信濃国の秦氏 その13


波田町において波多腰姓の謎を解くことはできませんでした。となれば、信濃秦氏の原点である信濃国更級郡桑原郷(現在の千曲市桑原)に行ってヒントを探るしかなさそうです。

と言うことで、波田町を出て車を走らせます。松本市から北上し明科で403号線に入ると右手の山は虚空蔵山です。さらに進めば、麻績(おみ)村に入ります。村は北国西街道沿いに位置し、かつて麻績宿が設置されていました。今もその雰囲気が残っています。

310_convert_20120602040754.jpg
麻績村の古いお宅。

麻績宿に関しては以下を参照ください。
http://www.ichiro-ichie.com/03koshinetsu/nagano/omi/omi01.html

麻績の地名で連想されるのが麻績王と言う名前の人物です。時代が秦川勝の子である秦広国と近いので、ちょっと調べてみましょう。「日本書記」の天武4年(675年)4月18日には、三位麻続王に罪があり、因幡に流す。一人の子供は伊豆島に流し、もう一人は血鹿島(五島列島の島)に流すとありました。壬申の乱の関係で罪に問われたのでしょうか?Wikipediaの天武天皇の項には抵抗勢力の処罰とあります。

ところで、天武元年(672年)8月25日に大納言巨勢臣比等とその子孫が流罪との記事があります。何となく麻績王と対応しているような気がしてきました。

聖徳太子の関連では巨勢比良夫がいます。「日本書記」によれば、用明天皇2年(587年)7月、聖徳太子は仏教を守護するため物部守屋を討つのですが、この際巨勢比良夫が共に戦っています。当然秦川勝も一緒に戦ったのでしょう。(或いは秦川勝の父である秦国勝?)当時、秦氏と巨勢氏は共に敵と戦った盟友関係にあったのかもしれません。

秦川勝の生没年は不明で、6世紀後半から7世紀半ばの人物と見られます。秦川勝は644年に駿河国富士川周辺で、大生部多を討っています。587年に15歳であったと仮定し、650年頃死去したとすれば、80歳近い長寿を全うしたことになります。

問題は聖徳太子の子(「上宮聖徳法王帝説」による)とされる山背大兄王が 蘇我入鹿により皇極天皇2年11月11日(643年12月30日))に暗殺されている点です。これに関連して秦川勝の名が出てこないのは、643年の時点で既に死去していた可能性もあります。

赤穂郡の坂越は秦川勝の終焉の地とされ、彼を祀る大避神社が鎮座し、郡内に21社もあったとされます。周囲には高取峠や高尾山など秦氏地名も見られます。ところが同時に、蘇我氏の影響がある須賀神社が幾つも鎮座しているのです。秦川勝は蘇我入鹿の迫害をのがれて坂越に移ったとされているのに、逃れた地には蘇我氏の影が濃いとはどうしたことでしょう?この点に関しては「秦さんはどこにいる? その23」でも少し触れています。

蘇我氏と秦氏の関係は非常にややこしいので、現地調査もしていない段階では何とも言えません。一応秦川勝が650年頃に死去した前提で考えると、波多腰氏とは秦川勝+巨勢比良夫=秦巨勢氏となりそうです。まだ、単なる推測の域を出ませんが…。

もう少し巨勢氏を見ていきます。巨勢胡人の子に巨勢大海(こせおおあま、生没年不明。推古天皇の時代の人物)がいます。この名前に注目してください。

大海=おみ=安曇族の海人系=麻績(おみ)とならないでしょうか?秦川勝の子で信濃国を統治した秦広国に対応する人物が安曇族と関係を持った巨勢大海とすれば、大海は麻績と繋がりそうです。以上から、麻績王と巨勢氏は何らかの密接な関係があったと思われます。巨勢氏が海人系の安曇族と関係を持ち、秦氏は既に海人系と関係があるので全体が繋がりそうになってきます。

麻績村からさらに進むと聖徳太子から秦川勝が賜った信濃国更級郡桑原郷(現在の千曲市桑原)です。そのまま北東に進むと長野市で善光寺があります。善光寺の名前で何かが閃きました。そう、善光寺の創建には確か聖徳太子が絡んでいたはずです。ちょっと調べてみましょう。まず善光寺縁起です。とても長いので簡略に書きます。

百済から献上された仏像に関し、仏教に反対する物部尾輿たちは尊像を難波の堀江に投げ捨てました。物部尾輿の子・守屋を攻め滅ぼした聖徳太子が難波の堀江で祈ると如来様は一度水面に浮上され、再び御姿を水底に隠されました。その頃、信濃の国に本田善光という人がいて、国司に伴って都に行った折、難波の堀江にさしかかりました。すると、水中より燦然と輝く尊像が出現。 善光は歓喜して礼拝し、如来様を背負って信濃の我が家に帰りました。

これだけではよくわかりません。別の資料に当たってみましょう。「伊呂波字類抄」の推古天皇10年4月8日に以下の記述があります。

信濃国人若麻績東人(本田多善光のこと)が京へ出向き、帰る日にこの仏を伝え奉る。背を離れず、麻績郷へ着くと、住まいを奉って寺とし、四十一年礼拝供養

若麻績東人とあります。麻績王と何らかの繋がりが感じられます。と言うことは、巨勢氏との関係も想定されます。面白くなってきましたので、さらに別の資料に当たります。「扶桑略記」です。内容は以下の通り。

推古天皇一〇年(六〇二)四月八日、仏の託宣があり、信濃国水内郡にお移しした。この仏像がすなわちいま善光寺の三尊である。ある記に云う。信濃国善光寺阿弥陀仏がすなわちこの像である。推古天皇の御時壬戌四月八日、秦巨勢大夫に信濃国へ請け送り奉るよう命ずる。

何とまあ、驚いて腰を抜かしそうになりました。秦巨勢大夫とあります。秦氏と巨勢氏は海人系を経由しなくてもダイレクトに繋がっていました。波多腰氏の祖先は秦巨勢大夫だったことになります。しかし、そう簡単に断定していいのでしょうか?

