ミネルヴァ書房)を読んだところ、同氏は能古島がオノゴロ島だとされていました)


能古島の位置を示すグーグル地図画像。

以上から能古島を伊弉諾尊と伊弉冉尊が天降ったオノゴロ島と仮定し、続いて伊弉諾尊が禊をして天照大神を生んだ場所の検討に入ります。

オノゴロ島に天降った二神は大八州国(日本)を生みますが、伊弉冉尊は根の国(黄泉の国)に行ってしまいました。悲嘆にくれる伊弉諾尊は伊弉冉尊を追って根の国に行き、彼女の恐ろしげな姿に驚いて逃げ帰ります。その還った場所が「日本書紀」神代第5段第6の一書に、「筑紫の日向(ひむか)の小戸(おど)の橘(たちばな)の檍原(あわきはら)」と書かれ、「古事記」では「竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘の小門(おど)の阿波岐原(あはきはら)」とあり、両書ともほぼ同じです。

「古事記」では黄泉の国と現世の境を出雲国の伊賦夜坂(いふやさか)としていますが、これは大和の西に位置する出雲国に死のイメージを付与させようとした天皇家の考えに基づいているものと思われます。それを証明するかのように、あくまで神話上の話ですが、出雲国の大国主神が死んで鎮まった出雲大社は天日隅宮(あめのひすみのみや)、日御碕神社は日沉宮(ひしずみのみや)と称され、日が沈むすなわち生命が消える西の方向にあるとのイメージとなっていました。

これに対して伊弉諾尊が禊をした「日向」は日に向かう東向きの方角で、日の出すなわち再生を象徴し天皇家にとって善き方位となるのです。このように東西を対比させた観念の操作から「古事記」の編纂者は黄泉の国を出雲に置いたのですが、実際にはオノゴロ島である能古島で伊弉冉尊が死に、それを嘆いた伊弉諾尊が能古島を去り小戸に上陸して禊をしたと解すべきでしょう。

と言うことで、上記した「筑紫の日向の小戸」がどこにあるのか探ってみます。一般的に日向は南九州とされますが、筑紫は明らかに北九州であり、矛盾しています。ではどこに?既に書いたように、飛行機も電車も車も利用できない当時の神様のことですから、彼らの活動範囲が狭いのは容易に想像できます。

上記の原則をベースに考えれば、神様にとって身近な場所に「筑紫の日向の小戸」があると想定されます。例えば二神が天降ったオノゴロ島(=能古島)に近い場所はどうでしょう?その前提で「筑紫の日向の小戸」を探してみると、驚いたことに小戸は能古島の海を挟んですぐ南に位置していました。


小戸の位置を示すグーグル地図画像。福岡市西区になります。

オノゴロ島(能古島)にいた伊弉諾尊が対岸の小戸に逃げたとすれば、小戸がオノゴロ島(能古島)の存在を証明すると同時にオノゴロ島が小戸の存在を証明する、相互証明の形になりそうです。神話と現実の場所がもうリンクし始めましたね。小戸に関してWikiでチェックすると、波食で崩落してできた狭間を指す小門(おと)が地名の由来で、小戸神社が鎮座する丘陵と御膳立(ごぜんだち)の丘陵に挟まれた地を呼称する。「福岡市文化財地図」によると、両丘陵上には古墳が7基確認されている。とのことでした。小戸や小門、小渡には海峡や港の意味もあるようです。

能古島に近い小戸は伊弉諾尊が禊をして天照大神を生んだ場所の最有力候補と思われますが、異なる説もありますので見ていきましょう。「福岡県神社誌」には、阿波岐原は博多湾に注ぐ那珂川と比恵川の間に発達した三角州と推考されている。とあり、住吉神社(福岡市住吉町)の項には「当神社は伊弉諾命の予母都(よもつ)国より帰りまして、禊祓給ひし筑紫の日向の橘の小戸の檍原の古蹟」と書かれていました。

博多の住吉神社が主張する小戸に関して、能古島の海を挟んで南に位置する小戸から直線距離で約1㎞南東の福岡市西区姪の浜3丁目5-5に姪浜住吉神社が鎮座しています。同社には伊弉諾尊が禊をする際河童が手伝ったとの伝承があるので、住吉神社は多分姪浜の伝説を取り込んだのでしょう。その証拠に、「大日本名所図録」の姪浜住吉神社境内の図には「姪濱産土神住吉宮は筑紫日向橘小戸檍原の旧跡にて筒男三神の誕生の地也」と書かれていました。従って、「筑紫の日向の小戸」の小戸は博多の住吉神社ではなく、能古島の海を挟んで南に位置する小戸がより有力だと理解されます。


