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富士山麓の秦氏 その9


以下和田義盛に関しての補足です。

「甲斐国志」の古蹟部第十六之上を読んでいたところ、長池村の和田殿屋敷が出てきました。
内容は、「村の東湖水の岸より少し山に登って平地がある。里人の言い伝えでは、和田集と言う人がこの地に幽居したそうだ。どんな人物か明らかではないが建歴三年五月和田の一族合戦に打ち負け当郡に逃げて来たことがあったので、その親族の者が隠れ忍んでこの地に住んだのだろうか」とあります。

現地でお聞きした内容とは若干異なりますが、和田殿は和田義盛以外に考えられません。場所を羽田さん宅の山の上に特定すれば、記述ともピッタリ一致します。多分そこに和田義盛の小さな屋敷があって、万一の場合に備え逃げるための穴が掘られていたのでしょう。
穴に入れば遺物はまだ残っていそうなので、学術調査を実施して欲しいところです。

また「吾妻鏡」でチェックした結果、義盛は源頼朝主宰の富士の巻狩りに参加していました。義盛が山中湖周辺に隠れ棲んだ可能性は高そうです。(調べ尽くしてから書けばいいのですが、なかなか行き届かず後からの補足は今後も多くなりそうです)

山中湖を離れ、桂川に沿って北上してみます。717号線を北上して山中湖花の都公園を抜けると、ハリモミの純林が続きます。純林を抜ければと右手が沖新畑地区。秦氏地名が見つかりました。一帯は広々として爽快です。


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グーグル地図画像。位置関係は大きな地図を見るで拡大してご覧ください。

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沖新畑地区。

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内野の公園から望む高座山。

ここにも秦氏の居住区がありました。しかし、800年の富士山大噴火で移動を余儀なくされた彼らは、都留市、大月市、上野原などを経て相模国の秦野や寒川に移住したのです。彼らの動きが手に取るように見えてきませんか?でも前回で書いたように、この考え方には矛盾もあるので別途検討してみます。

次に富士吉田市に向かいます。富士吉田市周辺には徐福伝承が色濃く残っています。しかし、別の疑問も浮上してきます。徐福一行は駿河湾の浮島から上陸したとされます。その後を追った秦氏も同じルートを移動したと思われます。

であれば、大地の発する気に導かれた彼らが目指す土地はフィリッピン海プレート、北米プレート、ユーラシアプレートが収束する陸上三重点のはずです。陸上三重点はもちろん富士宮にあります。では、なぜ富士宮に徐福や秦氏の痕跡が見られないのでしょう?

(注:徐福が秦氏のように大地の発する気を感知できるのかと言う別の問題があります。しかし徐福は秦氏が祖先と自称するほどの道教の方士でした。当然そうした能力は身に付けていたと考えられます。なお、徐福の富士山麓渡来はまだ確定できませんが、議論を進めるために渡来したと仮定して書いている点お含みください。また秦氏は徐福の子孫ではないとの仮定で書いています)

富士宮の中心には1300社を数える浅間神社の総本宮、富士山本宮浅間大社が鎮座しています。主祭神は木花之佐久夜毘売命「別称:浅間大神(あさまのおおかみ)」。相殿神は瓊々杵尊(ににぎのみこと)、大山祇神(おおやまづみのかみ)となります。

大山祇命(本記事では大山祇命に統一します)が徐福であれば、徐福や徐福系秦氏の痕跡と言えるかもしれませんが、根拠が弱すぎます。次の根拠を探りましょう。

「相模国の秦氏 その4」2010年12月4日にて、「記録に残る最も古い相模国の国守は秦氏の秦井出乙麻呂で天平15年(743年)より国守の職に就いたとされています」と書きました。(富士山麓の徐福系秦氏が相模に移住する前に、別系統の秦氏が既に相模にいたことの証明になります。これは以前にも書いていますが…)

そして富士宮には上井出と言う地名があります。駿河国富士郡井出(現在の富士宮市)発祥の井出氏は、藤原南家二階堂氏の一族とされています。しかし井出の地名は、富士宮に入った秦井出氏が元になっているのではないでしょうか?

