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富士山麓の秦氏 その34


朝日馬場に秦氏の痕跡がないかチェックしたのですが見当たりません。ただ、この地には石船神社が鎮座しています。(神社の位置は「その33」の馬場を示すグーグル地図画像を参照ください)

神社には何と、後醍醐天皇の皇子である護良親王(もりながしんのう)の首級が安置されているとのこと。670年以上も前の首級なんか腐って残るはずがないと、つい思ってしまいました。でも本当の話のようで、江戸時代に日本初の復顔術が施され、都留市指定有形文化財になっているそうです。髑髏から復顔された首級は毎年1月15日に公開されるとか。

護良親王は以前にもご紹介した鎌倉宮の土牢で足利氏により殺害されます。建武2年(1335年)のことで、南朝が始まる前年です。ところが首級は、親王が寵愛する雛鶴姫によって持ち出されました。追手を避けるため、姫は相模国の大山から津久井の青山を経て秋山街道に入り、秋山村無生野で亡くなります。悲嘆にくれた供の者たちは、姫を葬り首級を石船神社に納めて祀りました。

無生野は雛鶴峠の近くで雛鶴神社もあります。ところが首級は石船神社に納められました。ここで疑問が湧いてきます。姫一行はなぜ秋山村無生野などと言う辺鄙な場所へ向かったのでしょう?姫は無生野で亡くなったのに、なぜ首級はもっと先の石船神社にあるのでしょう?


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無生野や雛鶴神社を示すグーグル地図画像。

答えは一つしかありません。後醍醐天皇は南北朝時代における南朝の天皇です。そこからどんなストーリーが生み出されるでしょうか?

姫は多分、京の都ではなく富士吉田市の阿祖山太神宮跡地に向かっていた。理由は太神宮跡地が間もなく隠れ南朝の地になると知っていたからです。姫は、自分の命が無生野で終わっても、せめて親王の首級だけは太神宮跡地にもっと近い場所で祀りたいと考えた。そうした姫の意識が従者の行動に反映し、首級を朝日馬場の石船神社で祀る結果となった。

そんなストーリーが考えられます。いや、上記以外に姫が無生野まで辿り着いた理由を探せないのです。いかがでしょう?隠れ南朝の存在がトンデモ話ではなく、現実的なものとして迫って来るように感じられませんか?

推測だけの余談はさて置き、大幡(秦氏)は次に道志川へと向かいます。朝日村久保を出て道志川流域に入るには、秋山街道から再び南に下り山越えする必要があります。でも、ここで疑問が湧いてきます。

そもそも秋山街道に入るには、都留市から139号線を大月方面に向かい、禾生駅の前を右折して35号線に入ればよく、このルートならずっと簡単に朝日馬場へ行けるのです。なぜ秦氏は大月まで出て、そこから南下して山越えなどと言うやたら面倒なルートを選んだのでしょう?

彼らには、都留市を出て大月に向かう必然性があったのです。それは何か?理由は多分、大月が富士山の鬼門ライン上にあるからです。この理由以外に合理的な説明はできません。秦氏は富士山から流出した溶岩の最先端部が猿橋となることを確認し、移動経路を南へと転じたのです。

では、話を元に戻します。朝日馬場から秋山街道を東に進むと、街道のすぐ北側はリニア実験線となっています。実験線と秋山街道に挟まれた位置に高取(鷹取)山があって、これは秦氏地名です。(画像上に高取山は見当たりません。昭文社の神奈川県道路地図に出ています)。

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電子国土画像。

朝日小沢から道志村馬場までのルートを赤線で辿りました。馬場は画像に表示されませんが、竹之本と大栗の中間に位置します。

さて大幡(秦氏)は、高取山に近い辺り(朝日曽雌)で秋山街道を離れ、秋山川の支流沿いに南に下ったと思われます。南には秦氏地名の菜畑山(なばたけうら 1283m)があり、その東には赤鞍ヶ岳(1299m)があります。今度は1200m級の山越えとなり大変な難路ですが、彼らはこの二つの山の間にある峠を越えたと想定されます。位置関係は電子国土画像を参照ください。

