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新田義貞鎌倉攻めの周辺 その3


地図は大変に面白いもので、例えば昭文社が発行した鎌倉の地図を見ているとちょっとしたイメージが湧いてきます。(著作権の問題があるので地図をアップできないのが残念)

例えば白山神社のある金山は現在の稲村ケ崎一丁目で、酔石亭主が定義する霊山ケ崎の尾根部分が極楽寺一丁目との境になっているのです。そして白山神社と霊山ケ崎の間の谷戸の真下で海岸線は坂ノ下となり長谷駅の手前まで坂ノ下となっています。

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電子国土画像

右斜めに下るラインが稲村ケ崎一丁目と極楽寺一丁目を分ける境界線です。境界線は酔石亭主が定義する霊山ケ崎の尾根筋を通っています。実際には直線ではなく、霊山ケ崎の最も高い部分は極楽寺一丁目に含まれ、霊山一帯と稲村ケ崎がきちんと分けられている印象を受けました。

一般的に言うと、霊山ケ崎は仏法寺山、霊山から続く険しい山が最終的に崎となって海に突き出した場所を意味すると考えられ、この山域全体を霊山または霊山ケ崎と称したと思われます。

一方稲村ケ崎は、その形が稲束を積み重ねた稲叢に似ることからその名が付いたとされます。しかし、叢とは草が群がり生えることを意味しており、枯れた稲の束には適用できず、この地名由来は誤りであろうと思われます。水戸光圀が編纂させた1685年の「新編鎌倉志」によると、極楽寺に向かう稲村ケ崎付け根あたりの村落を稲村と呼んだことに由来するとされ、これが正しいと思われます。

また古くは岬の西側を稲村ケ崎、東側を霊山ケ崎と呼んだとされています。江戸時代、寛政・文化期に道中奉行所が編纂した「浦賀道見取絵図」では稲村山、金山、霊山と並べて山名としているそうです。(絵図は25,000円もしますので実際に確かめてはいません)現在の稲村ケ崎と極楽寺(霊山ケ崎、霊山)の境界も過去の境界を踏襲したように思えるのは面白いですね。

あれこれ地理的な部分を並べましたが、目的は稲村道がどこを通っていたのかを再度検証するためのものでした。鎌倉攻めの謎解きでは仏法寺大門前の道を稲村道としていますが、それが正しいのか問題があるのです。

まず稲村道の可能性としては以下が挙げられます。

1.稲村ケ崎から海岸線を経て鎌倉に入る。
2.白山神社を経て金山山頂から下り霊山ケ崎突端部に出て海岸線から鎌倉に入る。
3.霊山ケ崎と霊山の間を下り海岸線を経て鎌倉に入る。
4.仏法寺山門前から下り海岸線を経て鎌倉に入る。


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電子国土画像

では1のケースから見ていきましょう。「吾妻鏡」によれば建長4年(1252年)に皇族として最初の征夷代将軍となる宗尊(むなかた)親王が稲村ケ崎より鎌倉に入っています。稲村ケ崎に関連する場面は以下の通りです。

寅の一点親王関本の宿より御出で。未の一刻固瀬河の宿に着御す。御迎えの人々この所に参会す。小時立つ。路次、稲村崎より由比浜鳥居の西を経て、下の馬橋に到る。

この場合の稲村崎は稲村ケ崎の海岸線を渡ったようにも受け取れる記述です。ただ、稲村ケ崎は単に起点を示しているだけで、経路の記載がないため稲村ケ崎の海岸線を渡ったと断定はできません。「海道記」にも同様の記述があります。

稲村と云う所有り険しき岩の重なり臥せる浜を伝い行けば、岩にあたりてさきあがる波の花のごとくに散りかかる。

この記述では稲村ケ崎を渡ったように思えます。しかし波の散りかかる危険の多い海岸沿いのルートはできるだけ避けたいと考えるのが人情で、稲村ケ崎の突端を廻り込むルートが仮にあったとしても干潮の日以外は使用されなかったと思われます。

2のケースの場合、稲村ケ崎の海岸線を通らないのに、なぜ稲村道という名前が付いているのか疑問が出てくるでしょう。しかし、稲村ケ崎の付け根から極楽寺に向かう村落の名前が稲村でした。稲村を通り、由井の里である金山の白山神社を経由して金山山頂から霊山ケ崎の突端に出た場合、稲村道と付けておかしくありません。

