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富士山麓の秦氏 その29


富士山の鬼門ラインは最終的に以下のようになります。

富士山本宮浅間大社→山宮→富士山→阿祖山太神宮→光照寺

やや高台に位置する古渡の光照寺は、富士山の噴火や溶岩流にも耐えられる真の鬼門にふさわしい場所でした。源頼朝は富士山の表鬼門に当たるこの地に武運長久を祈願するため光照寺を建立した。そうさせたのは秦氏に他ならないはずです。

しかし、光照寺が富士山の表鬼門に当たるとする根拠は、鬼門ラインの存在、頼朝が武運長久を祈願した、鎌倉時代には富士山の噴火がなかったと言う3点のみです。一応の根拠にはなりますが、鬼門ラインや噴火がないのは単なる偶然だと片付けられそうですし、頼朝が武運長久を祈願したのも伝承に過ぎません。古渡の光照寺が富士山の表鬼門に当たると主張するには、より具体的な証拠が必要となるのです。

そうした証拠がなければ、この議論も説得力に欠けることになるでしょう。と言うことで、早速曹洞宗大医山光照寺に向かいます。


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光照寺の位置を示すグーグル地図画像です。

寺の前には秦設備工業があります。地名だけでなく、古渡(=小幡)は秦氏の関与がある土地と理解されます。だとすれば、ここが鬼門に当たるとしてもおかしくありません。

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光照寺。

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光照寺本堂。

山の斜面が墓地となっています。今まで見てきた秦氏の痕跡はほぼ全てお墓にありました。藤沢市妙善寺のような墓碑が光照寺にもあることを期待して墓地に入りましょう。

墓地の中を歩いていると、ひときわ大きな墓碑が目に留まりました。何やら文字が彫られています。近寄って見ると、秦や川勝の文字が…。こ、これは!!

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墓碑。画像では文字が判別できないので、内容を以下記載します。

柞大祖ハ人皇三十二代用明天皇御子厩戸皇子ノ家臣秦ノ川勝也、川勝二十五代秦ノ孫三郎当国守護ノ為二来リ、古城二逗留中男子出生ス即秦次郎源六ト申ストナリ、建久六乙卯(一一九五)十月生トナリ、孫三郎ハ帰京ス、金札ノ時ナリ

大祖先は人皇三十二代用明天皇の子である御子厩戸皇子の家臣秦川勝である。川勝二十五代秦孫三郎が当国守護の為に来て、古城に逗留中男子を出生した。すなわち秦次郎源六と申すなり。建久六乙卯(一一九五)十月生まれである。孫三郎は帰京した。金札の時である。

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拡大画像。「秦ノ川勝也」などの文字が読み取れます。

墓碑には正に驚くべき内容が語られています。秦川勝25代目の秦孫三郎が当国守護のため当地に来て、古城に逗留中の建久6年(1195年)に秦次郎源六と言う男子が生まれたとのこと。

古城とはどこでしょう?「甲斐国志」巻之三十六山之部第十六之中の御正体山の項には、小幡村の沢々を過ぎ末は古城山に至るとありました。孫三郎は古城山(光照寺の北で海抜583m、グーグル画像で住吉神社のある辺り。拡大してご覧ください)の麓に逗留したと理解できます。住吉神社は海人系ですから、海人系の拠点に秦氏の拠点が重なっています。なお小幡村が現在の古渡となります。

富士の巻狩りが建久4年(1193年)ですから、秦孫三郎が同時期既に古渡の地にいた可能性は大きいと思われます。秦孫三郎は富士山の鬼門設置を目的として京を出立、古渡を訪問します。それに合わせて頼朝は巻狩りを主宰。巻狩り終了後に、元祖富士山の鬼門でありかつて聖地でもあった阿祖山太神宮を礼拝し、続いて古渡に出向き、秦孫三郎とともに表鬼門封じの儀式を執行したのです。

「金札(きんさつ)ノ時ナリ」の意味がわかりにくいのですが、多分以下のようなことではないでしょうか?

能楽の観阿弥、世阿弥はいずれも始祖を秦川勝としています。そして能の謡曲「金札」は、「金札宮」の縁起に由来するもので、観阿弥の作とされています。「金札」の内容は大略以下の通りです。

桓武天皇が平安京遷都の折、伏見の里(秦氏の伏見稲荷大社がある)に社殿造営の勅命を下し、勅使が遣わされた。勅使は一人の老翁に目を止める。すると老翁が歌を謡った。その時、不思議なことに天より金札が舞い落ちてきた。札には長く伏見に住んで、この国を守護すると書かれていた。そして天津太玉神(=老翁)が金札と弓矢で悪魔を降伏させ社殿に入ると、世の中は安寧な時代となった。金札とは、君(桓武天皇)を守り国を治める印であった。

この金札宮は伏見区の鷹匠町に鎮座し、伏見では最古の社とのことです。


大きな地図で見る
金札宮の位置を示すグーグル地図画像。住所:京都府京都市伏見区鷹匠町8

平安京遷都には秦氏が深く関与し、伏見には伏見稲荷大社が鎮座し、鷹匠町の鷹は秦氏のシンボルです。金札宮から東に向かうと桓武天皇陵となり両者の関係がわかります。観阿弥は南北朝時代の人物ですが、「金札」を謡曲に取り上げること自体、金札と秦氏との関係を示しています。

