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新田義貞鎌倉攻めの周辺 その12


今回は聖福寺に関する謎解きの最終回です。前回の記事は山道の途中にある熊野権現社を見て終わりましたが、道は尾根筋まで続いています。少しの距離ですから謎解きの前に登ってみましょう。

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登り終えると尾根に沿って山道が続いています。

よく整備されています。かつては聖福寺ヶ谷から極楽寺などに抜ける生活道路だったと思われます。那智の滝(=音無の滝)のありかを探れないかと思い、正福寺公園の裏側に向かいました。

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両側の崖下が見下ろせる痩せ尾根です。

このあたりが一番狭まっており下に滝があったのではないかと想像されます。しかし、確認はできません。さらに歩きます。すると、突然視界が開けました。

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竹藪が切り込まれ、よく手入れされた山道です。

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聖福寺ヶ谷のほぼ全景。

住宅が建て込んではいますが、いかにも谷戸と言った風情です。あまり知られていない鎌倉の絶景ポイントがまた増えました。

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幹や枝をくねらせたヤマザクラ。

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さらに進むと大きな岩が…。

明らかに人の手が入っています。岩の手前半分を削り取っているのです。ここには小堂か修験者の廟があったのではないでしょうか?あるいは修行の場…。そう思って見ていると、削り取られた部分に文字らしきものが見えます。

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拡大画像。

文字が彫られているのは間違いなさそうですが、判読できません。誰か専門の方に解読願いたいものです。

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岩の先は二股に分かれ、右手は小さな切通しになっています。

鎌倉らしい山道を歩くことができました。

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別の角度から海側を見ます。聖福寺ヶ谷は左端になります。住宅だらけです。

山歩きを終え、今まで検討してきた内容を整理し大胆に推理してみましょう。

鎌倉権五郎景政が由比ヶ浜(甘縄)に居住していた頃、彼は熊野神を鎌倉に勧請しました。場所は前回で確認できたように音無川源流部です。その際、神社の近くに神宮寺的役割を持つお堂が建てられたと思われます。この時点で、熊野権現社(=新熊野)と聖福寺の前身となるお堂が建立されたのです。

景政が由比ヶ浜から大庭に移住する際、熊野権現社を大庭に分社しました。従い、大庭神社旧跡の解説板には、「権現社とも呼ばれています」と書かれているのです。熊野権現社の移動に伴い、お堂も部分的に移転します。あるいは熊野権現社を大庭に分社したことにより、神宮寺であるお堂の僧侶が数人程度大庭に移住したのです。これにより、鎌倉の熊野権現社とお堂、大庭の熊野神社とお堂がペアのような存在となりました。

建長6年(1254年)、聖福寺が北条時頼の手で聖福寺ヶ谷に創建されます。場所はお堂のあったところ(聖路加幼稚園周辺)と思われます。これにより、鎌倉の熊野権現社と聖福寺がペアになりました。

その結果、大庭において熊野神社のペアとなっているお堂も聖福寺と見做され、聖福寺が大庭にあるとの伝承が成立したのです。

しかし、「吾妻鏡」の建長6年(1254年)4月18日 庚申の条に見られるように、聖福寺鎮守諸神の神殿が上棟されます。聖福寺は熊野権現社の神宮寺であったのに、今度は聖福寺を鎮守する神殿が建てられたのです。ここに聖福寺は熊野権現社の神宮寺としての立場を越え、名実ともに北条氏すなわち幕府の寺として独自に発展することになりました。

よって、鎌倉権五郎景政が勧請した熊野権現社はその役割を終え、北条時頼と近い関係にある忍性の手で、文永6年(1269年)に現在地(当時の極楽寺領域内)に移され熊野新宮として創建されたと推測されます。熊野権現社(=新熊野)がこの時点で熊野新宮となったのです。ただし、聖福寺が廃寺となっても熊野権現社の小祠はそのまま残され、昭和に至るまで聖福寺ヶ谷の変遷を見守り続けました。

このストーリーであれば、大庭に聖福寺があるとの伝承にもかかわらず、新田義貞が鎌倉攻めの際着陣した聖福寺は、鎌倉の聖福寺であったと確認できるのです。

なお上記とは別に参考書籍として「鎌倉市史」の総説編を読んでいたところ、驚くべき内容を発見しました。市史の48ページには「正福寺谷は勿論のこと甘縄附近も大庭御厨の飛び地であったことには相違ないのであって、…以下略」と書かれています。しかし具体的な裏付けがないので探したところ、鎌倉の四境・七口の項(180ページ以降)に詳述されていました。

あれこれ論証されていますが、「新田義貞が鎌倉攻めの際大庭に陣取ったとは考えられない」と言うのが主な論点のようです。

また同時に、聖福寺は大庭にあるとの見解を持つ史料についても記載されていました。内容としては、『「地名辞典」は、…中略…「東鑑」の聖福寺は大庭であってここではないといっている』と言うものです。聖福寺所在地の問題がいかにややこしいか、これらの史料からも見て取れますね。

なお、景政は由比ヶ浜に居館を建て、その地を甘縄と号したとされます。「鎌倉市史」が甘縄も大庭御厨の飛び地としているのは、坂ノ下に景政を祀る御霊神社があることによりますが、酔石亭主は甘縄に景政の居館があったからだと考えます。(景政の鎌倉における支配領域が広く、坂ノ下も甘縄の範囲内と考えれば結果的には「鎌倉市史」と同じになります…)

加えて鎌倉最古の甘縄神明神社は祭神が天照大神…。この神社が景政と伊勢神宮を接続する回路になったのではないでしょうか?

結局、聖福寺所在地の謎の根源には鎌倉権五郎景政と彼が勧請した熊野神社があったのです。

「鎌倉市史」は鎌倉の聖福寺ヶ谷を大庭御厨の飛地とほぼ断定しています。この説は十分な説得力を持つと言えるでしょう。景政にとって鎌倉の聖福寺ヶ谷(新熊野を自ら勧請した地)は極めて重要な場所だったので、大庭に移転した後も飛地として確保していたと考えて何ら不自然ではないからです。

また、それほど重要な場所にある熊野権現社とお堂だったので、大庭に移住後そこに分社し、お堂の一部も移転するのは当然の行為と思われます。

さらに、鎌倉の聖福寺一帯が大庭御厨の飛地だとすれば、「吾妻鏡」にある「相模の国大庭御厨の内その地を卜する所なり」の文言がそのまま鎌倉の聖福寺を指すとしても全く問題はありません。

様々な検討を経て、何とか聖福寺問題に決着を付けることができました。新田義貞が着陣したのは大庭ではなく、間違いなく鎌倉の聖福寺だったのです。

以上で聖福寺の謎解きは終了です。
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