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鎌倉大仏の謎 その14


前回、安達氏/北条氏と三浦氏の激突前に後鳥羽上皇の怨霊説を入れたので、中途半端で終わってしまいました。今回は宝治合戦と呼ばれる彼らの争いを見ていきましょう。

1247年の5月段階で、北条時頼のみならず三浦氏頭領の三浦泰村も衝突は避けたいとの意向を持っていました。6月には和睦が成立するのですが、これに納得できない安達景盛は泰盛に出撃を命じ、軍勢が泰村の館を急襲したのです。和睦の成立に安堵していた泰村は腰を抜かさんばかりにびっくり仰天して、迎撃態勢に入ります。一旦戦端が開かれれば穏健派の時頼も止めることはできず、兵を動かします。

一方泰村の弟光村は主戦論者で、永福寺に籠もり戦う意志を見せていました。泰村の館での攻防は一進一退で北条方は攻めあぐねます。午後になって風向きが変わると、館に火がかけられます。もはやこれまでと悟った泰村は、自分の無実と敵意のないことを示すため、一族を率いて源頼朝の法華堂に向かいます。それを知った光村は、やむなく敵陣を突破して法華堂に入り泰村と合流。一族郎党500余名が法華堂で自害しました。権勢を誇った三浦一族も遂に頼朝の墓前で滅びたのです。(もっと細かく書きたいのですが長くなるのではしょります)


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三浦一族関連のグーグル地図画像。

前回で書いたように横浜国大付属小、中学校が三浦泰村の屋敷跡となります。屋敷は鶴岡八幡宮と頼朝が開いた大倉幕府(清泉小学校辺り)の中間に位置していることから、いかに三浦一族が幕府の中で重要な地位を占めていたかが理解できます。泰村の屋敷から法華堂までは、画像でわかるように至近距離となります。

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白旗神社です。神社は左側の建物です。

白旗神社は現在の清泉小学校にあった大倉幕府の北隅に当たります。神社は法華堂跡が明治になって神社となったものです。ここの階段を登ると頼朝の墓(法華堂のあった場所)に至ります。

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法華堂跡の解説石板。

文字がはっきり読み取れます。宝治元年6月5日三浦泰村がここに立て籠もり、一族郎党五百余人が自害しお庭は朱に染まったと書かれています。

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頼朝の墓です。

墓を建てたのは島津家25代当主である島津重豪ですが、近年損壊し補修されているとのことです。

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平場から墓を撮影。

法華堂はこの平場を前庭として西向きに(=写真撮影した側に向いて)建てられていたそうです。現在の石段より西側に本来の登り道があったことになります。

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この辺りが登り道だったのでしょう。

ところで、三浦一族500名余りが法華堂で自害して果てたとすると、平場から写真撮影した正にその場所で武将たちが腹を掻き切ったか、首に刀を刺して命を落としたことになります。特に三浦光村は、刀で何度も自分の顔を削ぎ、誰だか判別できないようにして自害したそうです。誠に鬼神も涙する凄絶な武士の最後ではありませんか。彼らの恨みの深さもまた測り知れません。そう思うと、足元から何か壮絶な気配が立ち昇っているような気がして、ちょっと怖くなりました。

こうした経緯で、北条氏最大のライバルであった三浦氏は滅亡します。そして三浦氏を滅亡に追い込んだのが、他ならぬ安達氏だったのです。

                ―鎌倉大仏の謎 その15に続く―
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