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関東平氏の鎌倉 その6


前回からずいぶん時間が経過してしまいました。今回は良文―忠光―忠通のラインの続きを見ていきます。二伝寺の解説石板によれば以下の流れがあります。

良文―忠光―忠通―景成―景政

忠光と忠通の墓は良文とともに二伝寺にあります。そして景成の子である景政がかの有名な鎌倉権五郎景政で、鎌倉氏発展の礎となります。鎌倉氏に関しては以下Wikipediaより引用します。

鎌倉氏(かまくらし)は武家のひとつ。本姓は桓武平氏。家系は良文流の系統で、相模国鎌倉郡を中心に勢力を伸ばした武士団である。平氏ではなく、相模の豪族の末裔だった可能性も高い。近年では、相武国造の子孫であったという説や、鎌倉別の子孫説も有るが、その説においても確証は無い。
村岡忠通の子、章名は景通、景村、景成の3人の子を儲けたが、この内、景成の息子の権五郎景正の代に鎌倉氏は大きく発展を遂げることとなる。 即ち、景正は源義家に従軍して後三年の役にて勇名をとどろかせ、戦後には多数の浮浪人を集めて相模国高座郡南部の一帯を開墾して大庭御厨を成立させたのである。…中略…
景正の叔父の系統では、景通の息子の景久が鎌倉郡梶原郷にて梶原氏を称した。もう一人の叔父である景村の系統では、孫の景宗が大庭御厨に因んで大庭氏を称し、景弘は鎌倉郡長尾郷にて長尾氏を称した。また金井氏が鎌倉郡金井(横浜市栄区金井)にいた。 この様にして鎌倉郡周辺に盤踞する武士団鎌倉党が形成されたのである。 なお、鎌倉党の一族は名前に概ね「景」の字が用いられている。


二伝寺の系図には出てきませんが、Wikipediaでは忠通の子である鎌倉章正が鎌倉氏の始祖となっています。この辺りの系図は史料によって錯綜しており、何が正しいのか全くわかりません。(景成が初めて鎌倉氏を名乗ったとの説もあり)ただ鎌倉党は頼朝以前の鎌倉における主要勢力でした。

中でも景政は伝説性、カリスマ性の両方を兼ね備えた出色の人物と言えましょう。と言うことで、今回は鎌倉権五郎景政について少々書いてみます。

景政は治歴3年(1067年)の生まれで、関東平氏五家(鎌倉氏、梶原氏、長尾氏、大庭氏、村岡氏)の祖とされています。頼朝が鎌倉幕府を開く120年以上も前の人物と言うことになります。

さて景政の居館はどこにあったのでしょう?これには諸説あって定まりませんが…、纏めれば以下の通りです。

村岡城で生まれそこで育った。城の北には景政産湯の井戸(三日月井)があったとされる。
柏尾川に架かる古舘橋の辺りに忠通が館を持ち、権五郎もそこに住んだ。
鎌倉大倉ヶ谷を居館として鎌倉氏を名乗った。
源義家が鎌倉に下向した際、景政は大倉ヶ谷の館を将軍に供して由井の里に移り、この地を甘縄と号した。由井の里とは坂ノ下御霊神社を指し、ここが景政の館跡であった。


村岡城は玉縄城の支城として戦国時代に建てられたと言う説もありはっきりしません。いずれにせよ良文の墓のある二伝寺から産湯の井戸、村岡城、宮前(村岡)御霊神社、古舘はJR東海道線を跨ぎ南北ラインほぼ一線に並びます。従いこの一帯が当初の景政の居住地だったのは間違いないと思われます。


大きな地図で見る
グーグル地図画像。神戸製鋼所の西が御霊神社でその北方に村岡城址。

その後大倉ヶ谷(後の頼朝の居館すなわち大蔵幕府跡地付近)に移り(10歳前後でしょうか?)、1081年あるいは1083年になって、源義家に大倉ヶ谷の敷地を提供、自分は由井の里に移ってそこを甘縄と号したことになります。

ここで疑問が出てきます。由井の里は極楽寺の谷戸にあり、坂ノ下御霊神社は極楽寺坂切通しを越えてから北に折れた先にあり、両者は険しい山で隔てられています。(当時は切通しなどありません)

また坂ノ下と甘縄は当時長谷まで入りこんだ海とその先の稲瀬川によって隔てられ、どれも別地域と考えられる点です。これをどう考えたらいいのでしょう?

