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東海の秦氏 その10

東海の秦氏
11 /16 2010

富幕山から尾根伝いに西に向かうと雨生山(うぶさん)があります。この山からも蛇紋系の水石が産出します。車で301号線を進めば宇利峠に至り、ここから雨生山に入って雨生山石を探石するのですが、探石疲れもあり少し山に入っただけで退散しました。もちろん成果はありません。豊川にかかる野田城大橋を過ぎ、151号線を豊川市に向けて走ります。

地域一帯には秦氏の痕跡が濃厚に残っています。まず「豊」が付く地名としては、豊橋、豊川、豊津、豊島、豊岡、豊沢など。「ほう」は宝飯郡(ほいぐん)、鳳来寺山。
秦の音に関連しては、豊橋の西畑、羽田。文字としては幡豆郡。

この地域一帯には秦、羽田、羽田野・波多野などの姓が多く見られます。ちょっと調べてみると、豊橋市日色野町字西畑には秦園芸というお店まであり、代表者は秦さんでした。今も子孫の方がおられると知り、何だかうれしくなってしまいます。次回愛知に行ったときは、お寄りして水石の添え物でも買いたいと思いました。ちなみに酔石亭主の義理の曾祖母は東三河の羽田家から来ており、多少なりとも縁があると言えます。

151号線を下っていくと、巨大な鳥居が目に入ります。五社稲荷の大鳥居で、社殿は古墳の上に建てられているとのことです

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解説板。

五社稲荷のすぐ先が今回の目的地である菟足神社です。

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鳥居越しの社殿です。

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社殿。さすがに立派な社殿です。

御由緒としては、『「昇格碑文」菟足神社は延喜式内の旧社にして祭神菟上足尼命は孝元天皇の御裔葛城襲津彦命(大和朝廷の名族)四世の御孫にませり。雄略天皇の御世、穂の国造に任けられ給ひて治民の功多かりしかば平井なる柏木浜に宮造して斎ひまつりしを天武の白鳳十五年四月十一日神の御誨のままに秦石勝をして今の処に移し祀らしめ給ひしなり…後略』となります。

白鳳15年は西暦で686年となり、7世紀の終わり近くと言うことです。御由緒に出てくる秦石勝について調べてみると、土佐神社の祭神の項に以下の記述がありました。

『日本書紀』の天武天皇四(675)年三月二日の条に「土左大神、神刀一口を以て、天皇に進る」とあり、また朱鳥元(686)年の八月十三日の条に「秦忌寸石勝を遣わして、幣を土左大神に奉る」とあり、祭神は土左大神とされていますが、『土佐国風土記』逸文には「‥土左の高賀茂の大社あり、其の神のみ名を一言主尊と為す。其のみ祖は詳かならず。一説に日へらく、大穴六道尊のみ子、味鋤高彦根尊なりといへり。」とあり、祭神の変化がみられ、祭神を一言主尊と味鋤高彦根尊としています。この二柱の祭神は、古来より賀茂氏により大和葛城の里にて厚く仰ぎ祀られる神であり、大和の賀茂氏または、その同族が土佐の国造に任ぜられたことなどより、当地に祀られたものと伝えられています。

秦石勝は686年4月に東三河へ行き、同年8月には土佐に行っているとわかります。あたかも、京都本社から東三河支店に出張し、取って返して土佐現地法人に向かう商社マンのようです。いずれの地域も秦氏にとって重要だったと見て取れます。土佐に秦氏が定着したいきさつから、幕末に至る流れを概観できたら面白いと思うのですが、いかんせん神奈川からでは遠すぎます。

ところで、秦石勝と似たような話を既に書いていますが、ご記憶にあるでしょうか?そう、葛原親王の家令であった秦福代です。福代は土佐大目に任じられるのですが、同時期に葛原親王の東国下向に同行したという推理を、大井川流域の福用の地名から展開しました。(東海の秦氏 その8 11月11日。及びカテゴリ:相模国の秦氏、タイトル:頼朝以前の鎌倉 10月2日を参照ください)
秦石勝と秦福代。動き方のパターンが似通っていますね。

大井川下流域の初倉は秦氏が入植したエリアで、支店とまでは言えないが出張所という位置付けだったと思います。京都から各地に足を運ぶ秦氏。最終目的地である日本に入ってスケールは小さくなったものの、古代の超国際人であった彼らの面目躍如と思うのですが、いかがなものでしょう?

