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東海の秦氏 その8


今日は大井川流域を見ていきます。まずこの一帯には榛原郡があり、地名に秦の文字が入っていることから、秦氏の居住地域があったと理解できます。

加えて大井川と言う川の名前自体が秦氏の命名によるものと思われます。秦氏は6世紀頃京都の葛野川に堰堤を作り、以降、渡月橋の上流が大堰川(おおいがわ、大井川)、下流は桂川と呼ばれるようになったのですが、大月の桂川、葛野川と同様、静岡の大井川は京都の大堰川の名を持ち込んで付けたものと見て間違いなさそうです。

以上を前提に今回のテーマに入りたいと思います。ご記憶にあるかどうかわかりませんが、以前桓武天皇の子である葛原親王が東国に下向した折、親王家の家令である秦福代が同行した可能性を指摘しました。(カテゴリ:相模国の秦氏、タイトル:頼朝以前の鎌倉 10月2日)それを大井川流域にある秦氏の痕跡から証明していきます。

では、大井川を河口から30kmほど遡りましょう。国道一号線の新大井川橋を渡り、大井川鉄道に沿って北上します。途中道路はかなり高度を上げ、大井川の絶景が眼下に広がります。よそ見をすると危ないのですが、しばらく走ると川の右岸(下流に向かって右側)にある小集落福用に至ります。福用の地名と秦福代。ほぼ同じ名前です。福用の西には小福代という地名も残り、過去には福用、福与、福世、福代を姓にする家が多かったと伝えられています。

現在福用に福用、福代姓を名乗る人はいませんが、1500年頃、地震による崩落で村全体が埋まり、村人はこの地を離れざるを得ず、その時避難した人々が流域に住みつき、福世、福与姓を名乗ったという昔話があるそうです。また初倉には福用姓の方がおられるとのことです。

以上の根拠から、集落名の福用は秦福代から取った地名と推定されます。秦福代がこの地に到来したとすれば、福用には地名以外にも秦氏の痕跡があるはずで、次にそれを探っていく必要があります。ということで、この地に鎮座する神社を見に行きます。

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福用駅です。可愛らしい駅舎ですね。

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お茶畑が広がる福用の村落。のどかで穏やかな雰囲気が漂っています。

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白光神社へ至る道もお茶畑の中。

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白光神社。

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解説板。

福用の西には八高山があり、山頂には白光神社奥宮が鎮座しています。時間の関係もあり山登りはできなかったのですが、奥宮の御由緒によれば、福用の地は初倉村を治めた「秦氏」ゆかりの「福代氏」がこの集落を治めたとも記録されている、とのことです。初倉はかつて「秦の倉」と呼ばれていたそうで、屯倉の管理を担当していた秦氏らしい地名です。

以上、福用の地名は秦福代が大井川を遡りこの地に居を構えたことに由来すると理解できます。なお、初倉には葛原親王の時代以前に秦氏が入植していたはず。だとすれば、葛原親王に同行した秦忌寸福代はまず初倉に入り、その後親王と別れて大井川を遡ったか、あるいは福代の一族が初倉に残留し、後に川を遡って福用の地に入ったものと推定されます。また八高山と言う名や白光神社も秦氏の関与がありそうなネーミングですね。

さらに、『竹下村誌稿: 大正13年 (1924年):五和村三代村長渡辺陸平氏編』によれば、「兎に角此初倉に正倉ありと云ひ続後記承知十四年(847年)八月、榛原郡人、秦黒成の女。正六位上・秦忌寸部落長福用云々の記事もありて、本郡に秦氏の居住せしと云ひ―中略―。五和村の大字に福用あり古は相応の家格を有せし部民の住居せし如き大なる古墳あるのみならず現に郡内福用の字を用いて姓とする家多しと云へば此福用は或は前記秦忌寸福用に縁由ある部曲の居住せしより起こりたる名なりしやも知る可らず」とあります。

やや読みにくいのですが、要は、福用の地名は秦忌寸福用に由来するのではないかとする内容です。なお竹下村は、初倉地域と福用地域の中間に位置し、山内一豊が大井川の流れを瀬替えして出来た「五和」という地域にあるそうです。

では、上記の記事の年代と葛原親王の活動時期が整合しているかチェックしましょう。葛原親王の生没年は786年~853年です。また、福代が土佐大目に任命されたのは承和15年(848年)となり、いずれも時代的に重なっています。(土佐大目を兼任していて東国に下向できるのかとの疑問はあります。ただ、平安京にいても土佐の実質的管理は不可能ですから、いわゆる名誉職だったのではと推測します)

また「続日本後紀」の承和14年(847年)に「遠江国蓁原郡人、秦黒成女、一たび二男一女を産む、正税稲三百束及び乳母を賜う」とあります。三つ子を生むのは当時珍しかったのでしょう。これを読んであれっ、と思ったのですが、「日本書紀」天武天皇4年(675年)10月の条に、「相模國言さく、高倉郡の女人、ひとたびに三の男を生めりとまうす」とあり、同様に三つ子の出産について書かれています。相模国の名が初めて文献に出たのはこの記事ですが、高倉郡は親王の御所があった場所とされ、何となく見えない糸で繋がっているような気がします。

地名その他の資料から福代が親王に同行し、初倉に入り、この地で親王と別れ福用に入ったか、または福代の一族が福用に入ったのは、ほぼ間違いなさそうです。ただし、親王が本当に東国へ下向したのか、確認する資料はありません。ひょっとしたら、福代が親王の名代として東国に向かい、彼の名において葛原に御所を設けたのかも……。まあ、この辺りは解けない歴史の謎としておきましょう。

なお、福用関連の記事作成に当たり、福用ご出身で島田市市議の坂下様より貴重な情報の数々をご提供いただきましたこと改めてお礼申し上げます。

福用に関しての調査も終わりましたので、目の前に広がる大井川の河原で探石します。

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大井川の流れ。ブルーの水流が息を飲むほど美しい。

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もう一枚。川の中に頭を出した岩が、水石の土坡に見えてしまいます。

福用は茶畑が広がる小集落で、秦氏ゆかりの地であり、大井川の流れも美しく、水石まで探石できる素晴らしい場所でした。

             ―東海の秦氏 その9に続く―
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このブログで

自分のルーツを知る事ができました。
実家に「秦福代」の蛇文字の額が掲げられていたのを見て、自分が秦一族の末裔という意識がわずかにありました。
しかし、このブログを拝見してから榛原郡誌や郷土誌を調べ、自分の祖先が最初にこの地をを治めた事を知りました。
自分のルーツを知る事は、自信を持つことにつながりました。

Re: このブログで

> 自分のルーツを知る事ができました。

私の記事がご先祖探しの参考になったとは、望外の喜びです。
静岡県へは秦川勝の時代の少し後に、秦氏の一団がやって来て各地に痕跡を残しています。
その間の事情は「浜松の秦氏」シリーズで詳しく検証しています。
ご先祖がこの地に定着したのも、そうした過去の流れを踏まえたものだったかもしれません。
榛原郡に関しては直接言及していませんが、さらに視野が広がるかもしれないので、よろしければご参考としてください。
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