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富士山麓の秦氏 その33


今回取り上げる地域は、関東の方でもほとんど馴染みがない場所ばかりです。しかし、各地に散りばめられたヒントから秦氏の移動ルートを探るのは、推理小説を読むよりも面白いと思います。
移動経路をご理解いただくためグーグル地図画像や電子国土画像を掲載しますが、是非地図を横に置いてお読みください。では始めましょう。

「その32」で書いた幡野の八幡社に関して、「甲斐国志」で調べてみます。巻之七十二神社部十七之下に出ていました。内容は以下の通り。(関係ない部分は省いて記載します)

八幡宮(駅ヨリ南三拾町幡野山上ニアリ)支村幡野ノ産神ナリ 里人相伝古へ何時ノ比ニカ有ケン大幡一旒空中ヨリ飛来リ此地二止ル 因テ神殿ヲ建立シ其幡ヲ納メテ神体トシ八幡宮トイハイ奉ル 因テ此地ヲ幡野ト名ヅク 凡ソ大幡、幡倉、加幡等ノ村里皆幡ノシハシ止リシ地ナリ 其幡飛行ノ時鈴一ツ落テ朝日村久保ト云地ニ止ル 土人神祠ヲ造営シテ之ヲ納ム 朝日小沢ヨリ朝日村二越ユル峠ヲ鈴音ト云是亦其縁ナリ 後此祠火災二遭ヘルニ其幡自ラ飛出テ相模国日向ノ薬師二止マルト云 今日向ノ薬師ヲ尋ヌル二然ル幡存セリ

猿橋より南三十町の幡野山の上に八幡宮があり幡野村の産神である。里人の言い伝えでは遠い昔いつの頃かは定かでないが、大幡が一流空中より飛来してこの地に止まった。よって神殿を建立しその幡を納めて神体とし八幡宮として拝した。よってこの地を幡野と名付けた。およそ大幡、幡倉、加幡等の村里は皆幡の止まった地である。その幡が飛行するとき鈴が一つ落ちて朝日村久保と言う地に止まった。里人は神祠を造営してこれを納めた。朝日小沢より朝日村に越える峠を鈴音と言うのはその縁による。祠はその後火災に遭い幡は自ら飛び出して相模国の日向薬師に止まると言う。今日向薬師を訪問するとその幡が存在していた。

この内容は極めて重要です。大幡や加畑(=加幡)は「その31」で見てきたように、古渡(小幡)から桂川を下った地にあり、さらに下った大月の岩殿山の北には畑倉(=幡倉)があります。ここまでずっと桂川に沿って移動してきた大幡(秦氏)は、猿橋において桂川と別れ、南に下ります。(秦氏の別動隊はそのまま桂川を下りますが、ここでは触れません)そして、幡野の地にある幡野山まで至ってしばし止まったのです。

前回幡野山に関して甲引山八幡神社のある山と比定しました。ところが詳細地図を見ると、幡野山は違う場所にありました。電子国土画像を参照ください。

006_convert_20111213192430.jpg
電子国土画像。

画像では明示されませんが、「朝日小沢」の朝の字の上あたりが幡野山(597m)と詳細地図には記載あります。(「小沢」の右あたりが幡野です)しかし、幡野山の山頂に神社があるとは考えられません。現在の詳細地図では597mの山が幡野山となっているものの、「甲斐国志」にある幡野山は「その32」にて記載した甲引山八幡神社が鎮座する山としておきます。

甲引山八幡神社の祭神は応神天皇で、神社の由緒では朝鮮での戦に敗れた軍隊(朝鮮軍)がこの地に渡来し、彼らが地元の人々に養蚕や織物を伝えたとされています。由緒の内容はやや曖昧で大ざっぱですが、秦氏の祖とされる弓月君の渡来に関連していると推定されます。

弓月君の渡来に関しては以下Wikipediaより引用します。

弓月君(ゆづきのきみ/ユツキ、生没年不詳)とは『日本書紀』に記述された秦氏の先祖とされる渡来人である。『新撰姓氏録』では融通王ともいい、秦の帝室の後裔とされる。
帰化の経緯は『日本書紀』によれば、まず応神天皇14年に弓月君が百済から来朝して窮状を天皇に上奏した。弓月君は百二十県の民を率いての帰化を希望していたが新羅の妨害によって叶わず、葛城襲津彦の助けで弓月君の民は加羅が引き受けるという状況下にあった。しかし三年が経過しても葛城襲津彦は、弓月君の民を連れて本邦に帰還することはなかった。そこで、応神天皇16年8月、新羅による妨害の危険を除いて弓月君の民の渡来を実現させるため、平群木莵宿禰と的戸田宿禰が率いる精鋭が加羅に派遣され、新羅国境に展開した。新羅への牽制は功を奏し、無事に弓月君の民が渡来した。


上記内容からしても、神社の由緒にある朝鮮軍とは弓月君率いる秦氏の一団であり、幡野山は甲引山八幡神社が鎮座する山と考えて間違いないでしょう。さらに、神社では12年に一度の大祭において、天皇が朝鮮出兵を指示した勅書と軍旗を開帳するとのことです。

そして、朝鮮軍(秦氏)がこの地に来たことから都留郡が「軍内」と呼ばれ、「軍内」が転じて「郡内」になりました。「甲斐国志」に「製造品 郡内絹 郡内トハ都留郡ノ自称ナリ」とあり、なぜ都留郡が郡内と自称されるのか意味がわからなかったのですが、これではっきりします。都留郡は秦氏の居住エリア内にある土地(=軍内=郡内)だったのです。

都留郡の都留は徐福が鶴になって飛び去った故事に由来しています。一方郡内は、秦氏が都留郡に渡来したことに由来しています。つまり都留郡の地は徐福と秦氏が重なって存在するエリアであり、それがはっきりと地名に表現されているのです。

話を大幡の移動に戻します。幡野山に止まった大幡(秦氏)は、次に朝日小沢に向かいます。幡野入口バス停を左折せずそのまま南下すると朝日小沢です。


大きな地図で見る
朝日小沢を示すグーグル地図画像。

大幡はその後朝日小沢から峠を越えて朝日村久保に止まりました。「甲斐国志」には「幡が飛行するとき鈴が一つ落ちて」、とありますが、「その32」で写真を掲載した魂神社の左脇に鈴が吊り下げられているのは、その故事によるものと思われます。この点も甲引山八幡神社のある山を幡野山とする根拠になりそうです。秦氏は鈴音と言う峠を越えて朝日村久保に到達します。この峠はどこにあるのでしょう?

電子国土画像を見ると朝日小沢の東に秦氏地名の高畑山があります。そして高畑山からの稜線が九鬼山へと紫のラインで引かれています。紫のラインが朝日小沢から大平へと続く道(林道鈴懸峠線)と交差する場所が鈴音とされる峠です。調べて見ると、現在の峠名は鈴懸峠(あるいは鈴ケ音峠)となっていました。驚いたことに、現在の峠名は大幡伝承の峠名と同じだったのです。

交差する場所から右に続く紫ラインが少し尖った場所が鈴ケ尾山で、これも鈴に関連しています。秦氏は朝日小沢から高畑山の西側に位置する鈴ケ音峠を越えて、朝日村久保に入ったとわかります。

朝日村久保は秋山街道に入る手前の地域と思われます。一帯には馬場、朝日馬場と言う地名があります。大幡が天から降ったのは道志村馬場(長幡)でしたから、馬場はその元になる地名とも想定されます。この一帯に秦氏はしばし止まったのです。


大きな地図で見る
馬場を示すグーグル地図画像。

画像に久保自治会館とあるのが、朝日村久保を意味していると理解できます。また地図画像を拡大して見ると、久保自治会館の近くに小幡管工と言う会社名が出てきます。古渡(小幡)にいた秦氏がこちらまで移動したことを示す貴重な例と思われます。今回は大幡が秋山街道沿いの朝日村久保に至るまでを見てきました。次回は朝日村久保から道志川に至る経路を検討します。

              ―富士山麓の秦氏 その34に続く―
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