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信濃国の秦氏 その9


波田小学校前に戻り南に下り、宿泊予定の民宿を目指します。すると途中に何やら巨大な邸宅らしきものが…。


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グーグル画像です。

森に囲まれたような赤い屋根の家がその邸宅です。藤沢だったら50棟分の敷地でしょうか。早速見ることに…。

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雀オドシ(この地方独特の屋根飾り)が付いた古い本棟造りの住宅。

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もう一枚。

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解説板。

何と波多腰さんのお宅でした。こちらの祖先が明治になって波田堰を造られたのです。和田堰(大井堰)を造った先祖の秦氏に倣って工事をされたようにも感じられます。しかし、波多腰氏が秦氏なのか否かはまだ確定できていません。お屋敷を過ぎれば「民宿かねもと」はもうすぐです。


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民宿の位置を示すグーグル画像。住所:長野県東筑摩郡波田町8493-3

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「民宿かねもと」。

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もう一枚。

部屋に入って一休みしてから外に出ました。周囲はひたすらリンゴ畑が広がっています。

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リンゴの花。

民宿のご主人が庭の手入れをされていたので、声をかけてみます。様々な地域情報を持っておられると期待してのことですが…。お話してみると期待以上の収穫が得られました。内容は以下の通りです。

波多腰は非常に古い一族で東と西がある。(この段階では意味が不明でした)
本家から土地を分けてもらい、波多腰を名乗った者もいる。(血縁関係がなくても波多腰姓の方が居られると言うことです)
この一帯には波多腰姓以外に大月あるいは大槻姓も多い。(大月が秦氏に関連した名前であることは既に論証済みです。大和には秦氏の祖弓月君にちなむ弓月が嶽もありますが、由槻が嶽(ゆつきがたけ)とも表記します。大月→大槻は同様のケースと思われます)
鷺沢には河岸段丘のところに集落もあったが今は何もない。


さらに分厚い「波田町誌」までお借りすることができました。これだけの情報と資料に接することができるとは、予想以上の成果です。民宿のご主人が深い造詣と郷土愛を持っておられる方と理解できます。瓦で焼くステーキなども出る夕食と朝食込みで一泊6,300円はとても安いと思います。歴史探索の目的で波田町にお越しの際はぜひご利用ください。

民宿のPRはさて置き、全く念頭になかった「波多腰は東と西がある」の意味について検討してみます。西は言うまでもなく波田町一帯です。東とはどこでしょうか?白山から真東に線を伸ばしてみます。すると、昭文社長野県地図には史跡埴原牧跡がありました。埴原牧は大野牧(Wikiは秦氏が牧長であるとする)に対応しているような気がします。


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一帯を示すグーグル地図画像。

ただ「埴原」の読み方がわかりません。調べて見ると「はいばら」でした。「はいばら」をパソコン入力すると「榛原」になります。秦が入っていますね。そして駿河国の榛原郡は秦氏の居住地でした。詳細は「東海の秦氏 その8」、「その9」を参照ください。

榛原郡と大井川。埴原と和田堰(大井堰)。両者の関連性が窺えます。次に、お寺では牛伏寺があります。牛伏寺の仏像は若澤寺と共通のものが多く、両寺院は対になっているように思えます。以上から、東とはこの埴原一帯を意味しているようです。

町誌によれば牛伏寺は波田氏の氏寺で、ここの波田氏が波田町に移住して西の波田氏になったのでは、と記されています。秦氏の存在範囲が広がってきました。牛伏寺に関しては以下Wikipediaより引用します。

寺伝では聖徳太子が42歳の時に自ら刻んだ観音像を本尊として鉢伏山に安置したのが始まりという。寺名については、756年(天平勝宝7年)、唐からもたらされた大般若経600巻を善光寺へ奉納する途中、経典を運んでいた2頭の牛が倒れたことから「牛伏寺」の名が付いたという。なお、参道途中に建つ牛堂には2頭の牛が祀られている。
以上はあくまでも伝承であって、牛伏寺創建の時期や事情については確たる史料がなく、鎌倉時代以前の沿革は定かでない。牛伏寺が位置する鉢伏山の山頂には牛伏権現と称して蔵王権現を祀っており、元来、山岳修行、修験道の山だったと思われる。寺はもとは裏山に位置し、現在地に移ったのは1534年(天文3年)である。


寺の創建に聖徳太子の関与があるなら、秦氏も関与していた可能性があります。寺の写真に関しては以下を参照ください。
http://cubic360.yebisu.asia/Gofukuji2f_swf.html

http://cubic360.yebisu.asia/GofukujiNyoraidenf_swf.html

こんな風に撮影できるのですから凄いですね。

波多腰氏に関して、東にかつて居住していたのは上記からしてほぼ間違いないようです。ただ町誌は、波田町の地名由来や秦氏(波多腰氏)に関して様々な説を列記しており、じっくり考えないと理解が及ばないと感じられました。波田町の秦氏は一筋縄ではいかないのです。諸説あってしかも波田町以外にも広がりがあるようですから…。

秦氏の波田町を越えた広がりに関連して、沙田神社の石柵に「降旗元太郎」と刻まれていたのも気になります。

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石柵の写真を再度掲載。

同氏の経歴は以下を参照ください。
http://www.shimintimes.co.jp/yomi/kyakko/kyakko34.html

降旗元太郎氏は政界に進出し、長野県の養蚕・製糸業発展にも寄与した地元きっての著名人でした。長男の降旗徳弥氏は信濃日報社長、信越放送取締役、長野放送社長、衆議院議員、第2次吉田内閣の逓信大臣、松本市長などを歴任。映画監督の降旗康男氏は三男となります。彼は1999年に「鉄道員」で日本アカデミー賞監督賞・脚本賞を受賞しています。どなたも物凄い経歴の持ち主ですね。

では降旗姓に関してちょっと調べてみましょう。チェックしたところ、実に面白い結果が出ました。長野県全体で475人に対して、松本市が173人、安曇野市が89人、大町が89人です。松本市に降旗姓は多いのですが、松本を越え梓川の北に広がり、安曇野市と大町市を合わせれば松本市以上の数字となります。

面白くなってきたので降幡もチェックしてみました。全体で222人に対して安曇野市が108人、大町市が22人、松本市が44人と、より北部に密集する傾向があります。町誌を見ると古幡之牧にいた降幡氏が波田町に移住したとの説も書かれていました。これが事実なら、降幡氏は秦氏の流れである可能性も高くなるのですが、諸説あって定まらないこと甚だしい…。

他に古畑と言う姓もあったと記憶しています。ついでに調べてみましょう。長野県全体で672人に対して、松本市162人、波田町の南にある山形村41人、塩尻市132人、安曇野市と大町がそれぞれ22人でした。古波田姓は全体で4人に対して松本市が3人です。

波多腰姓は波田町に集中し、降旗・降幡姓は松本を中心に北側に広がり、古畑姓は南側に広がっていました。松本の秦氏は、何らかの事情により波多腰氏、降旗氏、降幡氏、古畑氏へと様々に改姓したのでしょうか?このようなケースは初めてなので、理解に苦しむところではありますが…。

波田町の秦氏を調べようと思っていたら、その広がりは、南は塩尻から北は大町までの範囲を含み、ますます奥深く、かつややこしくなり始めたようです。混乱しそうなので今日はここで打ち止めとします。

               ―信濃国の秦氏 その10に続く―
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