秦巨勢大夫を現代で書くと、例えば、鈴木田中大夫になってしまいます。名字が二つ並んだ人物などいません。秦巨勢大夫とは秦大夫と巨勢大夫をくっつけて表記したものと考えざるを得ないのです。ではどんなストーリーとなるでしょう?

推古天皇の時代、秦巨勢大夫に信濃国へ仏像を送るよう命じられるのは聖徳太子を除いて他にいません。命じられた秦大夫とは、聖徳太子より恩賞として信濃国更級郡桑原郷を賜った秦川勝を措いて他にいないのです。だとすれば、巨勢大夫とは今までの検討結果から巨勢比良夫しかいないことになります。

では、「伊呂波字類抄」に出てくる若麻績東人とはどんな人物なのでしょう?名前からして、麻績王と関連する人物に間違いないと思われます。そして麻績王は巨勢氏と関係のある人物です。全くの想像ですが巨勢大海の子が麻績王なのかもしれません。

ストーリーは以下のようになりそうです。聖徳太子は秦川勝に百済からの仏像を善光寺(実際には麻績郷)に運ぶよう命じた。秦川勝は盟友である巨勢比良夫に委託した。巨勢比良夫は自分たちと関係の深い若麻績東人に命じて実際に運ばせた。つまり秦川勝は元請けで、巨勢比良夫は下請け、若麻績東人が孫請けの関係となります。

(注:若麻績東人はほとんど合成語のようで、東国の人である、若い麻績と理解されます。長野県における若麻績姓を調べたところ、全体で13人と非常に少なく、内12人が長野市となっています。チェックしたところ、現在も若麻績東人の子孫ではないかと思われる方が―過去の歴史で色々変遷はあったようですが―善光寺の関係者としておられました。)

さてそうなると、波田町における波多腰氏の素性が見えてきます。信濃国における秦氏は、秦川勝の長男である長男秦広国が信濃国に移り住んで統治したのが始まりと考えられます。巨勢氏も同じ頃信濃国に入り、秦氏と巨勢氏が婚姻関係を結んだのでしょう。「扶桑略記」に秦巨勢大夫とあるのは、その当時の印象が残っていたからではないでしょうか?しかし秦巨勢では「鈴木田中」と同じで姓としては成り立たず、波多腰に改名したと推定されます。

これで波田町の秦氏の実態が判明しました。秦広国傘下の秦氏と巨勢氏が婚姻関係を結び波多腰姓となり、彼らは朝廷の政策で波田町に移住。和田堰を築造し大野牧を開いたのです。

なお「扶桑略記」は堀河天皇の寛治8年(1094年)までを扱っているので、平安時代に成立したとされています。「波田町誌」が想定する波多腰姓の成立時期は鎌倉時代以降ですから、それ以前に波多腰の元となる秦巨勢が存在している以上、波田町の秦氏は秦広国からそれほど下らない時代に、既に入植していたと推定されます。

上記のような観点からすれば、波田町における和田堰の築造と大野牧の成立時期、それらに対する秦氏の関与が波多腰姓とその成立時期とも矛盾することなく連結してきます。これで、めでたしめでたしと思ったのですが、なおも心中には不安が残っています。「波田町誌」は東の輿氏(巨勢氏)が波田町に移住した説を最も数多く掲載しているからです。この説を再度以下に記載します。

東の波多氏は巨勢氏であり西に移住した説
① 埴原・内田の地頭である波多氏は、昔は巨勢氏(輿)と称し鎌倉時代にこの地を領していたが、鎌倉時代末頃今の波田町に移住した。
② 波田氏と同族の巨勢氏が大和から埴原に移住し牧を経営し、今の波田町に移った。
③ 輿氏(巨勢氏のこと)は埴原の西越(にしこせ)地区に古くから住んでいた。波田氏が西に移ってから輿氏が埴原牧を相続し波多腰を名乗った。

まず、巨勢氏が牧を経営する能力があったかを知る必要があります。「日本書記」の天武14年(685年)には巨勢朝臣馬飼に畿内の役を任じた、とありますので、牧を管理する任に当たっていたことは確かなようです。年代的にも和田堰築造や大野牧の成立時期と見合っています。西越地区は中山の中山霊園近くに西越公民館があることから確認できます。


大きな地図で見る
西越公民館を示すグーグル地図画像。

となると、輿氏がポイントになりそうです。輿姓で検索してみると…、驚いたことに長野県全体で76人中、松本市が64人と圧倒的な人数となっていました。上記の説から、輿氏は松本平東部の埴原・内田周辺に集中している(未確認ですが)はずです。実際に輿姓が存在している以上、町誌の記載内容も無視はできません。