しかも、古地図においても稲村ケ崎と霊山(霊山ケ崎)は別エリアとして分けられています。境界線を引いた現代の地図で参照しても、行程のほとんどは稲村ケ崎の範囲に含まれ、ここを通る道が稲村道であっても問題ないはずです。

加えて、万葉歌「鎌倉の見越の崎の岩崩(いはくえ)の君が悔ゆべき心は持たじ」は稲村ケ崎であり、それを見越せるのは金山山頂付近(=霊山ケ崎と山頂では一体)しかありません。この万葉歌は奈良時代に作られています。わざわざ登りにくい山の上に出かけ、この歌を詠むのは筋が通りません。当時既に白山神社経由の道が開かれており、それが金山山頂付近を通っていたとすれば、その道を歩き山頂で詠んだ歌と考えるのが最も自然です。

だとすれば、新田義貞は由井の民に導かれて、奈良時代から存在している稲村道を通ったのでしょうか?これには疑問があります。稲村道が多少困難を伴う道であれ、鎌倉まで通じていたなら、由井の民がいなくてもその道を辿ればいいだけの話だからです。またこのルートが死活的に重要であれば、幕府軍はまずここに防御施設を設置し、分厚い軍勢を布陣させるはずです。ところが「太平記」にもそうした記述は見られません。

では白山神社経由の道はどうなったのでしょう?奈良時代にこのルートを通っていた稲村道は、その後に起きた地震や波の浸食によって部分的に崩落、通れなくなっていたと考えられます。不思議な感じもするのですが、宗尊親王が征夷代将軍になって以降、鎌倉では地震や大洪水が頻発しました。以下列記します。

建長5年(1253年)大地震
康元元年(1256年)大洪水による山崩れ
正嘉元年(1257年)大地震 
「吾妻鏡」によれば「戌尅、大地震。有音、神社佛閣一宇而無全。山岳頽崩、人屋顛倒、築地皆悉破損、所々地裂、水涌出」とあります。(山岳は崩れ去り、埋立地はことごとく破損し、所々で地が裂け水が湧き出した)
正元元年(1259年)大地震
永仁元年(1293年)大地震 山は崩れ、地は裂けたとされます。

以上を考慮すると、2のルートは第一次稲村道だったと考えられます。(1のルートは干潮時のみの利用と推定)続いて、霊山ケ崎と霊山の間の谷戸経由海岸に出る道が開かれたと考えられます。第二次稲村道です。

忍性は1262年鎌倉に入り、極楽寺坂の切通しを開削します。仏法寺も建てられ、海側から鎌倉への出入りを監視できる施設にもなりました。監視は当然行動を伴いますので、仏法寺から下り海に出られる道が建設されて何の不思議もありません。極楽寺は漁業権も持っていたので仏法寺門前から直接海に出るルートは絶対に必要でした。このルートが成立した時点で、霊山ケ崎と霊山の間を通るルートは使われなくなり自然消滅したか、あるいは極楽寺の手で意図的に廃されたのでしょう。

ではなぜ廃されたと推測できるのか。道の管理は極楽寺が行っていましたね。通行人をチェックし通行料を徴収するには、常時人がいる仏法寺門前経由の方がずっと簡単だからです。(この時点では極楽寺坂切通しが既に開かれており、仏法寺門前経由のルートは、寺の関係者を除くと、鎌倉の絶景を楽しみたい旅人が通っただけかもしれません)

よって海側を通る稲村道は、最終的に仏法寺から下り海岸線に出て坂ノ下に至るルートになったのです。第三次稲村道の誕生です。本来なら霊山道とすべきところを、稲村道のままであったのは、稲村道の代替ルートだったから昔の呼び名を使ったからとも考えられます。あるいは入口の地名が稲村であったからとも言えそうです。

新田義貞は海岸線部分が廃道になっていた白山神社経由の第一次稲村道ルートを、由井の民の先導で何とか乗り越え、鎌倉に侵入したのです。

ほとんど推理だけで書いたため真偽のほどは何とも言えませんが、稲村道の考察は以上です。
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