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鎌倉・藤沢の義経伝説 その19


義経が白旗に埋葬された理由、首を洗った井戸、首塚、義経を祀った白旗神社など、藤沢における義経伝承地もほぼ完全に確認することができました。ここで、地元藤沢に伝わる義経伝承を見ていきましょう。

代表的なものは小川泰堂の「我が棲む里」文政13年(1830年)です。泰堂は藤沢出身で医術を学び、かつ安売り市を提唱するなど経済面でも藤沢の発展に貢献した人物。また日蓮の伝記も書いているという多才ぶりです。

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泰堂の住居笑宿庵跡。


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グーグル地図画像。

藤沢本町郵便局の角を曲がり、東洋宣教使徒教会のある敷地が住居跡です。

墓も住居近く(本町一丁目3番21号)にあったのですが、泰堂が日蓮の伝記などを書いたこともあり、池上本門寺大堂正面に改葬されたとのこと。よって2007年に教育委員会から藤沢市指定文化財を解除されています。

また平野道治は、鶏肋温故 (けいろくおんこ)と言う藤沢の地誌を天保13年(1843年)に編纂しています。彼は相模州藤沢宿の旅籠「ひらのや」の主人でした。「我が棲む里」と内容はほぼ同じなので、義経の首に関する部分を「鶏肋温故」の白旗大明神社で見ていきます。

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「鶏肋温故」のコピー。

其後、当藤沢の河辺に金色(こんじき)の亀、泥にまみれたる首級を甲に負て出たり。村人大に驚きあやしみけるに、傍に在ける一人の童、忽チ狂気の如くニ成て申けるハ、我レハ源ノ義経也。吾不幸にして讒者の舌頭にかかり、身を奥州高舘の露と消るのみならず、首級さへ捨られて怨魂やるかたなし。汝等よく葬り呉よと終りて倒れぬ。諸人殊に驚き、此首を井に洗ふてしかして今云首塚の地に埋め塚となし、人々群集し詣でけると也。其後、鎌くら御所に於て義経の怨霊種々の怪をなし、右大将をも悩しける。依て、次郎清親に命じて彼首塚より壱町余北なる山上に社を営て、御悩平愈を祈りければ、程なく本腹ましましけるとなん

金色の亀が義経の首を背負って現れ村人が驚いていると、傍らの童子が狂気を見せて、「我は源義経である。不幸にして讒言者の口車により奥州で死に、首も捨てられ怨魂やるかたない。お前たちよく葬ってくれ」言って倒れた。皆驚いて首を井戸で洗い、今で言う首塚の地に埋め、塚として詣でた。その後鎌倉御所において義経の怨霊が様々な怪異をなして頼朝を悩ませた。よって次郎清親に命じて首塚より一丁ほど北にある山の上に社を建て平癒を祈ったところ程なく回復したそうだ。

なお次郎清親とは、以前に藤沢の地名由来で書いた藤沢次郎清親のことです。彼の屋敷は片瀬にあり、藤沢の地名の元となった人物です。片瀬に諏訪神社の上社、下社の二社があるのは清親の影響によるものでしょう(詳しくは「千畳敷カールへ行きました その3、4」昨年7月30日、31日を参照ください)

白旗交差点には藤沢高校がありそこには社宮司神社が鎮座しています。この神様は諏訪が発祥元となっており、清親との関係も推測されます。

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社宮司神社と書かれた案内の柱。

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鳥居越しの神社。

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もう一枚。

いつものことですが、少し話がそれました。さて、「鶏肋温故」に書かれた内容は相当脚色されています。書きっぷりは、まるで歌舞伎の一場面のようにも思えます。成立した時代を勘案すると歌舞伎の影響があったと推測されるのですが、いかがなものでしょう?以下Wikipediaより引用します。

天保三年 (1832) はじめ、七代目團十郎は長男の六代目海老蔵に八代目團十郎を襲名させ、自らは五代目海老蔵に復すことにした。…中略…
この「十八番」の演目が今日知られているものに定着するのは、8年後の天保十一年 (1840) 三月のことである。七代目は以前から能の『安宅』を下敷きにした新しい義経弁慶流転譚の構想を温めており、この数年来は試行錯誤を繰り返しながらこの新作を創作してきたが、ちょうど初代團十郎の「没後百九十周年」にあたるこの年、ついにこの演目を初演するまでにこぎ着けた。これがいわゆる松羽目物の嚆矢となった『勧進帳』である。やがて屈指の難役として知られるようになる主役の弁慶を勤めるのはやはり自分をおいて他になく、凛とした二枚目に成長した倅八代目には地のままで義経を勤めさせた。


また「勧進帳」の原形は、初代市川團十郎が元禄15年(1702年)に初演したものとか。

歌舞伎の影響が明確に見て取れるのが首塚の碑です。

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首洗い井戸にある首塚の碑を再度掲載。

碑には「九郎判官源義経公之首塚」と彫られ、右側には「武蔵坊弁慶弁慶之霊」、左側に「亀井坊 伊勢坊 片岡坊 駿河坊 各霊」とあります。この何とか坊は義経四天王のことで、
亀井坊は亀井六郎重清、伊勢坊は伊勢三郎義盛、片岡坊は片岡八郎弘経、駿河坊が駿河次郎を指しています。このどこに歌舞伎の影響が出ているでしょう?

ポイントは「坊」と言う表記です。義経の四天王は歌舞伎において山伏(=修験者)姿で登場しました。このため彼らは「坊」と言う表記になっているのです。またこれは、義経の白山修験道との関連―以前書いたように白山修験道に丸抱えされて奥州に逃げのびた姿―を暗示しているようにも思えます。

藤沢の義経伝説にはもちろん弁慶も絡んでいます。『東海道名所記』(浅井了意作の仮名草子。万治年間(1658~1661年)の成立と考えられる)によると、腰越に送られた義経と弁慶の首は、検分の後、夜のうちに白旗神社に飛んできたとされています。首が飛ぶのは日本における怨霊チャンピオンである平将門の影響でしょうね。

弁慶の首が飛んできた話があるなら、弁慶の塚も藤沢にあるはずです。でなければ筋が通りません。次回は弁慶の塚を探索します。

             ―鎌倉・藤沢の義経伝説 その20に続く―
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