FC2ブログ

富士山麓の秦氏 その28


源頼朝による富士の巻狩りは1193年に実施されました。鎌倉幕府創設の翌年です。その時期に富士山の表鬼門に当たる阿祖山太神宮を訪問する理由は一つしかありません。幕府が立地するのは鎌倉です。富士山が噴火すれば、関東全域に火山灰が降り飢饉となる可能性もあります。そうなると、創設から間もない幕府に深刻な打撃を与えるのは間違いないでしょう。

頼朝は多分、平安時代噴火が続いた富士山の怒りを鎮めるため、富士山の鬼門に当たる阿祖山太神宮を訪問したのです。しかし、阿祖山太神宮を礼拝し武運長久を祈願すれば、古渡(光照寺)で同じ祈願をする必要はないはずです。ではなぜ光照寺なのか、その理由を考えてみます。

まず、平安京のみならず頼朝の鎌倉においても、秦氏の鬼門ラインが構築されていることは既に論証しています。富士山と比較のため平安京の鬼門ラインを見ていきましょう。

平安京の鬼門ラインは、松尾山(松尾大社)、木島坐天照御魂神社(通称蚕ノ社、元糺の森)下鴨神社(糺の森)、赤山禅院(泰山府君を祀り、京都御所から見て表鬼門に当たるため、方除けの神として信仰を集めている)、比叡山の四明岳へと続くラインです。このラインは大和岩雄氏の「秦氏の研究」(大和書房)によると、冬至日の入遙拝線でもあり、夏至日の出遙拝線でもあります。

013_convert_20111208111250.jpg
平安京の鬼門ラインを示すグーグル地図画像。線は大ざっぱに引いてあります。

赤山禅院は京都御所の鬼門ですが、鬼門ラインの最終地点は比叡山でした。同様の構造は富士山にも当てはまります。富士山の鬼門スタート地点は富士浅間大社で、ライン上に山宮があり、富士山の鬼門に当たる阿祖山太神宮跡地には泰山府君碑があります。

しかし、阿祖山太神宮跡地は鬼門の終着点ではなかったのです。800年の富士山大噴火で壊滅するような場所は真の鬼門とは言えないからです。

頼朝は秦氏の手引きで古渡に赴き、武運長久を祈りました。実際には、この場所で鬼門封じの儀式を執行したのです。(近江在の僧侶も参加しているようです)その前に、かつての鬼門であった阿祖山太神宮にも参拝し、そこで政子に手紙をしたため、硯水不動尊における伝承が成立したのでしょう。

東国鎌倉幕府の支配者たる頼朝にとっては、富士の怒りを鎮めることが最重要な課題。鎌倉幕府創設からわずか1年後に、1カ月もかけて富士の巻狩りが催された理由はそこにあったのです。

古渡(光照寺)における鬼門封じは抜群の効果を発揮します。平安時代に頻発した富士山の噴火は鎌倉時代には全く見られなくなりました。でも、秦氏がまだ歴史の表舞台にいた平安時代初期になぜ富士山の噴火が頻発したのでしょう?

平安京の鬼門ラインは秦氏にとって最も重要でした。一方、平安京から見て富士山は草深い東国の地。噴火しようがしまいがほとんど影響はありません。富士山の鬼門封じが弱くても問題はなかったのです。阿祖山太神宮や富士高天ヶ原王朝に関連して秦氏が姿を見せていないのは、そのためとも思えます。

しかし鎌倉となると事情は大きく異なり、徹底した鬼門封じが必要となりました。よって頼朝は、秦氏の協力を得て新たな鬼門を設置したのです。

以下、地震も含めて平安時代から鎌倉時代以降における富士山噴火の歴史を概観します。

噴火:延暦19~21年(800年~802年)、貞観6年~7年(864年~866年)、承 平7 年(937年)、長保元年(999年)、寛仁4年(1020年)、長 元5年(1033年)、永保3年(1083年)、応永34年(1427年)
地震などによる山の崩壊:養和元年(1181年)、「太平記」によれば、元弘元年(1331年)富士山の禅定(山頂?)崩れるとあります。


延暦噴火と貞観噴火は宝永噴火(宝永4年、1707年)と合わせ、有史時代における富士の三大噴火とされています。つまり、平安時代には二つの有名な大噴火があったことになります。一方鎌倉時代(1192年~1333年)はほぼ空白状態になっています。なお、「宮下文書」には延暦の噴火が詳細に記されています。その事実を見ても、この文書を偽書とは断定できないことになります。

平安京における赤山禅院が鬼門ラインの最終地点ではなく真の鬼門が比叡山であったように、富士山における阿祖山太神宮は鬼門ラインの最終地点ではありませんでした。つまり、都留市古渡にある光照寺こそが真の表鬼門であり富士宮を起点とする鬼門ラインの最終地点だったのです。

017_convert_20111208111340.jpg
富士山の鬼門ラインを示すグーグル地図画像。線は大ざっぱに引いてあります。

阿祖山太神宮は800年の富士山大噴火で消滅しました。仮に社殿が再建されたとしても、表鬼門を封じる呪力は失われているのです。一度壊滅した場所は富士山の鬼門としてふさわしくない。鎌倉幕府を立ち上げた頼朝は新たな鬼門を設置する必要に迫られ、秦氏の協力により、かつて阿祖山太神宮までであった鬼門ラインを延長。ライン上に当たる光照寺を表鬼門としたのです。

               ―富士山麓の秦氏 その29に続く―
スポンサーサイト



コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

酔石亭主

Author:酔石亭主
FC2ブログへようこそ!

最新記事
カテゴリ
最新トラックバック
月別アーカイブ
カレンダー
01 | 2020/02 | 03
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
天気予報

-天気予報コム- -FC2-
最新コメント
FC2カウンター
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
QRコード
QRコード
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる