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呪術都市鎌倉探訪記 その2

呪術都市鎌倉探訪記
02 /16 2011

昨日その1で寒気を感じたのは、よくよく考えてみると、降り積もった雪のせいでした。別に怨霊が怖いわけではなかったのです。などと強がりを言いながら、御霊神社の境内を進みます。

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神社見取り図です。

この見取り図は、自由にお取りくださいと書かれ、拝殿に置かれていますので、有難く頂戴いたしました。こうした図面があると、とても便利です。大いにPRしますので、他の神社でも真似していただくといいですね。

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石段手前から撮影。

写真でもおわかりいただけますようにかなり急角度の石段が拝殿に続いています。途中に神社のご由緒を彫り込んだ解説石板があります。

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解説石板です。

写真ではやや読みにくいので、以下概略を書いてみます。

御霊神社
御祭神 本殿五座 崇道天皇 光仁天皇第二皇子早良親王 
鎌倉権五郎景政
葛原親王 
高見王 
高望王
神社境内副社  十二天王 疱瘡神 笹折矢竹稲荷大明神 七面宮
本殿五座由緒沿革
祭神の崇道天皇は桓武天皇の御宇延歴十三年五月に現在の京都市上京区上御霊前通り上御霊監所に祀れし給しこと、その後この地(村岡)に村岡五郎平良文公が住し天慶三年平将門が征討の為御霊神社を勧請し戦勝祈願をなしたるを始めとす、のち鎌倉権五郎景政を合わせ祈り二柱たりしが北条時頼の命により葛原親王、高見王、高望王、の三柱を加えて県下に十六の分社がありその後村岡総鎮守として現在に至っている。


なお鎮座地は藤沢市宮前560番地(旧相模國鎌倉郡村岡村宮前)となります。現在は藤沢市ですが、旧鎌倉郡なので呪術都市鎌倉の範囲に含めます。

神社の由緒には、平良文が天慶3年(940年)平将門を討つため勧請したとあります。これには、びっくり仰天しました。何しろ将門自身が日本最大級の怨霊ですし、940年は(苦しむ)と読めますから、やはりあのタブノキには怨霊が宿っていそうです。

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疱瘡神です。

位置は見取り図を参照ください。拝殿手前左手にあります。解説石板によると、天然痘は最も恐ろしい疫病とされ、その苦しみを少しでも軽くするため石塔を建て、祈りを捧げたそうです。この疱瘡神は八幡山の麓にあったのですが、鎌倉権五郎景政により御霊神社に移されたものだとか。末社まで丁寧な解説が加えられているのは素晴らしいと思います。ただ石板が黒御影石の鏡面仕上げになっているため、光が反射して写真をアップできません。

疱瘡神の先に鳥居があり登っていくと石の祠があります。

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十二天王社です。1167年にここに移されたとあります。鎌倉幕府以前ですね。

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拝殿と奥の院。

相模国御霊神社の総社にふさわしい立派な社殿です。その右手にも小さな社が…。

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写真右が七面宮、左が矢竹稲荷。

矢竹稲荷にも解説板があるのですが、木製なので読みにくくなっています。概略は以下の通りです。

奥州討伐の折、景政は左目を矢で射られたが、身心は痛まずこれは御霊神社の御加護であるとして、矢柄を社の側に刺すと青葉を生じたと言う。今に大笹竹がありその場所に稲荷を勧請したものが矢竹稲荷である、とのことです。

難物なのが七面宮です。七面宮は以前兜山と言う場所にあったそうですが、見取り図からすると1862年御霊神社に遷座されたようです。見取り図には七面宮の右手に「至兜松」との案内もあるので、兜山も多分同じ場所なのでしょう。

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兜松の案内板。

この七面宮に関しては境内に解説板がなく(もし間違っていたら済みません)、しかも過去に聞いたことがない神社名なので難物のように感じられました。一体何だろうと思ったのですが、実はこれと似通った名前なら知っています。

それは、学生時代に登山したことのある七面山です。この山は南アルプス前衛に位置し、日蓮宗の身延山久遠寺から直線距離で約7kmです。となると七面宮は日蓮関連の可能性があります。そう当たりを付けて調べてみました。すると…。

どうやら七面宮は、法華経守護神である七面天女を祀る社のようです。そして七面天女の本地は吉祥天。やはり日蓮関連で間違いなさそうです。ということで、七面天女についてWikipediaより以下引用しました。

