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新田義貞鎌倉攻めの周辺 その11

新田義貞鎌倉攻めの謎を解く
01 /29 2012

今回の記事はかなり長くなりそうです。

さて、聖福寺跡地とされる場所は江ノ電稲村ケ崎駅の脇を流れる音無川に沿った聖福寺ヶ谷の最奥部です。鎌倉にしてはかなり細長く奥の深い谷戸が形成されています。


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聖福寺ヶ谷を示すグーグル画像。

江ノ電稲村ケ崎駅の脇をほぼ北にまっすぐ伸びているのが聖福寺ヶ谷です。では海岸からスタートして、聖福寺ヶ谷を音無川に沿って遡りましょう。

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いつも見る稲村ケ崎です。

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高射砲陣地跡。

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音無橋です。 大正15年2月架橋。関東大震災で元の橋が崩落した後再建されました。

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音無橋から海岸方面を撮影。ワンちゃんを散歩させている方がいます。

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橋の下付近にある音無の滝です。

音無川の名前の由来は、音無の滝に由来しています。音無の滝は、その落ち口が砂であるため流れ落ちる音がしなかったことに由来しているとか。だとすれば、川床が鎌倉砂岩でかなり音がするこの滝は本来の音無の滝ではありません。音無の滝は多分川の源流部にあるのでしょう。

今回の探索は、聖福寺の所在地と寺に隣接していたはずの熊野神社です。前回で頭を悩ませた熊野新宮と聖福寺・新熊野の関係も解き明かす必要があります。

実は、聖福寺の所在地に関して「新田義貞鎌倉攻めの謎を解く その8」(2010年12月19日記事)で詳しく書いています。本論考の中で、寺のあった場所は解説石板のある聖福寺ヶ谷の最奥部ではなく、もっと海寄りの場所と特定しました。義貞の軍勢が谷戸奥にまで入ると、着陣後の行動に支障が出るからです。

さらに、解説石板が設置された現在の聖福寺跡地とされる場所からは、それを証明する堂宇の礎石など発見されていません。聖福寺の所在地は解説石板の設置された聖福寺ヶ谷最奥部ではないのです。

ここで、もう一度「鎌倉攬勝考卷之七」をチェックしましょう。「聖福寺廢跡 極樂寺より西南のかたに、大いなる谷あり。その蓮邊に北條時建立せし由。又熊野社も有けり」と記載あります。

極楽寺の西南の方角に聖福寺はあった。では谷戸のどのあたりに聖福寺はあったのでしょう?酔石亭主はグーグル画像の聖路加幼稚園周辺にあったと推定しています。詳しくは下の電子国土画像を参照ください。

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電子国土画像。

上端の小さい円が聖福寺跡地を示す解説石板のある場所。下側の大きい円が実際の聖福寺跡地と考えられる場所。極楽寺から北西に矢印を伸ばすと聖福寺跡地(と解説石板に記載される場所)に至ります。

「鎌倉攬勝考」の記述どおり極楽寺から南西に矢印を伸ばすと聖路加幼稚園周辺に至ります。酔石亭主はここが真の聖福寺跡地と考えています。と言うか、「鎌倉攬勝考」の記述通りに考えれば自動的にそうなるのです。もちろん文献だけでは十分と言えず、何らかの証拠を見いだしたいところです。

「鎌倉攬勝考」には、「又熊野社も有けり」と記載されています。この文面からすれば、熊野神社はやはり聖福寺の境内或いは隣接地にあったことになります。だとすれば、御霊神社近くの熊野新宮とは別の熊野社があることになってしまいます…。どうもうまく行きませんねぇ。

この検討は後に回し、取り敢えず江ノ電稲村ケ崎駅脇の谷戸奥へと続く道路を進みましょう。少し歩くと左手に谷戸が分岐しています。グーグル画像で聖路加幼稚園がある谷戸です。この谷戸に何らかの痕跡があればいいのですが…。

谷戸に入っても住宅が建て込んでいます。これは無理かなと思いましたが、少し先に工事現場があって、そこに「やぐら」らしき穴が二つありました。最初の穴を撮影します。

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平井戸です。

やぐらではなく奥の深い平井戸でした。この種の井戸は浄智寺など鎌倉のお寺で見られるものです。その隣が横穴墳墓であるやぐらでした。

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やぐらです。

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崖のやや高い位置にもやぐらが。

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聖路加幼稚園。

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谷戸の奥まった場所。趣のあるお宅があります。

いかがでしょう?古代人のお墓があり、平井戸もある谷戸は聖福寺跡地としての資格を備えているように思えませんか?この推論を確かめるため、是非一帯の発掘調査をして欲しいと思います。(実際には住宅が密集して無理です)

鎌倉の寺院の多くは一つの谷戸の全域が寺領となっています。聖福寺ヶ谷の谷戸全域が聖福寺の境内で、最奥部にも小堂があった可能性を否定することはできません。しかし、新田義貞が着陣した寺の中核部は音無川の最上流部ではなく、もっと海寄りの場所(聖路加幼稚園周辺)にあったのです。これで聖福寺の位置が確定できました。

次が熊野新宮と整合しない新熊野(熊野神社)の所在地です。

熊野神社は修験に関連しますので、山深い場所にあると考えるのが理にかなっています。ひょっとしたら、音無川の源流部(現在は正福寺公園)にあったのではないでしょうか?(そこに熊野神社があったら、何度も書いているように熊野新宮との整合性に問題が出てきますが…)

