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鎌倉・藤沢の義経伝説 その12


義経が白旗神社の祭神として祀られた経緯は「その11」でご理解いただけると思います。では義経の死と秦氏はどう関係しているのでしょう?まずは一般論として見ていきます。

以前書いたように頼朝は佐助ガ谷の老翁すなわち秦氏の影響下にある人物でした。頼朝の弟である義経も同様だった可能性はあります。
義経の母は常磐御前です。墓は京都市右京区常磐にあるのですが、常磐は秦氏の本拠地である太秦のすぐ北にあります。
義経は幼少の牛若丸時代鞍馬寺に入って修行しました。鞍馬寺は松尾山金剛寿院と号し、松尾は秦氏の松尾大社と同じ名前です。また鞍馬寺の本尊は毘沙門天で、これはミトラ神とされています。ミトラ神とは秦氏が祀る摩多羅神を意味しています。

以上は状況証拠にすぎませんので、まだ確たることは言えません。そこで義経の首が葬られた白旗の地について検討しましょう。

義経が祀られる以前の白旗神社は寒川神社で寒川比古命が祀られていました。寒川比古命は正体不明の神ですが、「相模国の秦氏」で見たように、富士山麓にいた秦氏が800年の富士山噴火により大月経由秦野や寒川の地に到来した可能性があります。寒川神社には徐福伝承に関係する宮下文書なるものがあるのもその証拠となるでしょう。

だとすれば、白旗神社の土地には元々秦氏系の古墳があって、そこに寒川神社が創建された可能性も否定できません。社殿のある場所は亀尾山(亀の子山)とされ、亀の名を冠する古墳は多数あります。では、他に秦氏の痕跡がないか見ていきます。

まず、白旗交差点脇に設置してある案内板を参照ください。

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案内板。上端部が白旗神社で背後が1号線バイパスです。

義経首洗い井戸が真ん中にありますがそれは後日の記事で取り上げるとして、案内板右端に妙善寺と言うお寺がありますね。このお寺は「相模国の秦氏」で取り上げているので既にご存知だと思います。寺の始まりは真言宗の真蔵院で、文永8年(1271年)、日蓮が流人として佐渡に向かう途中立ち寄ったとされます。

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妙善寺山門。

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本堂。

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境内に入って左手に正宗稲荷大明神の石柱が…。

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社殿。相当大規模な社殿で言われがありそうです。

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解説石板。非常に読み取りにくい。

大明神の御尊像は伝教大師最澄が桓武天皇延暦21年(802年)に刻んだもの。比叡山延暦寺に安置されていたものが、四代執権北条経時の時代に鎌倉に移され、その後、藤沢の地に移されたとあり、その他あれこれ書かれています。より詳しくは以下の通りです。

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「我が棲む里」のコピー。

7行目下より「不測や異人来たりて相槌をうち」とあります。この異人が稲荷神であり秦氏を意味するのは間違いなさそうです。稲荷神(=秦氏)の容貌を異人とする記述も、特殊な渡来系一族であることの傍証になります。また左端の小川泰二(泰堂)の注にも「相槌の稲荷」と記載あります。記事にある正安元年は1299年。

なお相槌を打つとは相手の話に調子を合わせることを意味します。鍛冶が鉄を鍛えるとき、師弟は向かい合い、師の打つ鎚に合わせて交互に弟子が鎚を打つところから出た言葉です。

つまり正宗が稲村ケ崎の砂鉄を用いて鉄を鍛える際に、秦氏系の人物が師として手伝ったことを意味します。稲村ケ崎から極楽寺の谷戸に入ってすぐの金山にある白山神社は産鉄・鍛冶族が祭祀する神社ですが、それに秦氏が関与していると、この話からも理解できます。正宗に関しては以下Wikipediaより引用します。

正宗(まさむね、生没年不詳)は、鎌倉時代末期から南北朝時代初期に相模国鎌倉で活動した刀工。五郎入道正宗、岡崎正宗、岡崎五郎入道とも称され、日本刀剣史上もっとも著名な刀工の一人


先を急ぎましょう。本堂裏側に某家の墓所があり、その墓碑が今回の主な訪問目的です。

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墓碑です。天文二十三年(1554年)甲寅一月十一日とあります。

読みにくいですが、個人的な部分を省いた大意は以下の通り。

故人の祖先は秦の徐福から出ている。徐福は始皇帝の戦乱を避けて海を渡航し、我が神州まで渡来して、富士山の山麓に居住した。それ故、子孫は皆、秦を姓とした。近くの地に秦野の名があるのは、一族の旧蹟に関係するものらしい。これは、祖先の地を明らかにするに十分である。

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別の碑です。

明治のもので、秦の名前が見られます。蔵とあるのは古代の秦氏が財務官を務めていた名残でしょうか。

富士山麓を出た秦氏は大月、小渕に留まりその後丹沢のヤビツ峠を経て秦野に入ったメンバーと、相模川に沿って下り寒川へ入ったメンバーに分かれると思われます。白旗神社は義経以前寒川神社であったことから、相模川沿いに下ったメンバーに関係するのではと思われます。墓碑は秦野の秦氏と関係付けていますが、寒川神社の関連を考慮すると多分誤りでしょう。

問題は、真蔵院が義経以前から白旗の地にあったかどうかですが、この点は調べようがありません。ただ、秦氏の拠点であった大月にも真蔵院と言うお寺があります。場所は大月の桂川と葛野川に挟まれた岩殿山のすぐ近く。寺の北側には畑倉と言う秦氏地名もあります。京都の桂川、葛野川が秦氏地名であることは既にご存知ですね。

だとすれば、大月の真蔵院に前身となる御堂でもあって、秦氏と800年頃に関係を持っていたとは考えられないでしょうか?その流れで妙善寺(旧真蔵院)に秦氏に関する墓碑があると続けられれば面白いのですが…、その可能性はゼロではないと思います。

以上より白旗の地は秦氏と関連がありそうです。次回も引き続きこの一帯に秦氏の痕跡がないか見ていきます。

              ―鎌倉・藤沢の義経伝説 その13に続く―

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