しかし上記の説は、どれも輿氏(巨勢氏)が波田町に移住して波多腰になったと見るのが正しそうに思えます。言い換えれば、7世紀後半の波田町には秦氏が既に存在しており、そこに輿氏が移住して改姓、或いは秦氏と婚姻し改姓したものと判断されるのです。

結論的には、波多腰姓の起源は秦巨勢大夫説と輿氏の波田町移住に伴う改姓説の二つがあり、どちらとは断定できない結果となりました。いずれにせよ「信濃国の秦氏」は同国における秦氏の存在を検討するものであり、波多腰姓成立の経緯はともかくとして、波田町に秦氏が存在していたことは間違いなさそうです。

                 ―信濃国の秦氏 その14に続く―
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秦河勝と巨勢(雀部)と佐々木氏と和邇櫟(一井)氏

大避神社の祭神は豊彦王と言われていますが(吉田神社から)秦氏祖とも書かれています。
豊彦王は巨勢小柄の娘と阿閉天皇との間の皇子と言われています。秦河勝のもしかしたら母方の出自は巨勢と関係していると思われます。⇒秦河勝「秦巨勢大夫」

またその巨勢(本姓:雀部)男人の父の名は「巨勢川上」ですが、
川上氏は海部氏の宗家で物部の建諸隅命の子孫にもその名前が出てきます。
建諸隅命の妹が大海姫でご存知の通り、海部氏の姫の名前は大海姫がよく出てきます。
川上麻須の息子は大矢田彦命や宿禰といい⇒大春日氏の米餅や日触使主の兄弟と同一ではとされています。

ちなみにその日触使主は「仲臣佐久」ともいいます。
「佐久」の地名と同じです。その子孫とされる櫟氏や真野氏は近江の佐々木氏と同族となりました。

大彦の子孫の佐々木山公と雀部(巨勢)は婚姻により同一の氏族となったと思われます。
和邇部も「和」⇒武諸隅の先祖の十市氏と同族の「大倭氏」+「安部」と言われています。

佐々木山公の子孫とされるのが筑紫国造田道命と伊賀国造ですが
伊賀采女の子供が麻績王とされ「麻績」は「佐々木」氏と関連のある名前で以前から調べておりました。

田道命の子孫の筑紫国造磐井は豊の国(秦)を支配下においていましたが磐井の敗戦のあと豊の国の秦氏は全国に移動したようです。
佐々木氏と秦氏は大変関係が深いようです。

近江の佐々木氏のお隣にも愛智秦氏(秦河勝の子孫)が住んで愛智秦氏は佐々木氏に同族化しております。
また秦氏の行く先々に河内太秦の隣に高宮という地名や一井の井戸があり、京都太秦にも広隆寺の隣に一井という地名がまた嵐山の「櫟谷宗像神社」を秦氏が祀っています。
その頃からすでに櫟氏(春日氏)と秦氏は同族化していたと予想しております。

その櫟氏(高宮氏)は関ヶ原のあと秦の広隆寺の御教書を抱えて近江から山形へ逃げたようです。また櫟の同族とされる目賀田氏から出た三井氏も広隆寺の木島神社を先祖代々祀っています。
どうも櫟氏(佐々木氏)は愛智氏から男子が入ったらしいのでもろに「秦河勝」直系かもしれませんね。


巨勢氏は和邇氏(大春日氏)の旧姓で武内宿禰と葛城氏との間に生まれた子孫とされます。

Re: 秦河勝と巨勢(雀部)と佐々木氏と和邇櫟(一井)氏

コメントありがとうございます。

非常に詳細にわたり、また多面的な視点から書いていただいて参考になりました。
川上麻須の娘となる川上麻須郎女に関しては、丹波を訪問した際にあれこ検討しています。
「尾張氏の謎を解く」シリーズにて尾張氏や海部氏に関連する事項を、現場を訪問しつつかなり細かく書きました。
ご参考になれば幸いです。ただ、とても長いシリーズになってしまったので、読みにくいかもしれません。


これからもよろしくお願いします。

No title

ありがとうございます。尾張氏の記事を早速読んでみたいと思います。
 自分が調べた限りでは川上氏は丹波道主の妻が川上日女とされ、ヒバス媛の母とされております。彼らはどうも尾張氏と思われます。
 その後磯城県主や葛城氏を縁戚とする「尾張宗家」の「建田勢命」が丹後を治めることとなり、その子「建諸隅」が丹波大県主となり彼らは「尾張宗家」と「丹波海部の当主川上氏」を兼任したのではと思いました。
この建田勢命の兄弟とされるのは「建手和邇」と「宇那比姫」です。
 この「宇那比姫」が和邇氏の祖とされる天足彦命の妻となり和邇日子の母であると言われています。
 その和邇日子の子孫の和邇本家がついに絶えたのでしょうか。その後和邇宗家となった「大春日氏」はどうも
和邇日子の「母」の兄弟たち「建田勢命」もしくは「建手和邇」の子孫ではないかと感じております。

多分和邇部氏が祀った春日井の朝宮神社や和邇良神社での祭神が①「阿太賀田須命」←よく和邇で祖として祀られる②「建手和邇」であることからも可能性は高いのではと思っております。
それで最近川上氏を探求し始めておりましたが、ご存知の通り先代旧事も海部の勘注も世代も年代もごちゃごちゃですので、これから私も管理人様の記事を参考にさせていただき尾張氏の資料を調べていこうと思います。ありがとうございます。

