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呪術都市鎌倉探訪記 その1

呪術都市鎌倉探訪記
02 /15 2011

以前、鎌倉は呪術都市であると書きました。その意味は、金山の白山神社から横浜市栄区鍛冶ヶ谷近くに鎮座していた白山神社を結ぶ鬼門ラインが、鎌倉幕府以前に、秦氏や由井の民の手によって設計・設置されていたということでした。

もちろん、頼朝以降の鎌倉も呪術都市としての性格を持っています。鎌倉の中枢を災厄から守るための仕掛けが陰陽師によって構築されているのです。だとすれば、彼らの存在した痕跡があちこちに見られるはず。

ということで、今回から呪術都市鎌倉の姿を見ていきましょう。

陰陽師と言えば、最も有名なのが安倍晴明で、彼の痕跡は鎌倉周辺にも見られます。実は酔石亭主の藤沢市にも晴明に関連した場所があるらしいのです。少し遠いですが、歴史探索に車は不便。チャリンコを転がして早速出かけてみましょう。


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グーグル地図画像。

この地図の宮前にある御霊神社が取り敢えずの目的地です。御霊神社は既に、坂ノ下、梶原、川名を訪問していますので、今回で四社目となります。場所は東海道線の藤沢駅と大船駅の中間で、線路南側のちょっとした丘の中腹にあります。

神社周辺は新田義貞鎌倉攻めの激戦地。この地において、鎌倉方の武将赤橋守時は新田勢と一日一夜のうちに65度の合戦に及んだとされています。世に言う洲崎の戦いです。この戦いについては以下Wikipediaより引用します。

巨福呂坂は、北条一門で執権の赤橋守時率いる幕府勢が守りを固めた。赤橋守時は妹登子が足利尊氏の妻であったことから、北条高時に疑われるのを恥じて、死を覚悟してこの戦いに望んだと『太平記』は伝える。新田方の武将は堀口貞満、大島守之で、5月18日朝、守時は巨福呂坂から出撃、『太平記』によれば一日に65回もの突撃を繰り返し、新田勢と激戦を繰り広げ、化粧坂攻撃の義貞軍の背後の洲崎(現在の神奈川県鎌倉市深沢地域周辺)まで迫った(洲崎合戦)。しかし、激戦のため守時の軍勢は洲崎に到達した時点で兵力の大多数を失っており、守時や侍大将南条高直ら九十余名が洲崎で自刃した。新田勢は攻撃を続け山ノ内(鎌倉市山ノ内付近)まで攻め込むが、幕府勢の守りは固く、巨福呂坂の突破はできなかった。


合戦が行われたのは元弘3年(1333年)5月18日のことでした。巨福呂坂から戦いながら洲崎まで進撃しついに力尽きて自害したとは、凄い武将です。そんな激戦地近くに静かにたたずむのが御霊神社です。では境内に入りましょう。

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境内にあるタブの古木です。

幹回り5mほど。幹の内部は空洞になっているようです。近寄ってみましょう。

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近寄った写真。

ごつごつした根や幹が木(気)のパワーを感じさせます。パワースポット候補になるかもしれません。もっと近寄ります。

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空洞となった幹の写真。

空洞が幾星霜を経た老木の歴史を物語っているようです。そんな感慨に浸っていると…、あれっ???

空洞の中に苦悶し叫ぶような人の顔が浮き出ていませんか?これは一体何なのでしょう?写真を撮る時点では全く気が付きませんでした。撮影することで顔が浮き出したとしたら…、この木は死霊あるいは怨霊の宿る木なのでしょうか…?

そんな馬鹿な、と笑われそうですが、でも…、きっとそうなのです。だってここは御霊神社。御霊と怨霊。同じようなものではありませんか。

しかもこの地では多数の武士が殺され、また自害しています。それだけではありません。

決定的なのは、この木がタブノキであることです。タブノキは霊が宿る木であり、霊(たま)の木が転じて「たぶのき」になったとされています。

以上の理由により、洲崎の戦いで死んだ武士の霊がこの木に宿ったとしても、何の不思議もないのです。呪術都市鎌倉探訪が、恐怖の心霊スポット探訪記のようになってしまいました。

ブルルッ!!ちょっと寒気がしてきましたので、今回はこれで終わりとさせていただきます。

             ―呪術都市鎌倉探訪記 その2に続く―


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酔石亭主

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