次に取り上げるのが徐福伝承です。神社の解説板をご参照ください。

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解説板。

この地の徐福伝承に関しては既に本も出版されネット上でも書かれていますので、付け加えることはありません。解説板の内容だけでもほぼ十分と思われます。酔石亭主の考えは、秦氏の存在する場所には徐福伝承が発生する素地があるということだけです。

実は、東海の秦氏 その7(11月10日)で牛久保の徐福伝承と書いたことに対して強烈な拒否反応的コメントを頂きました。徐福伝承は近年の都市伝説であるとされ、文面からは秦氏の存在自体も否定したい、この件に触れるなというご意志も感じられました。また、地元では徐福伝説など根拠なしとの結論が付いているなど、何度も地元が出てきました。

郷土史全体を抜きにして徐福や秦氏ばかりが取り上げられるとしたら、地元の方がそれに強い不快の念や不満を覚えるのは当然のことと思います。歴史を取り上げる場合、十分な配慮が必要だと改めて感じました。

ただ、資料の存在や内容を捻じ曲げてまで徐福伝承はないと強硬に主張される背後には、単なる不快感だけではない何かがありそうに感じられ、その理由を考えてみたいと思いました。というか、秦氏に関して書き続けていれば、いずれこのような問題に直面するかもしれないとの想定があったのも事実です。

以下はあくまで酔石亭主の一般論としての分析であり、個別の問題を語っているものではない点お含みください。

以前にも述べましたが、吉本隆明氏の「共同幻想論」(河出書房)にはフロイトに関連して次のような記述があります。

「前略…ある事象にたいして心を迂回して触れたがらないとすれば、この事象はかならずといっていいほど…中略…願望の対象でありながら、恐れの対象でもあるという両価性をもっている」

秦氏の神社は伏見稲荷大社に代表される稲荷神社など日本全国に広がり、幅広い崇敬を受けています。つまり彼らは、崇敬、崇拝の対象となっている訳です。と同時に、恐れの対象でもあるので心理的には忌避したい、ないものとしたい、との意識が働きます。恐れの対象であるのはカテゴリ「日本人の特殊性の謎を解く」や「秦氏の謎を解く」でも書きましたように、日本人の特殊性の発生源が秦氏であることによるものと思われます。

全てが神様になって祀り上げられていれば問題はないのでしょうが、実際には人が存在しているため、その場合強い忌避感情が働きます。よって、どの地域であれ地元と言う場合秦氏の存在を含まない地元になると考えられるのです。

以上のような心理面の経緯から、秦氏は聖と穢の両価性を持った存在と受け止められるようになりました。ただ実際には、人々が意識して両価性を持った存在と受け止めているのではありません。一方では神社にお参りして神として深く敬い、他方では忌避するのを何ら意識することなく行っている訳です。

こうした秦氏に関連する問題は、日本人の精神史全体を俯瞰する中で考えるべきものと思料されます。「人類進化の謎を解く」から「秦氏の謎を解く」までの一連のシリーズは、そうした視点も踏まえて書いています。

日本人の精神構造を決定付けたのが秦氏であるとすれば、それには正面から向き合う必要があります。上記シリーズをご一読頂ければ、日本人の深層に潜む全ての問題が氷解すると思うのですが……。また日本人がなぜかくも内向きで外交下手なのかという現代的課題も同時に解決の道筋が付けられるはずです。

避けては通れないので書いたのですが、今日はやや重い内容になってしまいました。ご不快に思われる方がおられたとしたらお詫びします。東海の秦氏シリーズはこれで最終回とします。

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酔石亭主

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