話は飛びますが、以前書いたように大阪府池田市には秦上郷、秦下郷と言う秦氏地名があります。ここは猪名川の流域に当たり、川の東側は摂津国の豊嶋(てしま)郡です。秦氏の豊があり、豊嶋の秦上郷、秦下郷とくれば、ここは秦氏の重要拠点に間違いありません。

さらに、「続日本紀」神護景雲三年(769年)には「摂津国豊嶋郡人正七位 井手小足等十五人に姓・秦井手忌寸を賜ふ」とあります。井出氏は秦氏の流れと確認できる記述です。

ところで、青木ケ原と富士山頂の間には大室山、長尾山などの寄生火山があり、貞観6年(864年)に長尾山が噴火。溶岩流が流れて青木ケ原が形成されました。秦井出氏は宝塚市切畑字長尾山の長尾山を持ち込んで、富士の寄生火山に長尾山と命名したのではないでしょうか?秦氏の得意技である地名の持ち運びですね。また「切畑」は秦氏地名の可能性があります。

池田市の池田駅に近い室町には呉服(くれは)神社が鎮座しています。祭神は呉の国から渡来し、日本に機織技術を伝えたとされる織姫・呉服媛(くれはとりのひめ)と、仁徳天皇。この神社は秦下社と称され、その北に鎮座する穴織神社は秦神社と称されていました。

一方徐福は富士山麓の中室に入り、機織りを地元民に教えたとか。だから、富士吉田市は「甲斐絹」の織物産業が盛んになったそうです。徐福の機織りはあくまで伝承ですが、両者のストーリーには共通するものがあります。


大きな地図で見る
池田市のグーグル画像。拡大すると畑の地名もあります。

豊嶋郡における秦井出忌寸の祖は意美の子である知々古でした。以前にも掲載していますが、系図を再度書いてみます。

秦酒公(葛野秦氏の祖。秦氏の中では有名人物)─意美─知々古(摂津、秦井手忌寸)

秦酒公に関しては以下Wikipediaより引用します。

雄略天皇の時代には秦酒公(さけのきみ)が各地の秦部、秦人の統率者となったという。欽明天皇の時代には秦大津父(おおつち)が伴造となり大蔵掾に任ぜられたといい、本宗家は朝廷の財務官僚として活動したらしいとされる。


秦井出氏や機織りから見ていくと、富士山麓(富士宮)と池田市が結び付きそうに思えます。ただ、相模国の国司となった秦井出氏が富士宮から転勤してきたかどうかは、資料がなくわかりません。(摂津国から転勤した可能性もかなりあります)

問題は、秦井出氏は財務官僚系秦氏であり、それが理由で相模国の国司に就任できた点です。彼が財務官僚系秦氏なら、今回のテーマとなっている徐福系秦氏とは別の存在と考えるしかありません。仮に秦井出氏が富士宮に居住していたとしても、徐福系秦氏とは直接関係はないのです。困ったことに、秦井出氏の検討はここで行き止まりになりました。

徐福や徐福系秦氏は、なぜ大地の発する気が集中する富士宮を富士山麓における拠点としなかったのか?これは大きな謎なので、追ってじっくり考えたいと思います。

次に相模国の地名由来を検討します。京都における葛野秦氏の根拠地は太秦にあり、嵯峨野はそのすぐ近くです。(単に嵯峨とも言います)嵯峨野は太秦の西、桂川の北、小倉山の東、愛宕山麓の南すなわち秦氏エリアに広がる地域の名称です。地名の由来は、中国西安(長安)郊外の「巀辥山(さつがつさん)」を「嵯峨山」とも読んだからだという説も…。

だとすれば、秦井出氏が国司を務めた相模国とは、嵯峨(見)国であったのかもしれません。葛野秦氏が相模に移住し、丹沢と相模川のある風景が嵯峨に似て見えたので嵯峨見=相模としたのではないでしょうか?全くの当てずっぽうですが…。

相模の地名由来には、秦酒公の一族が酒造りを始めたところで、酒醸(さけみ)が転化したと言う説もあります。この説には十分な根拠が示されていないのですが、秦酒公の子孫が秦井出氏で、秦井出乙麻呂が相模国国司であることを勘案すれば、俄然真実味を帯びてきます。すなわち、相模国の国司となった秦井出乙麻呂の一族が酒造りを始めたと想定されるのです。(秦井出氏の検討がここで役に立ちました)

また、兵庫県加西市には高野山真言宗の酒見寺(さがみじ、さがみでら)があります。ここは聖武天皇の勅願寺で、開基は秦氏と関係の深い行基とされています。酒見も「さがみ」であることからして、酒醸(さけみ)説は有力候補と思われます。

しかも、伊勢原に鎮座する比々多神社の大相殿神(おおさかとけのかみ)は、大酒解神=大山祇命=徐福で、京都の松尾大社は酒造業者の祀る神社です。秦氏と酒は、切っても切れない関係にあるのです。次回からは富士吉田市に移動します。

                 ―富士山麓の秦氏 その10に続く―
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