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北鎌倉の安倍晴明再考 その8


今回は簠簋内伝の来歴にスポットを当て晴明伝説の深源を探っていきます。但し内容は史実ではなく物語のようなものです。では奈良時代の初めに遡り簠簋内伝について見ていきましょう。

簠簋内伝は元々唐の皇帝が秘蔵する書物で、森羅万象を網羅する秘密の書とされます。その評判を聞いた元正天皇(生没年は天武天皇8年(680年)~ 天平20年(748年))はこの書を欲し、藤原不比等が阿倍仲麻呂を推挙。密命を帯びた彼は遣唐使の一員に加わって唐に向かったのでした。

阿倍仲麻呂に関しては以下Wikipediaより引用します。

阿倍 仲麻呂(あべ の なかまろ、文武天皇2年(698年) - 宝亀元年(770年)1月)は、奈良時代の遣唐留学生。姓は朝臣。中務大輔・阿倍船守の子。弟に阿倍帯麻呂がいる。
唐で科挙に合格し唐朝諸官を歴任して高官に登ったが、日本への帰国を果たせなかった。


唐に渡った阿倍仲麻呂は玄宗皇帝の寵愛を受けたのですが、奸臣によって幽閉されます。朝命を果たせない仲麻呂は、己を恥じで断食の末憤死しました。

でもこれは、晴明伝説における阿倍仲麻呂で、実際には官位を重ね、天平宝字5年(761年)から神護景雲元年(767年)まで6年間もハノイの安南都護府に総督として在任しています。ハノイは酔石亭主も3年ほど過ごした場所ですが、彼も市内のホアンキエム湖のほとりを散策したのかもしれません。仲麻呂は「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも」の歌でも有名です。

一方朝廷側は何の連絡もないのに業を煮やし、仲麻呂を逆臣と断じた上で吉備真備(きびのまきび)に唐へ渡るよう命じます。首尾よく入唐し玄宗皇帝に謁見した真備は簠簋内伝を借り受けたいと上申します。

すると奸臣たちが真備に難題を突き付けます。囲碁の勝負、暗号のような「野馬臺の詩」を読解せよと言った無理難題ですが、仲麻呂の霊の助けも借りて囲碁の勝負に勝ちます。また「野馬臺の詩」をも読み解きます。玄宗皇帝は真備の才能に深く感じ入り、簠簋内伝を渡します。ところが、またも奸臣が真備を謀殺しようと密談。

これを知った囲碁勝負の官人の妻隆昌女が危急を知らせ、自ら命を絶ちます。(この辺の経緯を書くと長くなるので、はしょります)真備は命からがら唐から逃げ出し、養老2年(718年)に帰朝。天皇に簠簋内伝献上します。あれほど簠簋内伝を欲しがった天皇なのに、なぜかお前が管理せよとの勅命が下りました。(そうしないと晴明伝説ストーリーにならないからですが…)

吉備真備は簠簋内伝を封印し、許可なく封印を開かないよう厳命します。こうして簠簋内伝は吉備家に伝わることとなりました。吉備家は後に加茂性を賜ります。その子孫が陰陽道の大物賀茂保憲で、彼は安倍晴明の師となるのです。

ここまでが晴明伝説の前段に当たります。さて阿倍仲麻呂の子満月丸の子孫が摂州阿倍野に住んでいました。彼はたぐい希なる才能を持ち、世間は稀に見る人物と評します。それに舞い上がったのか、彼は自分の通り名を取って安倍希名と名乗るようになり、家の再興を信太大明神に祈願します。すると、賀茂保憲の元で陰陽道を学ぶべしとの託宣を得ることができました。

吉備真備から9代目の子孫である保憲は、陰陽道を極めた人物として、世間から高い評価を受けていました。その門を叩いた希名の能力を保憲は瞬時に見極め、入門を許します。厳しい修業に明け暮れる希名は、あっという間の陰陽道の奥義を習得。保憲は希名に門外不出の簠簋内伝を納めた宮をお参りさせます。