七面大明神(しちめんだいみょうじん)は、七面天女とも呼ばれ日蓮宗系において法華経を守護するとされる女神。七面天女は、当初日蓮宗の総本山である身延山久遠寺の守護神として信仰され、日蓮宗が広まるにつれ、法華経を守護する神として各地の日蓮宗寺院で祀られるようになった。その本地は山梨県南巨摩郡早川町にある山で標高は1982mの七面山の山頂にある寺(敬慎院)に祀られている神。伝説によると日蓮の弟子の日朗と南部實長公が登山して永仁五年(1297年)九月十九日(旧暦)朝に七面大明神を勧請したと言われている。
七面山は、古来より修験道が盛んな山で、山頂にある大きな池のほとりには池大神が祀られている。その姿は役の小角の姿である。日蓮聖人の時代以前から、すでに七面山には山岳信仰の形態の一つとしての池の神の信仰があった。


その七面天女と日蓮はどんな関係があるのでしょう?日蓮は身延山に隠棲の折、民衆を前に説法していたのですが、それを妙齢の美女が聞き入っていました。続きはWikipediaより引用します。

(日蓮は、)読経や法話を拝聴するためにその若い娘が度々現れていたことを知っていた。その若い婦人に向かって、「そなたの姿を見て皆が不思議に思っています。あなたの本当の姿を皆に見せてあげなさい」と言った。すると、婦人は笑みを湛え「お水を少し賜りとう存じます」と答えると、日蓮は傍らにあった水差しの水を一滴、その婦人に落とした。すると今まで美しい姿をしていた婦人は、たちまち緋色の鮮やかな紅龍の姿に変じて仰った。
「私は七面山に住む七面大明神です。身延山の裏鬼門をおさえて、身延一帯を守っております。末法の時代に、法華経を修め広める方々を末代まで守護し、その苦しみを除き心の安らぎと満足を与えます」と。そう言い終えるや否や、七面山山頂の方へと天高く飛んで行った。


日蓮と七面天女、七面宮の関係は明確になりましたが、上記の伝説は荒唐無稽な話のようにも思えます。ただ、伝承・伝説には必ず背後に隠された意味があります。どんな意味があるのか探ってみましょう。

まず、水と龍がキーワードとして出現していますが、これらはいずれも雨を象徴しているものと思われます。日蓮は雨乞いの達人で、鎌倉大仏の謎で取り上げた忍性と雨乞い合戦をして勝っています。そうした日蓮のありようがこの伝説に象徴されているのです。

次に、身延山の裏鬼門という言葉に着目してください。身延山と七面山の間は深い谷となって、早川の支流春木川が流れています。そしてこの谷を、糸魚川・静岡構造線が走っているのです。構造線は龍脈です。紅龍は構造線が暴れないよう押さえている、そうこの伝説は語っていると推測されます。構造線の気を感知できる日蓮ならではの伝承です。

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身延山久遠寺。

一昨年春に撮影したもので、しだれ桜が綺麗です。奥の院までケーブルで行き七面山側の写真を撮っています。写真の山は多分七面山だと思うのですが、確信がないのでアップはしません。


大きな地図で見る
身延山と七面山の位置関係をグーグル地図画像。

七面宮を検討して、ようやく稀代の陰陽師安倍晴明と繋がる線が見えてきそうです。晴明ほどの陰陽師なら大地から立ち昇る気を感知することもできるでしょう。しかも、彼が得意とするのは、実は雨乞いです。安倍晴明の雨乞い伝説は日本各地に残されています。

一方、御霊神社境内にある七面宮は日蓮ゆかりの宮。元の所在地は兜山。これらを前提に考えると、日蓮は兜山で雨乞いの祈祷を修した、との推測が成り立ちます。

ではなぜ日蓮が兜山で雨乞いの祈祷を修したと考えられるのか?それは、安倍晴明がここで陰陽道における雨乞いの儀式(五龍祭)を執行したからではないでしょうか?日蓮はそれを知っていて同じ場所で雨乞いの祈祷を修した。平たく言えば、日蓮が験を担いだというところ。ちょっとずるいですね。

ここまで追ってきて、ようやく安倍晴明との関連が出てきました。

きちんと確かめるため、是非兜松に行かなければなりませんが…、見取り図では女坂の先に「至旗立て山」とありますので、こちらをまず見たいと思います。見取り図には危険なので入れないと書かれていますが、草木の手入れなど一定の整備が行なわれており問題はなさそうです。

              ―呪術都市鎌倉探訪記 その3に続く―

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酔石亭主

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