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鎌倉大仏の謎 その7


前回で東大寺大仏と鎌倉大仏を繋ぐ回路を検証しました。しかし資金面の問題から天平時代に鎌倉大仏が造立されることはなく、聖武天皇の意志は地下水脈として流れることになったのです。

地下水脈が地表に現れる契機となったのが、鎌倉幕府を開いた源頼朝です。彼の背後には佐助ガ谷の老翁すなわち秦氏系と思われる人物が存在していました。頼朝は尾張国(現在の愛知県熱田区)の生まれです。熱田区と言えばかの有名な熱田神宮があります。

ということで、名古屋駅から名鉄線に乗り神宮前という駅に行ってみましょう。(実際には昨年5月に行ったもの)ここにはテレビ番組でもしばしば取り上げられた「あつた蓬莱軒」という“ひつまぶし”の有名店があります。本店は熱田神宮の西側を走る19号線沿いにあり、熱田神宮のほぼ南に位置し、神宮前駅から歩くと結構な距離になります。

ところでこのお店、なぜ名前が蓬莱軒となったのか?それは熱田神宮のある尾州熱田が蓬莱の地とされているからです。一般的に蓬莱の地は紀州熊野、富士山麓、そして熱田の三カ所であるとされています。

蓬莱の地とは言い換えれば徐福が渡来した土地、あるいは蓬の字音がホウであることから豊すなわち秦氏の渡来した土地ということになります。問題は、熊野も富士山麓も秦氏の痕跡が色濃く残り、徐福を秦氏との関連で語ることができるのですが、熱田の場合、秦氏の存在が希薄なことです。

一方熱田神宮には楊貴妃が祀られており、社伝によると楊貴妃の墳墓地も境内にあったとされています。しかも楊貴妃は唐の玄宗皇帝が日本侵略意図していたので、それを防ぐため日本の女神が変身して唐に飛び、皇帝の寵愛を得ることに成功、侵略は阻止されたとのこと。かなり荒唐無稽な話ではあります。

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熱田神宮。

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神宮の巨木。

話が随分それてしまったのですが、実は頼朝が生まれたのは熱田区の幡屋とされています。熱田神宮の北側に位置する旗屋がそれに当たると思われます。熱田神宮の蓬莱伝承で唯一秦氏の痕跡らしきものがあるのが、この地名です。頼朝と隠れ里の老翁との関係もこの辺が深源になっているのかもしれません。


大きな地図で見る
グーグル地図画像。

熱田神宮の北西に旗屋があります。周囲には日本武尊あるいは尾張氏の陵墓である白鳥古墳や断夫山古墳などがあり、古い歴史を持つエリアであると理解できます。

また時忠や良弁のみならず、頼朝自身も東大寺と深い縁があります。東大寺の大仏は治承4年(1180年)に平重衡の南都焼討によって焼失、すぐさま復興作業が始まりました。そして建久6年(1195年)に供養が行われ、頼朝が参列したのです。

「吾妻鏡」建久6年3月を読んでみると、頼朝は数万の兵を率いて奈良に入り、馬千疋、米一万石、黄金一千両、上絹一千疋などを東大寺に施入したとあります。しかも大仏殿造営のみならず、堂内の各種仏像造立まで支援の手を差し伸べているのです。幕府創設から間もないこの時期、頼朝に大きな資金力はないはずです。それにもかかわらず、信じられないほどの大盤振舞いです。

この参列を契機に頼朝は東国にも同様の大仏を造立したいとの願いを持ったのですが、実現を見ないうちに正治元年(1199年)、落馬したのがもとで亡くなります。(死亡には諸説あり)その遺志を継いだのが侍女の稲田野局で、僧浄光が勧請して1243年木造大仏と大仏殿の完成に漕ぎつけたのでした。

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高徳院の解説板です。

というところで、鎌倉大仏の謎の最初の経緯に戻ってきました。ここで大きな疑問が湧いてきます。東大寺大仏、相模国の大日堂、浄泉寺においては、時代を代表する超重要人物が勢揃いだったのに、鎌倉時代においては、佐助ガ谷の老翁と関係の深い頼朝はともかく、実際の大仏造立や大仏殿の造営には一介の侍女や何の業績もない僧が表舞台に登場するからです。

しかも、国家的大事業のはずの大仏造立を「吾妻鏡」は極めて冷淡に、意図的に顔をそむけるように記載し、金銅大仏に至っては完成時期さえ書かれていない不自然さです。幕府はこの国家的大事業から目をそらしたいのでしょうか?そうとしか思えない不可解な態度です。もちろん、鎌倉大仏に関する様々な論考では、幕府の関与があったとする例を幾つか挙げ、よって幕府主導の事業だったとしています。

例えば、囚人を逃がした御家件人から過怠料を取って大仏殿造営に充てる、僧徒などが刀剣を持つことを禁じ、没収した刀剣を大仏に施入する、浄光が幕府に勧進の下知を願い出ていることなどです。

しかしそれらは、造営に必要な出費からすれば微々たるもののはずです。また下知は幕府の命令に当たると解釈して幕府主導の例にするなど、納得のいくものではありません。本来なら頼朝による東大寺大仏の供養参列と同様、「吾妻鏡」に開眼供養の様子が詳しく記載されるべきはずのものだからです。

現在の高徳院(清浄泉寺)は浄泉寺と直接的な関係はないので東国総国分寺と言った問題に冷淡なのは理解できます。また解説板に詳しく記さないのも理解できます。しかし、「吾妻鏡」や当時の紀行文その他に必ず書かれるべき開眼供養に関する記述がどこにも存在していないのは理解に苦しみます。この問題に筋道を得ようとするなら、ある種の隠蔽工作があったと推測するしかありません。それが多分、鎌倉大仏を巡る最大の謎と言えるでしょう。

本記事タイトルを「鎌倉大仏の謎を解く」としなかった理由はそこにあります。この謎はどう考えてもクリアできそうにないと思われたのです。木造大仏がいかなる経緯で金銅大仏に変わったのか、いつ大仏殿は倒壊したのか、浄光はどんな人物なのかなども謎としてありますが、経緯はどうあれ、現在私たちが実際に鎌倉大仏を目にしている以上、それほど大きな問題ではないと思われます。これらを仮に解いたとしても、冷淡な鎌倉幕府の姿勢の背後に何があるのかを明らかにしない限り、鎌倉大仏の謎が解けたとは言えません。

                ―鎌倉大仏の謎 その8に続く―
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