金札宮のホームページを見ると、伏見は「高天原より臥して見たる日本の事」と書かれています。内容は、大明見の富士高天ヶ原から鬼門ラインを通して見た古渡とダブっていますね。

以上から、ある事実が明確になります。秦氏は平安京の鬼門ラインと同様に、富士山にも鬼門ラインを設置しました。そして鬼門の終着点である光照寺で鬼門封じの儀式を秘密裏に執行したのです。「金札ノ時ナリ」の文言には、秦孫三郎と源頼朝の手で古渡に富士山の鬼門が設置され、戦乱の世が終わり日本に揺るぎない平和が訪れると言う意味が隠されていたのです。

この墓碑に記された文言の真の意味が、いかに奥深いものであるか良く理解できます。秦氏ならではの、壮大なスケールを持つ内容だとは思いませんか?

なお墓碑に刻まれている歴代先祖戒名の一番古いものは、読み取りにくいのですが、元亨2年と思われます。西暦では何と1322年になります。鎌倉時代の終わり頃にいた先祖がわかっているとは、凄いとしか言いようがありません。

平安京遷都に秦氏の深い関与があったのは、司馬遼太郎氏も認めているように良く知られています。平安時代に続く鎌倉時代の始まりにおいても同様に、秦氏は頼朝を守り、頼朝が国を治めるのを助けていたのです。

但し、秦氏は平安時代初期以降歴史の表舞台から姿を消しています。従って、その関与は極めて隠密裏に実行されました。「金札ノ時ナリ」が秦氏の関与を示すほとんど唯一の証拠として残ったのです。頼朝がここで武運長久を祈願した(=表鬼門を封じた)背後には秦氏の存在があったとはっきり理解できますね。

頼朝が鬼門ライン上にある阿祖山太神宮を訪問していたとすれば、山中湖村長池地区の和田義盛伝説もより一層真実味を帯びてきます。

余談ですが、和田義盛の子に和田義秀(朝比奈義秀)がいます。彼は和田合戦で最も奮戦した武将とされ、一族が次々と討ち死にする中、船で所領の安房国へ脱出、その後の消息は不明とされています。和田系図では高麗に逃れたとも書かれています。

また一説には、和田義秀は熊野灘の太地(捕鯨の町として有名)に逃れたとされます。捕鯨術は義秀の子孫である和田頼元が慶長年間に創始した技法とされています。ところがです。熊野には徐福伝承が色濃く残り、徐福が太地の民に捕鯨術を教えたとの伝承が存在しているのです。

親子そろって徐福伝承の地に逃れたとは一体どうしたことでしょう?背後にはきっと隠された事情があるに違いありません。和田義秀に関しては以下Wikipediaより引用します。

朝比奈義秀(あさひな よしひで)は、鎌倉時代初期の武将。鎌倉幕府御家人。父は和田義盛、母は不詳(後述を参照)。安房国朝夷郡に領地としたことで朝比奈を苗字とする。朝比奈氏(和田氏一族)の当主。

和田氏は桓武平氏三浦氏の一族とされますが、和田は海人系の名前であり、本当のルーツは別にあったのかもしれません。安房国も捕鯨が盛んで、江戸時代前期には、房総半島の安房国勝山(海人系や秦氏と関係ある勝山が出てきました)に太地の捕鯨船が漂着し、安房の漁民に捕鯨術を教えたとか。やはり和田氏と徐福の間には、何かしら目に見えない繋がりがありそうです。

あれこれ書きましたが、800年の富士山大噴火で富士山麓を逃れた秦氏が最初に定着したのが古渡(小幡)であったと推測されます。(あるいはそれ以前にも一部のメンバーが定着していた)

秦孫三郎は表鬼門設置の儀式執行を目的として小幡を訪問。同地の平安(実際には日本全土の平安)を願い頼朝とともに富士山の表鬼門を封じました。それが墓碑の「金札ノ時ナリ」と言う短く唐突とも思える表現の中に隠されているのです。

秦孫三郎の子供の名前が源六であり、源頼朝の源を取っているかのように見えるのは、その隠れた証明であるとも言えます。

なおWikipediaによれば、「景教とは中国語で光の信仰という意味であり、景教教会は唐の時代、大秦寺という名称で建造された」とあります。景は光や光明を意味するのです。これまで関東各地で秦氏の痕跡を見てきましたが、横浜市栄区の光明寺、久我山の光明寺、秦野の光明寺、古渡の光照寺と全て光が付くのは偶然なのでしょうか?

鎌倉大仏の謎解きで、「忍性は、東大寺大仏の主要人物である聖武天皇の妻光明皇后、行基、秦氏などと精神的な繋がりを持っていることになります」と書きました。光明皇后は景教徒だとの説もあります。以前、秦氏は景教の枠組みだけで捉えられるものではないと書きましたが、こうも光が出てくると秦氏景教徒説にも一定の根拠が…??

話を元に戻します。光照寺には他にも秦家の墓が多数見られます。

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秦家の墓。

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墓地からの光景。

秦姓が古渡地区に多い理由。それは、古渡が富士山の表鬼門の最終地点に位置し、秦氏は鬼門守護を目的として一定の人数を配置していたからです。やはり都留市は、秦氏の重要拠点であったと言えるでしょう。

                ―富士山麓の秦氏 その30に続く―
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