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相模国の秦氏 その6


前回では相模一之宮の寒川神社を取り上げました。今回は二之宮である川匂神社から見ていきたいと思います。酔石亭主はこの神社の名前からして酒匂川と関係があるのかと思っていましたが、匂はくねくね曲がっていることを意味しており、神社名は近くを流れる押切川が曲流していることに由来しているようです。創建は垂仁天皇の時代とされますが、祭神などを見ても秦氏との関連を窺わせるものはありませんでした。

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川匂神社です。

次は相模三之宮である比々多神社です。この神社の創建は神武天皇期と非常に古く、神社裏手には付近から発掘された環状配石が移設・復元されています。

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比々多神社です。

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解説板。

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環状配石。

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環状配石の解説板。

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同じく解説板。

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博物館の解説板。
休館日だったので中に入れませんでした。(以前訪問の折、入館したことがあります)

解説板によれば、大山を背に南面が拓けたこの地には旧石器時代から平安時代までの遺跡があったとのこと。周囲は今でも住み心地のよさそうな丘陵地帯です。古代の人々は大山を神体山として祭祀していたのですが、神体山がありインフラも整ったこの地に、秦氏が目を付けないはずがありません。

そこで、神社の祭神を見ていきましょう。注目すべきは豊国主尊(とよくにぬしのみこと)と大酒解神(おおさかとけのかみ)です。
豊国とは秦王国があった豊前の国を意味し、その主であれば当然秦氏となります。次に大酒解神ですが、この神名は大山祇神(おおやまづみのかみ)の別名で、大山祇神の実体は徐福だという説もあります。これらの点から、比々多神社は少なからず秦氏の影響を受けていると判断できそうです。

続いて、ヤビツ峠に行く途中にある大日堂を取り上げてみたいと思います。
ここは聖武天皇が大仏を建立する際の勅願所として742年に創建されました。古いお堂であることは確かですね。

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仁王門です。仁王門の先には大日堂があります。

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大日堂です。

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大日堂の仏像解説板。

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大日堂の解説板。

この解説板の不動堂に注目ください。縁起によれば、7世紀頃、秦氏がその守り本尊である不動明王を祀ったのが始まり、とあります。秦氏の存在がはっきりと出てきました。

次に解説板中の境内図を参照ください。不動堂の右上に茶湯殿があり、その下に秦川勝碑と小さく書かれています。秦川勝は秦氏の最も有名な人物で、聖徳太子のブレーンを務めました。蜂岡寺(広隆寺)を創建し、国宝第一号の弥勒菩薩像を安置したのもこの人物です。

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石碑です。実物より写真の方が陰影が強調されくっきり見えます。

碑文は応神天皇十五甲辰年(紀元284年)から始まっています。秦氏は第十五代応神天皇期に弓月君に率いられて渡来したとされていますが、日本書紀によれば秦氏の渡来は応神天皇十四年なので、一年誤差があります。

碑文の文字は磨滅して読み取れないものもあるのですが、取りあえず以下書き写してみました。不鮮明な文字を意味から当てたものもあります。例えば一行目の唐土は、漠土のようにも見えるのですが、そうするとどこかわからない地から来たという意味になってしまいます。なので、秦氏が始皇帝の子孫と自称する点、藤野町三柱神社に祀られる秦氏の氏神が唐土明神である点を考慮し、唐土としました。

応神天皇十五甲辰年自唐土秦苗裔 
守護来而安當山彼又住故名称里於
秦後孫秦川勝再加力云云

大体の意味は、応神天皇十五甲辰年に秦の遠い子孫が唐土から渡来し、当山を安んじて守護し、ここに住んだのでこの里の名を秦と称した。後の子孫秦川勝、と言ったところでしょうか(*_*;
いずれにしても、碑文の解読は、その製作年代も含め、専門の方にお願いするしかなさそうです。

以上、大日堂には色濃く秦氏の痕跡が残されているのですが、問題は、解説板によると不動堂の始まりが7世紀になることです。7世紀であれば、秦川勝は存命しており、その時点で既に秦野に秦氏が入っているとすると、彼らは紀元800年の富士噴火後に富士山麓から秦野に移住したというストーリーから外れてしまいます。

これを矛盾なく再構成するには、秦の始皇帝の子孫を自称する秦氏と、徐福の子孫と称する秦氏のグループがいて、秦野に先行して入ったのは海上移動の始皇帝の子孫グループで、富士山麓の秦氏は陸上移動の徐福系グループだった、と考えるしかないのですが、どんなものでしょう?

ところで、碑文では秦川勝本人が秦野に来たようにも受け取れます。しかし朝廷に仕え、最後は播磨で亡くなった川勝本人が秦野に土着する可能性は少なく、碑文の内容は伝説・伝承的なものとして考えるべきでしょう。

また碑文が作られた年代は不明ですが、それほど古くはないようにも思えます。とすれば、大日堂から見てとれるのは、この地に秦氏が来たという事実のみではないでしょうか。

最後に日向薬師と白髭神社を取り上げます。寺伝によれば、日向薬師は霊亀2年(716年)年行基によって開山されました。行基は葛野秦氏と関係があり、白髭神社も朝鮮渡来の神を祀る神社ですので、秦氏との繋がりがありそうです。しかしそれを証明する伝承はなく、確証はありません。

以上、ここまで謎の一族秦氏を相模国の範囲で見てきました。彼らが、7世紀から9世紀にかけて海上、陸上の両ルートで秦野に到来したのはほぼ間違いなさそうです。
不思議なことに、秦野の秦氏に限らず、彼らの存在は平安期以降ぱったりと途絶えます。全員が地下に潜ったかのような消え方ですが、その謎に関してはまた別の機会に検討してみましょう。
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『富士山写真を写真展にて撮り、富士山憲章を学ぶ。』

 こんにちは!・・雨もひとまず落ち着いた靜岡です。近所の床屋があるビルに行った所、ビル1階に展示されていた富士山写真ギャラリーを撮って来たんです・・♬:「富士は 日本一の山」は歌った事がありますよね?あの坂本龍馬も見た時のエピソードや【富士山憲章】と言いのも貼られた板ので書いてみました。「富士山記事は次号にも続きます」んがっ
・・・・言う様な主旨で記事ってみたのです。タイトルは:『富士山写真を写真展にて撮り、富士山憲章を学ぶ。』です。毎度のユニーク小笑い写真には「懐かしい富士山」歌:歌詞「近所から撮った富士山」に「写真展に展示された富士山」「伊豆スカイラインを通った頃の猫のドケドケ写真」「面白い安全標識」写真等々写真を貼りました。小笑いして戴ければ光栄です。<m(__)m>・・どうぞ!遊びに寄って見てやって下さい。\(◎o◎)/!


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