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信濃国の秦氏 その12

信濃国の秦氏
06 /01 2012

古代牧に対する秦氏の関与が一応確認できたので、大野牧に対して秦氏が関与している可能性も高くなりました。続いて所在地が不明とされている大野牧の範囲を見ていきましょう。「波田町の石造物編」に以下のような図がありました。

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図。

この図において上海渡の東に牧ノ内と言う地名が見られます。これは大野牧の範囲内を意味していると思われます。同様に、牧があった埴原には牧ノ内の地名が見られます。


埴原の牧ノ内を示すYAHOO地図画像。牛伏寺もあります。

もう一つの図を参照ください。

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図。

画像の左端に山形村とあり、唐沢があります。既に「大磯・高麗山の秦氏」で見てきたように「唐」が付く地名は秦氏との関係が想定されます。以上から大野牧は少なくとも梓川の南側、波田町の白山の麓より山形村一帯にかけて広がっていたと理解されます。

Wikipediaには「また、仁和寺文書でも、大野牧があった地区を大野庄と呼称するように変転している。現在の梓川のことは、この大野を流れていたことから、「古くは大野川と言っていたと思われる」」と書かれており、大野牧の広がりがどの程度であったかはさて置いても、波田町から南側(梓川の南側)一帯であることはほぼ間違いなさそうです。結局波田町における秦氏の痕跡は、全て白山周辺に存在すると考えられます。


大野牧一帯を示すYAHOO地図画像。唐沢の地名も見られます。

酔石亭主が宿泊した「民宿かねもと」は唐沢川の扇状地に位置し、正しく大野牧の中心部にあることになります。

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民宿近くから見た旧大野牧。いかにも牧とするにふさわしそうな地勢と思われます。

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もう一枚。

大野牧の所在とその範囲をある程度確定したところで、牧の成立年代を検討してみたいと思います。Wikiの記述では8世紀の初めです。しかし波多氏が、埴原・内田地区から寛正・文明年間に移住して大野牧の牧長になったのであれば、1460年から1486年の間となり大幅に時代を下ってしまいます。(秦氏に関する波多氏や波田氏の表記は「波田町誌」に従っています)

この矛盾点は、8世紀の段階で秦氏の手により大野牧が造られ、寛正・文明年間に埴原・内田地区から波多氏が移住したと考えれば辻褄は合わせられます。他の資料からもっと見ていきましょう。

「続日本紀」の文武天皇の四年(700年)三月丙寅(一七日)には、諸国に令して牧地を定め、牛馬を放たしめた、とあります。大野牧が8世紀初めに成立したとの間接的根拠にはなりそうです。

「甲斐国志」には「類聚三代格ニ、天長四年(827年)置甲斐国牧監 事云々、本朝世紀等ニ記ス左馬権少属秦忠見左馬小允小野国興等牧ノ御馬ヲ 牽進スル事見ユ」とあり、牧に秦氏の関与があるとわかります。「本朝世紀」には「天慶元年八月七日、是日、甲斐国真衣野・柏前両牧御馬廿疋牽進。左馬権少属秦忠見持参解文」と言った記事もあります。時代的にも鎌倉時代よりずっと以前です。

(注:左馬権少属は大初位下を意味しています。大初位は従八位または従九位の下、少初位の上の位階で、律令制において、さらに大初位上と大初位下の二階に分けられています)

以上、秦氏の存在が想定される波田町に大野牧がある点、朝廷が700年に牧地を定めた点、日本最古の牧に秦氏の関与がある点、秦氏が甲斐国の牧に関与している点などから、大野牧は8世紀に成立し秦氏が牧長を務めたと言うWikiの記述に酔石亭主も賛同したいと思います。

ここまでで、大井堰の築造時期と秦氏の関与、大野牧の成立時期と秦氏の関与に関して一定の成果を得ることができました。しかし波多腰姓の問題はまだ残っています。

「波田町誌」には波田町の地名由来と秦氏(波多氏、波多腰氏、波田氏)の起源に関して諸説が提示されていますが、どの説を採用すると明言されておらず、いずれも推測の域にとどまっています。

ただ、町誌として非常に詳しく調べられている点は特筆ものと思われます。読んでみると、各説に関して十分理解できない点も多々あります。(何しろ、お借りした本を宿泊当日の夜に読んだだけですから…)さりながら貴重な情報ではあるので、町誌の論点を以下のように整理し纏めてみました。

東の波多氏が西に移住した説。
① 埴原・内田の波多氏が寛正・文明の頃現在の波田町に越して(移住して)波多腰氏になった。
② 源氏姓波田氏を名乗る埴原牧の牧人が鎌倉時代に大野牧に移住した。
東の波多氏は巨勢氏であり西に移住した説
① 埴原・内田の地頭である波多氏は、昔は巨勢氏(輿)と称し鎌倉時代にこの地を領していたが、鎌倉時代末頃今の波田町に移住した。
② 波田氏と同族の巨勢氏が大和から埴原に移住し牧を経営し、今の波田町に移った。
③ 輿氏(巨勢氏のこと)は埴原の西越(にしこせ)地区に古くから住んでいた。波田氏が西に移ってから輿氏が埴原牧を相続し波多腰を名乗った。
安曇族の一氏族、八太造とする説
波田町の盛泉寺は天文21年( 1552年)神林領主常和泉守公の菩提寺として開基。(一説には鎌倉期の神林地頭常澄氏の開基)常澄氏は安曇族の一氏族八太造の子孫であることから、それにちなんで「波多」となった。

これだけではほとんど理解できないと思います。酔石亭主の場合は推論を積み上げていくスタイルですが、町誌の場合は文献に沿って組み立てるのでどうしても時代が新しくならざるを得ないようです。

それでも、町誌の記述から抽出される部分はあるでしょう。まず、各説は鎌倉時代から室町時代を対象にしている点。次に、秦氏(波多氏、波田氏)は東山麓から西山麓にある今の波田町に移住した点。さらに、波多腰姓は巨勢氏の影響があると見られる点です。(注:巨勢氏と秦氏が同族かは疑問です。八太造が安曇族であるのかも未確認です)

波多腰姓の問題は次回以降に考えていきたいと思います。

                ―信濃国の秦氏 その13に続く―
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酔石亭主

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