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新田義貞鎌倉攻めの周辺 その10


あれこれ考えるのに少し時間がかかりましたが、ようやく先が見えてきたのでまた記事を続けます。まず、下の画像を参照ください。坂ノ下の御霊神社一帯を示すグーグル画像です。


大きな地図で見る
グーグル画像。

画像左端上の拡大・縮小マーク下あたりが、聖福寺跡を示す解説石板の所在地となります。熊野神社も画像にあります。この画像を見て気になることもありますが、取り敢えず熊野神社について見ていきましょう。この神社は熊野新宮と呼ばれています。

熊野新宮に関しては以下Wikipediaより引用します。

熊野新宮(くまのしんぐう)は極楽寺の鎮守社。単に新宮社とも。極楽寺開山忍性の行跡を記した『忍性菩薩行状略頌』に文永6年(1269年)創建の記述が見られる。鎌倉幕府の崇敬を受けた。幕府滅亡後は足利氏の庇護の下に入り、建武2年(1335年)には足利直義が土地を寄進している。


熊野神宮を創建したのは忍性とあり、鎌倉権五郎景政とは関係なさそうに思えます。ところがです。既に書いたように、鶴岡八幡宮の社務記録には、建長6年(1254年)1月28日条「当社御正体正宝等、被奉渡聖福寺新熊野」とあるのです。

新熊野と熊野新宮。まず間違いなく両社は同じものです。だとすれば、忍性の創建以前に熊野新宮は新熊野として存在していたのです。新熊野を勧請したのは、既に書いたように、鎌倉権五郎景政と推測してほぼ間違いないと思われます。

しかし、「聖福寺新熊野」の表現から、新熊野(熊野神社)は聖福寺の境内或いは隣接地に鎮座していると考えなければなりません。聖福寺と熊野神社の所在地が画像のように離れていると、「聖福寺新熊野」の表現に合致しなくなります。最初に書いた「画像を見て気になることもある」とはこの問題だったのです。

聖福寺の所在地に関する謎を探求する中で、別の謎が出現しました。ホントに困りましたねぇ。

悩んでいても仕方ないので、この問題は一旦横に置き、江ノ電極楽寺駅から熊野新宮に向かいます。

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忍性が創建した極楽寺山門。

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解説板。

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熊野新宮への案内柱。

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鳥居と拝殿。

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拝殿。

由緒は以下の通りです。

もと新宮社と称し、文永六年(七百余年前)忍性菩薩の勧請と伝えられ、鎌倉時代極楽寺全盛当時より熊野新宮と号し、同寺の鎮守として広く神地を有し、厚く幕府の崇敬を受けて栄えた。…以下略。

鎌倉における熊野神社に関しては以下Wikipediaより引用します。

熊野神社とは、熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)から勧請された神社を指す。
有史以前からの自然信仰の聖地であった熊野(紀伊国牟婁郡)に成立した熊野三山は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての中世熊野詣における皇族・貴紳の参詣によって、信仰と制度の上での確立をみた。しかしながら、中世熊野詣を担った京からの参詣者は、後鳥羽上皇をはじめとする京都の皇族・貴族と上皇陣営に加勢した熊野別当家が承久の乱において没落したことによって、歴史の表舞台から退き、かわって、東国の武士や有力農民が前面に出てくるようになる。
こうした一般の参詣者とそれに伴う収入に経営の基盤を求めた13世紀半ば以降の熊野三山は、全国に信仰を広め、参詣者を募るため、山伏や熊野比丘尼を各地に送り、熊野権現の神徳を説いた。この過程で、全国に数多くの熊野神社、すなわち熊野三山から勧請された神社が成立した。…中略…
極楽寺一帯には、もともと熊野新宮のほか、八雲神社と諏訪明神社の2社があったが、いずれも関東大震災で倒壊したため、1928年(昭和3年)に合祀された。関東大震災の折には、熊野新宮も損傷を受けており、1927年(昭和2年)に社殿が再建されている。

大変詳しく記載されており参考になりました。鎌倉権五郎景政は東国武士として熊野神社を勧請した先駆けのような人物とわかります。景政は既にご紹介した山形の熊野大社以外に、関東の有力な熊野神社と関係がありそうです。但し鎌倉ではありません。サッカーやパワースポットとして有名な師岡(もろおか)熊野神社(横浜市港北区に鎮座)です。

由緒によれば、同社は聖武天皇神亀元甲子年(724年)に全寿仙人によって開かれたそうで、「関東随一大霊験所熊埜宮」であるとのこと。

景政との関連を窺わせるのが、「い」の池の片目の鯉の伝説です。由緒によれば、遠い昔、熊野神社の権現様がこの地の悪者を退治したときに、弓矢で片目を射られた。その時に、「い」の池に棲む鯉が目を権現様のために差し出したので、以来「い」の池の鯉は全て片目になったと言われる、とのことです。

ここでは神社の権現様となっていますが、内容は明らかに景政の伝説が元になっています。伝説のおおよその内容は以下の通り。

後三年の役(1083~1087年)において源義家方の先鋒軍として戦った景政は、清原軍の放った矢が右目に刺さっても敵を倒し、自軍に帰りました。そして彼が目を洗った厨川には片目の鰍が棲むようになったとされています。師岡神社と景政の話は全く同じパターンだとわかりますね。

関東屈指の熊野神社に景政の伝説が流れ込んでいることは、熊野と景政の関係を如実に物語っていると言えるでしょう。

以上で熊野新宮を見終わりました。けれども、熊野神社と景政の関係以外に得られたものはありません。熊野新宮と聖福寺の所在地が離れている謎を解くヒントは、まだ何も出ていないのです。この謎を解明するには、聖福寺跡地に行ってさらに詳しく調べるしかなさそうです。

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熊野新宮の水仙です。
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