Re: No title

コメントありがとうございます。

川上氏に興味をお持ちとのこと、是非京丹後市の旧久美浜町(旧川上村)をご訪問ください。
現地を見ると史料だけではわからない色々なものが見えてくると思います。

なお、私が書いた尾張氏関連の記事は、尾張氏高尾張邑発祥説を否定するのを目的として書き始めています。その検討過程においては様々な枝葉的事項にも頭を突っ込んでいます。また、尾張氏系図に関して乎止与命以前は捏造と考えています。なので、貴ご意見とはかなり異なる視点・切り口である点は予めご了承ください。非常に長いシリーズになってしまったので、読みづらいとは思いますが、ご感想などお聞かせいただければ幸いです。

以上、よろしくお願いします。


> ありがとうございます。尾張氏の記事を早速読んでみたいと思います。
>  自分が調べた限りでは川上氏は丹波道主の妻が川上日女とされ、ヒバス媛の母とされております。彼らはどうも尾張氏と思われます。
>  その後磯城県主や葛城氏を縁戚とする「尾張宗家」の「建田勢命」が丹後を治めることとなり、その子「建諸隅」が丹波大県主となり彼らは「尾張宗家」と「丹波海部の当主川上氏」を兼任したのではと思いました。
> この建田勢命の兄弟とされるのは「建手和邇」と「宇那比姫」です。
>  この「宇那比姫」が和邇氏の祖とされる天足彦命の妻となり和邇日子の母であると言われています。
>  その和邇日子の子孫の和邇本家がついに絶えたのでしょうか。その後和邇宗家となった「大春日氏」はどうも
> 和邇日子の「母」の兄弟たち「建田勢命」もしくは「建手和邇」の子孫ではないかと感じております。
>
> 多分和邇部氏が祀った春日井の朝宮神社や和邇良神社での祭神が①「阿太賀田須命」←よく和邇で祖として祀られる②「建手和邇」であることからも可能性は高いのではと思っております。
> それで最近川上氏を探求し始めておりましたが、ご存知の通り先代旧事も海部の勘注も世代も年代もごちゃごちゃですので、これから私も管理人様の記事を参考にさせていただき尾張氏の資料を調べていこうと思います。ありがとうございます。

そんな経緯があるとは知らずすみませんm(_)m

川上の土地にいつか行けたらいってみます。(自分は千葉なので遠いのですが・・)

櫟氏から出たとされる石上神宮の物部首一族なのですが、

何故櫟氏が物部の本家の神社を祀っているのか??

という素朴な疑問から、石上神宮の物部額田という人物に着目してみましたら、、

彼はどうも額田王と同世代の人で、額田王と同じ時代に額田で養育されたのでは?ということで額田王を調べると十市と葛野という土地にぶつかりました。

三輪の事代主⇒鴨主命⇒春日日子⇒十市氏とつながる磯城/十市県主の系譜をみて

実は佐々木氏は豊城入彦命を祀っているのですが、ある十市氏の研究者が物部伊・・と婚姻した磯城真鳥媛の親の代の磯城県主が豊城入彦命ではないかという記事があり、
京都の櫟谷神社の祭神も「事代主」ですし、
また三輪の社家は巨勢氏が途中で入り九州で高宮氏を名乗ったようですが、櫟氏も高宮氏を名乗って、「同族?」として関ヶ原に合流し一緒に戦った?という九州の高宮氏に伝わる伝承があるようです。
だいぶこの三輪に関係する十市氏と櫟の出自が関係しているのではと思いました。

その十市氏を外戚に持つと思われるのが十市根命ともいう物部千十根で彼は石上神宮を祀るよう命令されました。

春日市河も石上神宮を祀るよう言われていて、

今まで何故か春日氏には矢田皇女など「春日氏と物部氏」で並列の系譜がある人がいて、もしかしたら彼らは同じ人物に対応するかもと思い物部に関係する系譜をたどると
川上麻須子のところで大矢田宿禰 ⇒また春日氏との並列の系譜を発見しました。

ですから自分はただ小彦名命(佐々木氏が祀る)の子孫である「物部」氏を追っかけてきたら川上氏に来たという感じですので、
全く自分が追ってきた物部と尾張氏との関係がわからず?軽率に尾張を使いすみません。

ただ建諸隅の一族は「系譜上」は「葛城氏」と代々婚姻を結んできたと言われますが

その葛城氏本流は滅びてどうもその土地を「雀部(巨勢)」が相続したようです。

葛城直氏もその祖に許勢の「許」がついていて多分出自は武内宿禰に関係する「許勢雀部」からと予想しております。

櫟氏ははるか昔から武内宿禰と関係する「紀氏」を外戚とすると言われており「雀部+山君」とされる佐々木山氏と同族です。

色々と長くなりすみません。これからゆっくり読んで参ります。

Re: そんな経緯があるとは知らずすみませんm(_)m

垂仁天皇の時代に石上神宮に奉仕したとされる市川臣は和珥氏の支族となる春日氏の一族で、物部首、布留宿禰などと改姓を繰り返し、石上神宮の祭祀を担当し、物部氏は武器・宝物の管理を担当していたといった具合に機能分担で考えるとわかりやすいかもしれませんね。まあこの辺は、実態がどうだったかわからないので想像するしかなさそうですが…。

物部氏と尾張氏は尾張においてお隣さんの関係にあり、部分的に融合していたのかもしれません。それが両氏の系図において同一人物が別名でそれぞれの祖となっている理由ではないかと推測しています。先代旧事本紀を書いたのは物部氏の興原敏久とされていますが、彼は三河出身なので尾張の事情も熟知していたのではと思います。

物部氏は千葉県にも数多く痕跡を残しているようなので、そちらから調べられたら面白いのではないでしょうか?