赤鞍ケ岳と菜畑山の間の峠を越え道志川に出ると、もう大幡が飛来した馬場(長幡)に至ります。馬場からさらに道志川を下れば、大渡(大幡)です。本当に大変なルートを彼らは歩いたのだと思えてきます。それにしても、大幡飛来伝承と秦氏地名を辿ればほぼ秦氏の移動ルートを確定できるのですから凄いですね。


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大渡を示すグーグル地図画像。

連続して山を越えた大幡(=秦氏)は、「甲斐国志」によれば、大山の麓にある日向薬師(開山は霊亀2年で西暦716年)に到達しました。


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日向薬師を示すグーグル地図画像。

寺伝によれば、日向薬師は秦氏と関係の深い行基の開山とされています。行基開山は事実かどうか疑わしいのですが、秦氏との関係でそのような伝承となったのでしょう。

「吾妻鏡」にも建久5年(1194年)8月8日条に、源頼朝が大姫の病気平癒祈願のため行基が開山した「日向山」へ参詣したと記載されています。秦氏の影響下にある頼朝が日向薬師に参詣したのは頷ける話です。

さらに九州の日向は天孫降臨の地であり、猿田彦が天孫を案内しています。日向薬師の近くには白髭神社があり日向薬師と白髭神社の関連が窺えます。一般的に白髭神社は猿田彦を祀ります。猿田彦は秦氏とともに日本人を呪縛したメンバーでもあり、そこに秦氏が来るのは自然だと思われます。(この白髭神社の祭神は高麗若光と熊野権現です。高麗若光は猿田彦を敬っていたとされます)

大幡飛来伝承は秦氏の移動経路を示すものでした。それを伝承や地名だけでなく、史料面からも見ていきましょう。「甲斐国志」にある「大幡一旒空中ヨリ飛来リ」は、豊前国宇佐神宮の「託宣集」にも似通った記述が見られます。「託宣集」の場合、八幡神が示現する場面で、内容は以下の通りです。

辛国の城に、始めて八流の幡を天降して、吾は日本の神となれり

また「その16」において、「正倉院南倉大幡残欠」(絹製の幡)に秦勝国の名が見えると書きました。これは、大幡と秦氏が結び付いている証明となります。以上、伝承と地名に史料を加えて勘案すれば、大幡は秦氏を意味していると断定できます。

「甲斐国志」と道志村の伝承によれば、道志村大渡の次が大山の日向薬師となります。しかし、道志村大渡と日向薬師では間の距離がありすぎです。どこかに中継地点があり、そこを経由して日向薬師に着いたと考えたくなります。では、どこを?それが問題です。

問題は他にもあります。秦氏の到達地点は秦野のはず。幡野山に飛来し日向薬師に至った大幡は、最後に秦野に到達したとの伝承がなければ意味がありません。そして秦野の地名は、まず間違いなく幡野山の幡野に由来していると思われます。

それにしても不思議です。秦氏が上記ルートで移動したなど資料を幾ら探しても出てきません。けれども、大幡の伝承や秦氏地名、秦姓のある地域などで辿って行くと、極めて具体的に彼らの動きが見えてくるのです。そう、秦氏地名や伝承は秦氏が歴史の中に埋め込んだ暗号だったのです。

自分たちの動きを意図的に隠し暗号化した秦氏。いかに彼らが謎の多い一族であるのか、この事実からも理解されます。彼らの思考パターンや動きからすれば、大幡は必ず中継地点を経由して日向薬師に飛来し、最終地点である秦野に到達しているはずです。秦氏が片手落ちの行動を取るはずがありませんから…。次回はそれを探っていきましょう。

                ―富士山麓の秦氏 その35に続く―
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