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鎌倉・藤沢の義経伝説 その10


1189年閏4月30日に義経は自害し、首は腰越に運ばれます。到着は6月13日(あるいは5月13日)でした。「吾妻鏡」によれば、首は「腰越の浦」で検分されます。腰越の浦とはどこを意味するのでしょう?参考になるのは鎌倉の由比浦です。

当時の海岸線は、緩やかな弧を描く現在の由比ヶ浜と異なり、海が元八幡近くまで迫る浦(深く入り込んだ湾)となっていました。同様に腰越の浦は海が湾状に入り込み、現在の神戸川下流域は海だったと推定されます。宝善院の北の地名が津西ですから、場合によったら腰越中学辺りまで海が入りこんでいたのかもしれません。

とすれば、首の検分は現在の神戸川西側の湾となった浜辺で実施されたと考えられます。龍口寺に刑場跡があるのもそれを傍証するものと思われます。(注:山本半峯著、「白旗横町の今昔」には龍の口で検分したと書かれています)

鎌倉から見れば神戸川の西は死者を葬る境界領域でした。そう考えると、義経の「腰越状」は宝善院で書かれかもしれないとする酔石亭主の独断が、より一層現実味を帯びてきそうです。

そして首の検分に立ち会ったのが、和田義盛と梶原景時です。梶原氏は「関東平氏の鎌倉」で取り上げるべき一族だったので、今回は少し寄り道になりますが、梶原氏について見ていきます。

鎌倉幕府滅亡の直前、洲崎において新田軍と幕府軍の間で大規模な戦闘が繰り広げられました。その洲崎から扇ヶ谷の手前に至る一帯の地名が梶原で、鎌倉における彼らの痕跡は地名として残っています。


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グーグル地図画像。

また梶原氏は鍛冶原で産鉄族との見方もあるようです。梶原氏に関しては以下Wikipediaより引用します。

鎌倉景通の嫡男の景久が相模国鎌倉郡梶原にて梶原氏を称したことに始まる。
景久の曾孫の景時の代に一族は大いに発展することとなる。1180年に源頼朝が挙兵すると、大庭景親と共にこれを石橋山の戦いで迎え撃ったが、景時は頼朝一行を見逃した。頼朝はこの時の行為を深く感じ入り、景時を重用する事となる。
頼朝に服属してからの梶原一族は平家追討に功を立て、1185年の壇ノ浦の戦いにて滅亡させることとなるが、平家滅亡後に源義経とともに朝廷から勝手に官位を受けた為に頼朝から怒りをかっている。その後、奥州合戦にも従軍し(尚、この合戦で景時の次男の景高は見事な歌を残している)、頼朝の君寵が厚かったが、その反面、多くの御家人の反発を買った。
そして頼朝が死ぬと事態は急変する。北条氏を始めとする御家人達は、ここぞとばかりにと景時に謀反の疑い有りと弾劾する。景時は息子らを引き連れて京に逃れんとしたが、その途上で討たれた。時に1199年のことであった(梶原景時の変)。


系図はこれも諸説ありますが大ざっぱに見れば以下の通りです。

平良文―(鎌倉氏)―鎌倉景通―梶原景久―景長―景清―景時

実は景時の居館跡は鎌倉ではなく寒川にあります。(もちろん鎌倉の梶原にも出先の館があったのでしょう)寒川のわいわい市場へ行く際には必ず前を通過していたので、馴染みの場所です。


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景時館址の鳥居。

あまりパッとした場所ではありません。悲惨な最期を遂げた人物だからでしょうか?

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梶原景時館址の石柱。

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解説板。

鳥居は解説板にあるように天満宮が建てられたからでした。天満宮の場所は以前物見台だったそうで、高くなっていたとのこと。

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物見台の昭和三年時点の写真。

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薬師堂手前に全体の案内板がありました。

広大な敷地を有していたとわかります。住居と言うより城に近い砦でしょうか。

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案内板の横には景時についての解説があります。

解説にあるように、景時は頼朝最大のピンチを救いました。わずか6名になった頼朝主従が「しとどの窟」に潜んでいたとき、景時は彼らを発見するのですが、「ここにはいない」と大庭景親に嘘を言って見逃したのです。

大庭 景親に関しては以下Wikipediaより引用します。

大庭 景親(おおば かげちか)は平安時代末期の相模国の武将。平良文の末裔である鎌倉権五郎景政の流れを汲む大庭氏の一族。大庭氏は坂東八平氏の鎌倉氏の流れを汲む一族で、相模国大庭御厨(神奈川県寒川町、茅ヶ崎市、藤沢市)の下司職を相伝していた。天養元年(1144年)に源義朝の郎党が相模国田所目代と共に三浦氏、中村氏を率いて大庭御厨に侵攻した(大庭御厨事件)。この義朝らの行動は朝廷から不問に付される。


景親は頼朝に対抗し最後には片瀬で処刑されてしまいます。関東平氏の主要な面々は、いずれも悲惨な最期を遂げていたのです。

後年義経が勝手に後白河法皇から任じられ頼朝との仲が悪化します。ところが梶原景時も同様に任じられていたのです。頼朝を救った景時はその後幕府の重職に就き、一方義経は追い討ちを掛けられる事態に至りました。二人は同様に朝廷から任じられたのに、その運命は大きく変わってしまったのです。

湯河原近くにある「しとどの窟」はちょっと怖そうなところで、心霊ファンに有名です。いずれこの場所を訪問してみたいと思います。

            ―鎌倉・藤沢の義経伝説 その11に続く―


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