蘇我

自分の生活圏は千葉の蘇我です(笑)葛城町や春日町、鎌取町(どうも鎌足らしい)椎名崎町⇒椎根津命に関係?(十市や大倭氏の祖)など地名があり、壬申の乱で大友皇子の関係者が逃げて住み着いたといわれているようです。櫟氏も巨勢氏も大友皇子の側についていたので何か痕跡があるといいのですが。
葛城町の近くにもある大六天神社などはたしか忌部に関係して高木神を祀ったと思われる神社ですので「天孫族」天津彦根命の子孫が千葉に来たのかなと思います。
「蘇我赤兄」や「鎌足の娘」が来たなど少し伝承は残っているようですが、、。
たしか春日町には「高橋さん」が昔から地主として住んでいます。
そういえば膳の高橋氏は佐々木山公と同族と言われ佐々岐神社で一緒に共通の祖「大彦」「小彦名命」を祀っていました。
高橋氏は「膳」として関東に早くから来ていましたし
ここ千葉でも「大彦」&「春日」のペアの痕跡を発見しております。
色々と教えていただきありがとうございます。

Re: 蘇我


三河にも大友皇子が物部や長谷部などと共に逃れ、岡崎市で亡くなったとの伝承があります。大友町なんて町名もあるので、本当かもしれないと思ってしまいます。関係する神社も数社あります。

ブログを立ち上げ、千葉における物部氏の分布や伝承、千葉への物部氏の移動ルートなどを書かれたら面白いのではと思います。

もし出来たら開設してみます。

パソコンには疎いためできないかもしれませんが、たしかに千葉での古代の動きがインターネット上では少ししか知ることができないのでできたらやってみます。
 少しずつ尾張氏の記事を読ませて頂いてますが141からしか読めず逆から読むことになっております。
そこで思わぬ名前が・・「笛吹連」が出てきましたが、
管理人様は多分ご存知かもしれませんが以前調べ物をしている中で面白い情報がありました。

①佐々木山氏と同族の高橋氏を以前調べておりましたが
 和歌山市岩橋に「高橋神社」があります。そこは別名「笛不吹明神社」といいまして由来に「古来岩橋に住む高橋、笛吹の人々はニギハヤヒの子孫とされている、、」とあって

佐々木山公と同族の膳臣「高橋氏」と「笛吹氏」は同族で
ニギハヤヒ~大新河命の子孫と伝承されているようです。

その伝承が本当なら佐々木氏と高橋氏と笛吹氏は物部大新河の子孫ということになります。大新河は「建諸隅」の父とされる人でしたね。

②ニギハヤヒ10世孫の玉勝山代根古命は「山代の水主連、軽部連、蘇宜部連の祖(⇒これは蘇我?)」とありますが

彼と同じ人物とされるのが「巨勢小柄」です。
ちなみに水主連は「雀部」氏に対応するようでした。

管理人様のブログで伊斯許理売命(天香山命)が「鏡、水主直、六人部、伊福部、笛吹」の祖であることを読ませていただきましたが

伊福部氏は上記の伝承を見た限り近江の佐々木氏に大変近い氏族だと思われます。葛城の六人部も「酒王」に関わり「酒」佐々木の出自に関わると述べる方がいましたし、葛城の土地を相続した雀部氏の土地に六人部があります。また鏡王の子額田王と櫟氏の物部額田は繋がりがあると思われます。佐々木/櫟一族の住む「愛智郡」という名称や針名神社の祭神も佐々木氏の「小彦名命」です。これで仁徳天皇が出てくると完璧なのですが、(笑)

Re: もし出来たら開設してみます。

尾張氏の謎解きは最初から読んでいただかないと非常に理解しにくくなります。グーグルで「尾張氏の謎を解く その1」と入力していただければ出てきますので、そこからスタートしてください。次の記事は、「その1」の記事全体の囲みの後に「尾張氏の謎を解く その2」とあるのでそこをクリックすれば出てきます。途中で別の記事を入れる場合もありますから、例えば「その19」でいったん終わっていたら、またグーグルで「尾張氏の謎を解く その20」を入力して続けてください。

笛吹連の祖は天香語山命となっています。この辺の説明は長くなってしまうので、最初からお読みいただければと思います。

私もパソコンは非常に疎いのですが、何とか自分でブログを立ち上げられました。やればできると思いますよ。また千葉県の物部氏に関してはネット情報では全く不十分だと思いますし、人が書いたものを後追い的にアップしても面白くはありません。地元の図書館で郷土史から調べ、そのうえで関係する神社や場所を訪問することで徐々に形になっていくと思います。そうした調査過程こそが歴史探索の醍醐味ではないでしょうか?