矛盾を抱えつつ、聖福寺ヶ谷をさらに奥へと歩きます。

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この辺りが谷戸の最奥部となります。

ものの見事に住宅開発されてしまい、社らしきものは見当たりません。こうなれば史料や古地図などに頼るしかなさそうです。手掛かりを求めて昔の地図でチェックしてみます。国土地理院の昭和25年の地図を見ると…。ありました。

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地図。

何と、この地図にははっきりと熊野権現社が出ています。他に滝不動と那智ノ滝と書かれています。鎌倉市は重要な遺跡を滝ごと潰させてしまったのです。驚くべき所業と言わざるを得ません。この体たらくで世界文化遺産の登録が目指せるのでしょうか?大いに疑問です。

それはさて置き、地図と現地を比較してみます。


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グーグル画像。

このオレンジ色の屋根のあるあたりが、熊野権現社及び滝のあった場所と推定されます。

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その場所の写真。

撮影した写真では道路奥に見える車庫のシャッターの上となります。但し、オレンジ屋根の家は取り壊されて現存していません。道路のマンホールの下からは水の流れる音もはっきりと聞こえます。(水流音は家の手前ではなくその一つ前の左に向かう道路に続きます)

オレンジと黒屋根の二軒の家の手前を左に進むと正福寺公園で、その前に聖福寺跡地を示す解説石板が設置されています。つまり、熊野権現社の所在地は現在の聖福寺跡地を示す解説石板所在地とほぼ同じです。

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聖福寺跡地を示す解説石板。

以上から、鶴岡八幡宮社務記録にある聖福寺新熊野とは、音無川源流部にある熊野権現社のことであると確定できました。また音無の滝とは国土地理院地図にある那智の滝であるとほぼ断定できそうです。問題は熊野権現社と熊野新宮の関係ですが、この点は別途検討します。

しかしです。ここでも別の問題が持ち上がりました。昭和25年の国土地理院地図に熊野権現社と記載ある以上、昭和に入ってもなお社が現存していたのです。これをどう考えればいいのでしょう?

多分、聖福寺の本来の立場を示す名残として、新熊野の小祠がそのまま残されたのです。いつの頃か聖福寺が廃寺になっても小祠はその命脈を保ち、昭和に至るまで現存し続けました。それが鎌倉市と住宅開発した西武の暴挙により、那智の滝も含めて潰されてしまったのです。

では、住宅開発で取り壊された熊野権現社はどうなったのか?もう一度国土地理院の地図を見てください。熊野権現社らしき建物の前から点線の道がくねりながら山の中へと続いています。まるで神様がこちらに来なさいと呼んでいるような…。

早速行ってみましょう。グーグル画像の拡大画面では戸田工務店の前の道を山に入ります。

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戸田工務店前。

道は昭和の地図とほぼ同様に山の中へと入っていきます。すると、山道の右手にありました。

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熊野権現社の石碑です。木の葉で隠れ熊野しか見えません。

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社です。

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石祠になっています。

石祠の作りはどう見ても新しく、昭和のものと思えます。取り壊される前には、石祠同様の小規模な社が音無川源流部にあったのでしょう。不動明王像もありますが、これが滝不動のことでしょうか?

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不動明王像。こちらはかなり古そうです。

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不動明王像の後ろにある祠。これも古い。

以上で鎌倉における聖福寺跡地と新熊野(=熊野権現社)の場所が特定されました。しかし、新熊野(=熊野権現社)と熊野新宮の関係はまだ解けていません。これを今までの探索結果から推論します。

いつの頃か、鎌倉権五郎景政が音無川源流部に新熊野(熊野権現社)を勧請しました。それとともに新熊野の神宮寺の役割を持つお堂が建てられます。新熊野の神宮寺であったお堂は鎌倉時代に入り北条時頼の手で聖福寺となり、幕府の寺として独自に発展します。

それに伴い、聖福寺は熊野神社の神宮寺、つまり神社に附属して建てられた仏教寺院という立場を離れてしまいます。神社と寺の主従逆転ですね。このため、時頼と親しい忍性が極楽寺の境内に新熊野を移し熊野新宮が創建されたのです。忍性が御霊神社の山向こうに熊野新宮を創建したのは景政との関係を知っていたからとも推測されそうです。

一方新熊野の小祠(=熊野権現社)はそのまま残され、いつの頃か聖福寺が廃寺になっても小祠は命脈を保ち、昭和に至るまで現存し続けました。昭和に入り熊野権現社が取り壊された際、神社の御正体は熊野新宮に移されたとか。これにより、二つに分かれたものが一つに戻ったような感もあります。

これで鎌倉においても大庭同様に聖福寺、熊野神社、御霊神社、鎌倉権五郎景政がセットになっていると確認できました。

ところがです。「鎌倉攬勝考」によると聖福寺は極楽寺の南西にあり、「吾妻鏡」に従えば大庭御厨にあることになり、両史料の記述は相互に矛盾します。では、聖福寺は鎌倉と大庭のどちらにあったのでしょう?必要なデータはほぼ出揃い、答えも出たようなものですが、次回でそれを検討します。
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酔石亭主

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