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鎌倉・藤沢の義経伝説 その22

鎌倉・藤沢の義経伝説
07 /25 2011

「その21」の「車田」に関してさらに調べた結果、湘南高校の北側角に車田白旗稲荷が鎮座していると判明しました。

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神社全景。

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石柱に車田町氏子中とあります。

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小さな社殿。

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庚申塔です。元禄2年(1689年)の建立で、右下に車田村とあります。

とすると、車田は湘南高校の南ではなく、高校の北側すなわち伊勢山の南、県道43号線(旧東海道)に沿って引地川近くまでの範囲が車田だったのでしょう。


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グーグル地図画像。白旗稲荷とあるのが車田白旗稲荷。本六町内会館とあり、この本六町がかつての車田。

なお、白旗神社のホームページによれば車田は白旗神社の直轄田とのことです。しかし、車田の言葉の由来からすれば、鵠沼皇大神宮に供えるための神田に違いないはずで、おすそわけが白旗神社にあったのではと推測します。その後、白旗神社の直轄になったのかもしれません。

暑さのせいか歳のせいか、どうも最近は調査不足の度が過ぎているようで…(^_^;) 義経公が祟っているのでしょうか?これ以上は不足がないと決め付けて、今回ようやく弁慶の塚に突入です。

義経と対になって語られる武蔵坊弁慶。彼の遺跡は義経以上に多くあります。例えば白旗神社には、弁慶の力石が拝殿脇に置かれています。

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力石。

満福寺にも同様に弁慶の手玉石がありました。ところがです。弁慶に関する史料はほとんどなく、実在したかどうかさえはっきりしません。力石も手玉石も誰かが適当に置いたもので、直接弁慶との関係はないと見られます。Wikipediaには弁慶について以下のように書かれています。

武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい 武藏坊辨慶、生年不詳 - 文治5年閏4月30日(1189年6月15日))は、平安時代末期の僧衆(僧兵)。源義経の郎党。…中略…
元は比叡山の僧で、武術を好み、義経に仕えたと言われるが、『吾妻鏡』には文治元年(1185年)11月3日に「辨慶法師已下相從」11月6日に「相從豫州之輩纔四人 所謂伊豆右衛門尉 堀弥太郎 武藏房辨慶」と記されているだけで、その生涯についてはほとんど判らない。一時期は実在すら疑われたこともある。しかし、『義経記』を初めとした創作の世界では大活躍をしており、義経と並んで主役格の人気がある。…中略…
熊野別当湛増(『義経記』では「弁しょう」、『弁慶物語』では弁心)が、二位大納言の姫を強奪して生ませたとされる。母の胎内に18ヶ月(『弁慶物語』では3年)いて、生まれたときには2、3歳児の体つきで、髪は肩を隠すほど伸び、奥歯も前歯も生えそろっていたという。父はこれは鬼子だとして殺そうとしたが、叔母に引き取られて鬼若と命名され、京で育てられた。

弁慶の父親とされる湛増に関しても以下Wikipediaより引用します。

湛増(たんぞう、大治5年(1130年) - 建久9年5月8日(1198年6月14日))は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した熊野三山の社僧で、21代熊野別当である。18代別当湛快の次子。源為義の娘である「たつたはらの女房(鳥居禅尼)」は、湛増の妻の母に当たる。「たつたはらの女房」を湛増の実母とする俗説があるが、これは明らかな間違いである。武蔵坊弁慶の父とされるが、文学的伝承のみで確証はない。

上記から、弁慶は異常出産によって生まれた鬼と理解できます。京極夏彦氏の「姑獲鳥の夏」にはこの辺の内容が詳しく書かれています。いずれにせよ弁慶は、常人とは異なる存在だったのです。

と言うことで今回は、歌舞伎によってスターダムにのし上がった弁慶の塚探しです。史料に当たるのが早道なので、「鶏肋温故」で調べてみます。すると、ありました。八王子大権現社 の項によれば以下の通りです。(「その21」でアップした「我が棲む里」八王寺権現社にもあります)

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「鶏肋温故」のコピー。

八王子権現は、常光寺の傍ニ在、武蔵坊弁慶の霊を祭ルよし、是白旗明神を義経と云に対してなるべし、按るに当社今白王山荘厳寺にて別当す、然れとも、常光寺を八王山と号し、当社を八王子権現と称すれば正しく是常光寺一山の鎮守なるべし、猶暇日考証すべし

八王子権現は常光寺の傍らにあり、武蔵坊弁慶の霊を祀るそうだ。これは白旗明神を義経と言うのに対応しているのである。考えを巡らしてみると、当社は現在白王山荘厳寺にて管理している。しかし、常光寺を八王山と号し、当社を八王子権現と称すれば、これは正しく常光寺一山の鎮守であるべきで、暇があればなお考証が必要である。

八王子権現の管理は、常光寺か荘厳寺かとの議論があるようです。もう一度白旗交差点にある案内板を参照しましょう。

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案内板。

案内板の右下側にお寺が固まってあります。その中に常光寺があり、ここに弁慶塚があることになります。

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立派な常光寺の山門。

記念碑と書かれた石が左手に…。碑文を見ると、なんと藤沢警察発祥の地とか。この一帯が昔の藤沢の中心だったことが見て取れます。

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石碑。

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境内には庚申塔もあります。右が万治2年(1659年)、左が寛文9年(1669年)のもの。

弁慶塚を探して裏山の墓地に登りますが見当たりません。運よく和尚さんがおられたのでお聞きしました。ご指示に従って行くと、古い石段が…。

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石段。

石段の上に巨木がどっしり根を下ろしています。義経を命懸けで守る弁慶の姿そのものでした。

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巨木。

石段を上がり切ると平場があって、庚申尊の傍らに小屋掛けした塚があります。

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庚申塔と塚。

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弁慶塚。うっすらと文字が読み取れます。

昔の写真を見ると、弁慶塚と彫られ(弁は古い字体)、また横に宝暦二年(1752年)と製作年が入っていたそうです。なお弁慶塚に行くには常光寺の山門を潜るのではなく、白旗交差点寄りの一本手前の道を入って行くと、裏山に向かう石段(八王子権現跡地への石段)が見えますので、そちらからの方がわかりやすいと思います。

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済美館(画像右手の新しいビル)と池田屋の間の道に入ります。

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荘厳寺墓地の裏手に出ると道の左手に石段が見えます。

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八王子権現跡地への石段です。

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八王子権現跡地です。左手奥に弁慶塚への石段があります。

八王子権現に関しては以下Wikipediaより引用します。

八王子権現(はちおうじごんげん)は近江国牛尾山(八王子山)の山岳信仰と天台宗・山王神道が融合した神仏習合の神であり、日吉山王権現もしくは牛頭天王(ごずてんのう)の眷属である8人の王子を祀った。神仏分離・廃仏毀釈が行われる以前は、全国の八王子社で祀られた。

弁慶塚のある八王子権現も明治維新後廃されたのかもしれません。

以上で弁慶塚の存在は確認できました。問題は、本当に弁慶の首がここに埋葬されたかどうかです。それを確かめるのが難しく、悩まされました…。

           ―鎌倉・藤沢の義経伝説 その23に続く―
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酔石亭主

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