なんとか

教えて頂いたとおり30まで読みました。まだまだ途中ですが、、水主神社を読んでいまして佐々木との繋がりが気になり

「Forum 近江沙沙貴神社 古代史フォーラム」という
やはり佐々木氏に関係する情報が集められているサイトを覗いてみました。そこで下記のような情報がありました。

 倭得玉彦命は(佐々木山公の子孫と思われる大)伊賀彦の娘を娶り、玉勝山背根子(雀部の祖)と若都保(五百木部「いふくべ」)を儲けたようです。また両者の弟が「彦ヲソ」その子が「大入崎」で飛騨国造となり美濃方面へ移動したようですが子孫は死に絶えたようだという情報がありました。

やはり「一部の伊福部氏」は近江の佐々木氏に関係する女性を母方に持っているようですね。

別に記紀でも垂仁天皇の皇子五十○敷命が一千口の剣を作るよう命じ作刀は「川上部」という情報があり、同様の情報がある勘注では河上という名の鍛冶は「倭宿禰、、大振熊、川上真若、倭得玉彦命」という別名を持っていた。ということはこの「倭得玉彦命の一族は丹波で大和政権の鉄の入手と加工の担い手だった」ので、伊福部氏も鉄に関係していたんだなということを想像できました。

持統天皇に「雀部氏も春日氏も安部氏」も全て系譜を没収された上(雀部氏に口頭の伝承は残っているようですが)戦国時代まで特に戦闘の激しい土地に住んでいたので古代の系譜はありませんので、伊福部氏がこの一族に関わりがあるなら持統天皇以前の系譜は完全に改変されてますね(笑)

特に聖徳太子の乳母が「物部守屋の娘と蘇我馬子の娘と小野妹子の娘」三人だったこと(本当に物部と蘇我は敵対していたのでしょうか・・)。特に馬子娘は「日益」妹子娘は「月益(これは月読の「月」+川上の「麻須」か?)」と名乗り蘇我氏と小野氏はペアの名前で妹子は聖徳太子と同じ「科長」に墓がありますので、小野妹子と同枝の櫟氏は聖徳太子一族に特に関係していると思われますのでまず何も情報は残っていないですね。(佐々木山公子孫もしくは和安部氏(櫟)出自と思われる阿部倉橋麻呂は蜂子皇子がいなくなったあとの崇峡天皇の名代を引き継いだことは聖徳太子の母方と繋がっているはずです。巨勢胡人という名前もありますし佐々木にはペルシャ人の血も入っていたかもしれませんね。)



Re: なんとか

もう「その30」まで読み進まれたとは早いですね~。

近江はいろいろ面白い歴史が転がっているので、何度か行ってみました。
古代の話とは関係ありませんが、湖東三山は実にいい雰囲気です。
愛智秦氏や犬上氏などの痕跡も駆け足ですが見てきました。
佐々木氏は近江の大族なのでしょうが、私にとっては検討対象に入っていないのであまりよくわかりません。

機会があれば、古い町並みの残る彦根辺りも歩いてみたいと思っています。

No title

先月湖東三山に行ってきました。特に金剛輪寺は庭が良く、夏もおすすめです。彦根も彦根城や佐和山、少し足を伸ばすと櫟氏の故郷の高宮や多賀大社があります。是非観光がてら佐々木氏は管理人様の調べられている尾張と大変関わりがあるとあると思われますのでお立ち寄りください。

特に佐々木氏が祖先として大津の大荒比古神社で祀ったのが「豊城入彦命と大荒田別命」ですが
どうも尾張の最初の古墳が大荒田命の一族ではと述べる方がいたり佐々木氏の祀る大荒田別命と何か関係あるか前から気になっておりました。

また櫟氏の先祖に当たるかもしれない春日市河が武蔵国造となり赴任するのでその庶子の櫟本氏が石上神社の社家となった記述がありますが、武蔵国造は「大荒田別命」の子孫となっていて大荒田別命の武蔵への移動の足跡は佐々木/櫟氏と関係があると思い前から調べなければと思っておりました。

また六人部がある雀部庄の相続を調べましたら丹羽氏⇒平氏(池禅尼と関わる)⇒朽木氏(佐々木氏)でしたが、丹羽氏も大荒田別と関わっているようですので

尾張における大荒田別命の痕跡について是非何かお気づきのことがありましたらご指導お願いいたします。


Re: No title

湖東三山や多賀大社は去年の春に訪問しています。彦根でレンタカーを借り走り回りました。金剛輪寺の周辺は秦氏との関係で興味深いですね。また太郎坊宮もなかなか面白いですよ。機会があれば近江はもっといろいろ訪問してみたいと思っています。大荒田命と大荒田別命は別の系統だったように思いますが、よくわかりません。

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Re: 愛智氏

こんばんは。

尾張氏50まで読み進んでいただいたとのこと、ありがとうございます。
あちこちに話が飛ぶので、読みにくいかもしれませんがご寛容ください。

佐々木哲学校のブログは恐ろしく専門的ですね。
とても内容を咀嚼できません。
それはそうと、近いうちに近江を訪問して沙沙貴神社に行こうかと思っています。
詳細な調査はできそうにないので、単なる紹介に終わりそうではありますが…。

No title

こちらこそいつも返信ありがとうございます。
私も佐々木哲学校で秦氏の平井氏や山崎氏など高島七党について学ばせていただきましたがとても難解です。
秦氏と本佐々木氏だけでなく
一井氏や真野氏など和邇氏や紀氏や犬上君の多賀中原氏や三上祝の息長氏など
その全てが合体してしまった一族?は困りますよね。