姪浜住吉神社の位置を示す地図画像。

「福岡県神社誌」は以下のコマ番号8及び84を参照ください。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1040130/129

「大日本名所図録」は以下のコマ番号146を参照ください。かなり読みにくいですが…。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/762205

小戸の比定地は他にもあるので見ていきます。例えば、下関に小戸があり宮崎にも小戸神社が鎮座していました。下関と彦島を隔てる海峡は小瀬戸海峡ですが、小門海峡とも呼ばれていますし、下関側の伊崎には小門の地名があって、対岸の彦島の地名にも小戸(おど)があります。宮崎市には日向市や阿波岐原町があって、江田神社が鎮座しており、伊弉諾尊が禊を行った地であると伝えられています。Wikiによれば、当社の周辺には古代の集落跡が多数あり、代表的なものには弥生時代初め(約2,400年前)の檍(あおき)遺跡がある。また、古墳時代の初期(3世紀末)の前方後円墳・檍1号墳からは国内最大の木製墓室・木槨跡が見つかった。とのことです。

下関の場合、長門国一宮の住吉神社が関係しそうですが、同社は神功皇后が住吉三神から我が荒魂を穴門の山田邑に祀れとの教えを受け、そのとき津守連の祖・田裳見宿禰が神の欲するところを必ず定め奉ると言って荒魂を祀る神主になっています。要するに筑前の那の津から分祀した訳で、それに伴って下関に小門の地名も付けられたのでしょう。

宮崎市の阿波岐原町はドンピシャリの地名で、日向の地名もこちらが本家本元のように思えてしまいます。加えて小戸神社や江田神社、全国住吉神社の元宮と称する住友神社など、神話に関係する神社が漏れなく出揃っていました。

小戸神社、阿波岐原町に鎮座する江田神社、元宮と称する住友神社は以下を参照ください。
http://www.odo-jinja.jp/rekishi.html
https://www.travel.co.jp/guide/article/25299/
https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwiv8Iv8vv7jAhUXIIgKHcXGDV4QFjAAegQIABAB&url=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E4%25BD%258F%25E5%2590%2589%25E7%25A5%259E%25E7%25A4%25BE_(%25E5%25AE%25AE%25E5%25B4%258E%25E5%25B8%2582)&usg=AOvVaw1vaARvBYvl6o1XZAnILF-9

ただ、弥生時代における副葬品(鏡、勾玉、剣など)の出土は北九州が圧倒的に多くなっており、宮崎は少ない点が弱みです。加えて宮崎は半島や大陸との交易窓口になり得ません。さらにあまりにも地名や神社が整い過ぎているのは、それらが後代のものであることを示していると考えられます。

「魏志倭人伝」の検討の中でも少し触れていますが、宮崎の地名は多分筑紫の日向にいた人々が移住した結果、地名が持ち運ばれたもので、その地名と「日本書紀」の記述を基にして関係する神社が創建されたのでしょう。(注:この間の事情は後の回でも検討します)

酔石亭主の視点は、伊弉諾尊と伊弉冉尊が天降ったオノゴロ島、伊弉諾尊の禊と天照大神の誕生、天岩戸、天孫降臨、日向三代、山幸彦と海幸彦へと続く日本神話は、ほぼ同じ地域内で起きた話だと言うものなので、やはり筑紫の日向の小戸は福岡市西区の小戸を採用すべきと考えます。また天照大神の原像は卑弥呼で、彼女の女王国は伊都国の南或いは伊都国内の南にあったとすれば、福岡市西区の小戸も伊都国に含まれてしかるべきですが、この点も後の回で検討してみます。

以上から、伊弉諾尊と伊弉冉尊が天降ったオノゴロ島を能古島に、伊弉諾尊が黄泉の国から逃げ帰り禊をして天照大神を生んだ場所を福岡市西区の小戸に特定しておきます。もちろんこれは暫定的なものとご理解ください。次回も小戸に関する検討を続けます。
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