そして娘の葛子と婚姻を決め、さらに自分の名前の一字を与えて安倍保名と名を改めさせたのです。陰陽道の免許皆伝となり葛子との婚姻も決まった保名は、阿倍野の信太大明神に参拝します。日も暮れた境内で保名は何かの気配を感じます。何と樹の根元に白狐がうずくまっていたのです。びっくりした保名の耳に、橘元方など狐狩りの男たちの声が響いてきます。

事情を悟った保名は、素早く白狐を社殿の下に隠し、危機から救います。保名により命を救われた狐は、涙を流しながら森の中へと逃げ去っていきました。

ちょうどその頃、保憲と葛子に危機が迫っていました。橘元方が葛子を成明親王に差し出せと保憲に難題を突き付けていたのです。

言うことを聞かない保憲に腹を立てた元方は讒言を繰り返します。その結果保憲父娘は所領を没収され相模国の藤沢に流刑されることとなったのです。と言うところで、藤沢の安倍晴明の最初「北鎌倉の安倍晴明 その6」に戻ることになります。

保名が嘆き悲しんでいると葛子がひょっこり帰ってきます。もちろんこの葛子は保名が助けた白狐の化身。本当の葛子ではありません。いぶかる保名に白狐はうまく話を作って丸め込み、二人は夫婦の契りを結びます。しばらくして二人の間に一人の子供が生まれるのですが、この男児こそが後の安倍晴明だったのです。

ところが、罪を許された保憲父娘が都に帰ってきます。事が露見した葛子(白狐)は「恋しくば尋ね来て見よ 和泉なる信太の森のうらみ葛の葉」と言う有名な歌を残して、保名の元から去って行きます。

去るに当たり白狐は、まだ幼子である晴明に自分の前世を語りました。自分の名前はかつて吉備真備を助けた隆昌女で、簠簋内伝に取り憑いて日本に渡ってきたというのです。保名が晴明の部屋に駆け入ると、白狐の姿は既になく、例の歌が障子に書き残されていただけでした。

そして稀代の陰陽師安倍晴明の活躍となるのです。彼の宿敵は芦屋道満。またの名を秦道満。彼はどのような人物なのでしょう?「秦氏の謎を解く その1」にて以下のように記載しています。

秦川勝の子孫に著名な秦道満がいますね。彼は安倍晴明と並ぶ陰陽師です。陰陽道を代表する呪術図形セーマン・ドーマンは、晴明と道満に由来しています。しかも、秦道満または秦勝道の子とされるのが有名な八百比丘尼で、八百歳まで生きたこの尼の伝説は漂白の巫女によって受け継がれてきました。

秦川勝から秦勝道、秦道満へと続く秦氏の系譜は、八百比丘尼からいわゆる七道者へと引き継がれます。彼らは漂白遊行の陰陽師。七道者とは猿楽、アルキ白拍子、アルキ御子、金タタキ、本タタキ、アルキ横行、猿飼を指しているのです。

平安期以降の秦氏は、下級陰陽師や芸能の徒、漂泊遊行の徒、山岳修験者として、どちらかといえば下層の民になり、最後は非人扱いとなってしまいました。古代における秦氏は、陰で日本の権力者を支え、時代が下るにつれて民衆や民間信仰の中に埋没し潜行していったのです。


つまり、安倍晴明は宮廷陰陽師の系譜に、芦屋道満は下級民間陰陽師の系譜に繋がる者だったのです。不思議なのは、秦川勝の没地が播磨国の坂越とされ、芦屋道満の生誕地は播磨でこの地に流され、何と安倍晴明自身も播磨守に任じられていることです。

播磨における秦氏に関しては秦さんはどこにいる? その4で書いていますので、参考としてください。内容的には非常に不十分ですが…。

結局播磨は秦氏の拠点であり陰陽道の拠点でもあり、それらが集約されて秦川勝、安倍晴明、芦屋道満などの伝説が形成されたのでしょう。


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