また近江に行かれるとお聞きして嬉しいです。

管理人様のブログで龍神伝説と秦氏との関係を知りましたが
多賀久徳氏や高宮氏にも「龍神の娘の子孫」という伝説が残っていて、娘とは秦氏の女性か?という情報を現地の図書館の文献で知りました。
また多賀氏には大和で犬上君の創建した神社に菊理姫が祀られ猿楽が残っていて秦氏のお隣に住んでいた以上の婚姻関係があったのではと感じておりました。

沙沙貴神社の紹介や近江での秦氏の動向など情報を楽しみにしております。

近江八幡にはもともと一井氏が神官だった日牟礼社があって⇒これも秦氏と関係する「牟礼」ですね、、たねやの美味しい和菓子やバームクーヘンをウォーリズの建物で頂けますので是非お出かけください。

Re: No title

こんばんは。

戦前の日本でも地元の有力者同士の婚姻は頻繁にあり、古代からそうしたことが繰り返されれれば、何がなんだか訳がわからなくなってしまいます。中でも和珥氏は特にわかりにくいですね。私は現在愛知県の知多市に居住していますが、どんな理由か定かではないものの、全国でも知多市だけに鰐部姓が数多く存在しています。

日牟禮八幡宮のホームページには、そもそも日牟禮社の社名は、日觸の転とする説があり、和珥・日觸使主に由来します。日觸使主を始めとする和珥氏は、應神天皇に深い縁故を有し、同族の櫟井氏とともに江州(=現在の滋賀県地方)土着の氏族です。などと書かれていました。

日牟礼が日觸(日蝕、日食)だとすると、触媒の言葉があるように、牟礼は他者を変容させる存在を意味することになり、全く勝手な想像ですが死と再生を司る秦氏に相応しいようにも思えてきます。近江は今月中に行きたいと思っています。ただ、記事を書くのはかなり後になりそうですし、単なる訪問記録が主で謎解き的な内容はあまりないと思います。

No title

近江八幡の記事をいつも読ませていただいております。景色や家など色々楽しまれて良かったです。

ついに日牟礼八幡に突入され、これからの記事を楽しみにしております。


記事49を読んで大島神社が2神を祀っているのは櫟井氏の立場でしたら非常に納得がいきます。

京都の櫟谷宗像神社では(和邇氏櫟井氏と宗像氏は系図上では同族で途中でわかれていますが)

櫟谷社はもともと事代主が祭神だったようで、

たしか大國主は事代主の父親でしたね。

もし・・櫟谷社が櫟井氏の先祖を祀っているのであれば、大國主も櫟井氏の先祖になるはずですので、
日牟礼八幡が元々が和邇氏櫟井氏の先祖を祀った場所であったのなら大國主がそこにいるのは納得がいきます。

大神神社の社家と櫟井氏は両家とも中世に「高宮氏」を名乗りました。大神神社も三本柱の鳥居がありますし(笑)。櫟井氏(高宮)や同族の目賀田氏の子孫の三井氏はどうもこの三本柱がある広隆寺木島社と関係がありますので。。

仁徳天皇も櫟井氏は遥か昔からささき氏と血縁関係にあり
佐々木氏が祀る仁徳天皇も櫟井氏にとっては先祖?かどうかはわかりませんが大切だと思います。




Re: No title

コメントありがとうござました。

さすがにお詳しいですね。多分結論はお考えと同じになると思われますが、アプローチは多少異なるかもしれません。
あまり詳しくない部分の話なので、間違い等があったらご教示ください。

なお、仁徳天皇に関しては応神天皇のみ異なる仁徳天皇を祀る若宮神社が大島神社に合祀された結果そうなったものと思われます。

No title

地名にまで及ぶ調査読み応えがありました。色々と参考にさせていただきました。特に宗像三女性とのつながりには手をつけておりませんでした。教えていただきありがとうございます。

和邇は手をつけると古代史のあちこちと繋がり自分の先祖の苗字でなければとても手がつけられない難物だと感じます。

系図も変更されているので。

その中でも櫟井氏が祀る和邇下神社ではスサノヲとその子供とされる大己貴命(これは大國主?)母方の稲田姫が祭神ですし、和邇座赤坂彦神社では吾田方隅命が祭神なので
そこから自分で系図とか様々な情報をまとめてみると

スサノオ(これは本当か不明)ー大國主ー事代主ー○(母は大倭氏)

ー 大鴨積命(賀茂氏へ)
|                   
ー6世孫吾田方隅命(母は紀氏)
                    ー和邇君の祖(母は鴨氏)和邇へ
                    ー大神氏へ
                    ー宗像氏へ 

ということで中世に櫟氏(高宮氏)は紀州御家人と呼ばれていたそうですが紀氏が系図上では和邇の祖の母方に入っているようですし、日牟礼八幡に出てきた武内宿禰も母方が紀氏なので縁戚ですね。

大神・宗像・賀茂氏も同族のようです。特に和邇の祖には鴨氏の血が入ってるようです。(鴨氏は天津彦根命系で物部氏とは同族)

であれば「賀茂氏とほぼ同族秦氏」が櫟井氏と太秦で一緒に地名として残っているのは納得です。
(余談ですが佐々木氏から出た南条氏などは賀茂姓を名乗っています)。

和邇から息長氏や安部氏との繋がりが出てきますが、和邇の祖に大倭(十市氏?)の血が入っているようなので、十市郡の安部氏や額田氏との繋がりが見えてきます。大倭氏との関係からは更に物部氏との繋がりが少し見えてきます。