景政は16歳から後三年の役(1083年 - 1087年)に従軍して奮戦、天下に武勇をとどろかせます。戦が終わり鎌倉へ凱旋する途中、牛久にて清原家の家来・鳥海弥三郎の攻撃を受け、右目を矢で射られます。しかし矢を抜くこともせず戦い、弥三郎の軍勢を一人残らず討ち果たしてしまうのです。

三浦平太郎為次が景政に駈け寄り、矢を抜くため景政の顔に足をかけました。景政は怒り為次に斬りつけようとします。びっくりした為次に、景政は「武士であれば矢が刺さり死ぬのは本望だが、土足で顔を踏まれるのは恥辱だ」と言ったそうです。そこで為次は丁重に矢を抜いたとか。これは景政の最も有名な武勇伝です。

合戦後に疲れた景政は、桂川を渡る際、足を踏み外して川に転落、そのまま力尽きて川底に沈んでしまいました。里人たちは景政を聖伝寺の近くに葬り、お堂を建てて供養したそうです。彼のお墓は今の地元の方によって供養されているとか。以上は牛久の伝承ですが…。

だったら景政が鎌倉に凱旋して宮前御霊神社に戦勝のお礼参りをして、岩に生えた松の根もとに兜を埋めたのが兜松の由来となり、兜岩が神戸製鋼所の敷地内にあると言う話はどうなるの?と疑問が湧いてきます。

桂川(秦氏地名です…?)で景政が死んだとするのはあくまで牛久における伝説で、多分彼に近い誰か別人が川で死んだのが、いつの間にか景政になってしまったのでしょう。

いずれにせよ、右目を射られた景政は隻眼となります。彼が傷ついた目を川で洗ったところ、そこに棲む魚が全て片目になったという伝説が形成され、藤沢も含む各地で片目の魚の話が広まります。彼の伝説の始まりですね。以前も書きましたが、藤沢市村岡では次のような話が伝わっています。

『昔から、xxxさんの田の中にいるドジョウには眼が片っぽないっていったんですよ。うそじゃなくて、ほんとなんですよ。お舅さんが、「それはね、鎌倉権五郎景政という人が、眼に当たった矢を抜いて、そこで眼を洗ったから、そこのドジョウは眼が片っぽないんだよ」って』

景政が眼を洗ったのが藤沢であるはずがありません。それにも拘らず、片目の魚に関する伝承が藤沢に残っているのです。この話は、隻眼の鎌倉権五郎景政を祀った御霊神社が村岡にあることから形成されたものと思われます。いずれにしても、800年も前の小さな出来事が、近年に至るまで生きた伝承として残っているのは、驚くべきことです。過去を探るツールとして、民話も決してなおざりにはできませんね

片目で思い起こされるのが、製鉄・鍛冶の神、天目一箇神(あめのまひとつのかみ)です。
産鉄民が祀る鍛冶神は片目、一本足に特徴があります。それは、片方の目で赤く燃える炉内を見続けることでその視力を失い、長い時間鞴(ふいご)を踏むことから足が萎えるなどの欠陥を引き起こすからでした。

ここまで見て、景政の最終居住地が由井の里とされる理由も明らかになります。由井の民は産鉄・鍛冶の特殊技能民だったところから片目の景政と結び付いて、景政が由井の里に居を構えたと言う伝承が形成されたのです。由井の里、坂ノ下、甘縄と地域がばらばらなのは無理に話をこじつけたからそうなったのでしょう。

            ―関東平氏の鎌倉 その7に続く―
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Re: 鎌倉権五郎伝説の真相究明

TSUCHIKUMO様

コメント有難うございます。私の記事がご参考になったとのこと、うれしく思います。

申し訳ありませんが基本的に個人間でのメールのやり取りはしない考えでおりますので、この点ご了承ください。
コメント欄での意見交換は歓迎します。ただ、記事を書いた当時私は神奈川在住でしたが、現在は愛知なので、
深掘りすることが難しいように思えます。TSUCHIKUMO様のお持ちの情報は、それらが伝説的なものの場合、
どう現実に落とし込んでいけば合理的に解釈できるかを考えることで必ず解けていきます。
またできる限り俯瞰的な視野で伝説発生当時の状況と絡めながら考察することも必要です。
面白いテーマではありますので、頑張って研究されブログに公開されたらと期待しています。
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