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鎌倉大仏の謎 その13


安達氏について、第二の条件は幕府の有力御家人と言うことで満たしており、第三の条件である資金力も当然満たしています。最大の問題は第四の条件で、安達氏が幕府から疎んじられるような一族であったかどうかです。

ということで、今回は安達藤九郎盛長以降の安達氏の動静を見ていきましょう。安達氏は将軍家から甘縄神明神社の境内を屋敷地として与えられました。

でも…、これってちょっと変じゃありませんか?頼朝の信任厚い人物なら大倉幕府のすぐ近くに屋敷を構えるはずです。例えば、北条氏と肩を並べる実力御家人三浦一族が大倉幕府と鶴岡八幡宮の間に屋敷を構えたように…。


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位置関係を示すグーグル地図画像。

鶴岡八幡宮の東にある横浜国大の付属小、中学校が三浦氏の屋敷跡で、清泉小学校が頼朝の大倉幕府跡です。現代なら永田町に大邸宅を構えているようなもの。最強御家人三浦氏の面目躍如ですね。

ではなぜ安達氏は当時鎌倉の境界領域とも言える僻地を自邸として拝領したのか。これは間違いなく先祖との繋がりを意識する安達氏から願い出たものです。安達邸は将軍家がたびたび渡御する仮御所にもなっていました。将軍家も安達氏の出自に一定の認識があったことを示す好例ですね。

ちなみに、佐助ガ谷は鶴岡八幡宮の御旅所(いざという場合の避難所)になっていました。甘縄神明神社と佐助ガ谷。両者の意味合いには相通じるものがあります。

さて盛長の子が景盛で、彼は3代将軍源実朝とその母北条政子の側近として仕えています。景盛の娘である松下禅尼は執権北条泰時の嫡子北条時氏に嫁ぎ、4代執権北条経時、5代執権北条時頼を産みました。安達氏は源氏だけでなく北条氏もお気に入りの御家人であったと言えます。(ここまで見ただけでは、北条氏から疎んじられたという条件を満たしていません)そして、景盛の子が義景で、孫は泰盛となります。

以上で安達氏の主要メンバーは出揃いました。次に、何が契機になって安達氏が鎌倉大仏造立へと進んでいったのかを考えてみます。当時北条氏の最大のライバルであったのが三浦氏でした。一つ間違えば執権職は三浦氏のものになっていたほど両者の実力は伯仲していたのです。

そんな状況下、安達氏は三浦氏の風下に甘んじていました。当時景盛は高野山に籠っていたのですが、我が子や孫の歯がゆさから、高野山を出て鎌倉へと戻ってきます。景盛は当時の執権北条時頼と長時間にわたり密談。三浦氏討つべしと説き、子である義景や孫の泰盛を厳しく叱咤します。

時は宝治元年(1247年)、鎌倉には「鎌倉大仏の謎 その2」で書いたように不穏な空気が流れていました。1月は羽蟻の大群が鎌倉を覆い、光物が飛行します。2月に入ると海水が血のように変色、大流星が飛び、兵革(戦争)の予兆とされる黄色い蝶が鎌倉中に充満します。続いて4月には人間の死体のような大魚が漂着、民衆の不安感が高まってきました。

景盛が鎌倉に入り時頼と密談したのは、鎌倉を覆う不安感が最高潮に達した4月11日のこと。

実はこの時点で木造大仏は造立されており、1243年に開眼供養を終えています。三浦氏の風下に立たされていた安達氏に、大仏に関与する余裕はなく、従って木造大仏は浄光と背後に控える忍性の律宗組織が実行部隊となり造立されたと思われます。

さらに4月25日には日暈が表れます。これも合戦を象徴するものとされ、相次ぐ戦争の予兆に困惑した幕府は、後鳥羽上皇の怨霊に原因を求めます。そして上皇の怨霊を鎮めるために建立されたのが、鶴岡八幡宮の西麓にある新宮神社とされています。ということで、新宮神社に行ってみましょう。

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途中で台湾リスちゃんを見かけました。

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新宮神社です。

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もう一枚。

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解説石板です。

延応元年(1239年)5月鎌倉中で大騒動が起きたが、これは後鳥羽院が隠岐で崩御してその怨念によるものだから宝治元年(1247年)4月大臣山に今宮を建て院の尊霊を勧請した云々とあります。

4月25日に日暈が現れてから神社を建てたとすると、随分慌てて着工したようです。それにしては、1239年から1247年まで結構な年月が経過しています。因果関係がよくわかりませんが、まあ怨念話ですからこの程度のものでしょう。

写真でご理解いただけますように、神社の佇まいにおどろおどろしさはありません。むしろ清浄な静けさが漂っています。社は鶴岡八幡宮西側の大駐車場脇から入ったところにあります。


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新宮神社の場所を示すグーグル地図画像。

鶴岡八幡宮を参拝された方の何割がここに来られるのでしょう。多分、1%以下ではないかと思われます。丸山稲荷社にしても、ほとんど参拝される方はいないはず。結構重要な社が見過ごされているのは、神社側に意図的な部分があるのかもしれません。どちらも一見の価値がありますから、鶴岡八幡宮参拝の折にはぜひお寄りください。

ところで、木造大仏は後鳥羽上皇の怨霊を鎮めるために造立されたとの説があります。怨霊説ですね。後鳥羽上皇は承久3年(1221年)、討幕の兵を挙げました。かの有名な承久の乱(変)です。しかし上皇の試みは失敗に終わり、隠岐に流され、既に書きましたように延応元年(1239年)2月に崩御します。

一方木造大仏の事始めは歴元元年(1238年)なので、時代的に1年ほどずれがあります。1年のずれは小さいので、大仏は上皇の怨霊を鎮めるために造立されたと考えることもできますが、その場合、新宮神社を改めて建立する必要はありません。従って木造大仏の怨霊説は成立しないと思われます。ただ、金銅大仏に関しては一定の説得力がありそうな気もするので、その辺りはもう少し後で見ていきましょう。

              ―鎌倉大仏の謎 その14に続く―

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