なんとなく和邇にそんな系図を思い描いておりましたがあくまで私の個人予想で参考になるかはすみません。

仁徳天皇については色々教えてください。更なる記事を楽しみにしております。


            

Re: No title

拙文がご参考になり幸いです。

あれこれ書き散らして最後に収拾のつかない状態にならなければいいのですが…。
まあ、こんな見方もあるかも…、といった程度でお読みいただけたらと思います。  

和珥氏系図ありがとうございました。
日牟禮八幡宮の検討では、吾田方隅命がキーマンとなりそうです。   

No title

元々の鰐族や九州からの宗像については何も触れず大國主以降を大まかに書いただけですみません。(ワニも宗像も大國主以降です)
九州ではワニは海外へも行けるような大型船、カモは小型船の名称のようです。
ワニ「王」と書くように中国との繋がり、東大寺古墳から出た刀から奴国の王の子孫であるとの説、卑弥呼との関係また新羅との繋がりなどの古代のワニに手をつけれない状態です。

近辺の紀氏も中国姫氏との関係や、木氏が朝鮮半島で貴族だったこと、高句麗が天皇家との繋がりを奏上してることから天孫族からして新羅や百済、高句麗王家との繋がりがあるようにも思え、追いかけるとノイローゼになりそうで手がつけられません。

まずは管理人様のようにコツコツと調べたいと思います。市杵島姫を楽しみにしております。(ちなみに高宮氏と縁戚の多賀久徳氏の霊山はもとは市杵島神社にありました。ヤマトタケルに関係する犬上君の子孫多賀氏や建部氏も佐々木家と同族化していますが、彼らは水沼君と関係しており九州から探らないといけません。調べると底なし沼に入りそうで避けておりました(笑)

Re: No title

自分の足で全部調べるのはよほど財力がないと無理なので、Wikiや他の方のブログなども参照するしかなさそうです。
でも、できる限りは現地に訪問すべきなのでしょう。まあ、理想論ではありますが…。
最近では多くの古文書がデジタル化されているので、とても便利です。
由緒などはこれらでかなり調べられます。

九州も行ってみたい場所ですが、最低でも一週間は必要ですし、簡単ではありません。
テーマとしては尾張と遠賀川流域の神社構成や祭神、伝承などの類似性に関してで、この謎は是非解き明かしたいなどと思っています。宗像大社もそれほど遠くないのですが、そうなると秦氏の関係地や宇佐八幡宮も近いしとなり、収拾がつきません。
いずれ機会があれば、とするしかありませんね。

No title

是非いつか九州探放の記事を楽しみにしております。

和邇は海人族で綿津見の子孫で安曇族といわれておりますが。綿津見は小童神とも呼ばれ少彦名命を彷彿とさせます、、小彦名神は秦氏が中国から携えてきた神のようですが「大國主の舅で鴨と葛城氏の祖」また「大彦の弟」に同名の者がいて、、ワニ佐々木秦に深く関わり前から調べてみたいテーマです。

宗像族(沖の島~宇佐と呼ばれた場所)
安曇族(志賀と対馬)⇒ワニ?
はお隣同士に住み、仕事もだいぶかぶっていたようですが
宗像は三女以外にも少彦名命や安曇族の首領武内宿禰を祀っていて現地では彼は「安倍宰丞」と呼ばれており⇒これは佐々木氏の先祖安部? 

武内宿禰と一緒に戦争に行き、戦ったのは宗像族で
武内宿禰は宗像の神を熱心に祀っていたようですし、
武内宿禰のことも安曇の棟梁であるならワニ族?かもを検討しないといけませんし、宗像との結びつき、佐々木氏+櫟氏が同族になった事に欠かせないテーマです。

事代主の母はもしかしたら宗像氏の可能性があるようですし。。

少名彦命の子孫「鴨・葛城」が出た鴨族ももしかしたら大和の前からもしかしたら安曇族と関わりがあるかもしれません。

もちろん安曇族は応神天皇の時代の秦氏の渡来前遥か昔からいた秦氏と同族である可能性、宗像や葛城が秦氏の渡来を手伝っていたことは確実ですし、
佐々木氏になってしまった様々な氏族がいつから一緒にいたのかワニ鴨とは何者なのか両者に深く入っている秦氏とは?まずは九州ですね・・資金面でいけませんがインターネットや文献で少しずつ調べて行きたいです。

Re: No title

和珥氏は古代天皇家とのつながりが強い割に、実態がよくわからないですね。
あれこれ調べても姿が見えにくいのが、彼らの本領なのかもしれません。

私は現在愛知県の知多市在住で、知多市のみに和珥氏と関係しそうな鰐部姓が多いのは実に不思議です。
和珥氏配下の地元の部民が鰐部を称したと見るべきなのでしょうが、名前自体に古さを感じさせるので、もっと違う何かがあったのかもしれません。
調べようがないので、疑問に思いつつ放置している状態です。

No title

知多半島の先端は渥美半島と三河湾をはさんで目と鼻の先ですが、渥美半島の先端に古代安曇氏が住んでいましたし、平安時代末期には焼き物を焼く釜があったようです。ワニは埴輪など焼き物が職業のようです。

安曇氏の祖は綿津見といわれていますが、彼は豊玉彦命でもあるようですので、彼の娘「豊玉姫」は日本書記に「大熊鰐」と関連して表現されております。彼女の娘または妹の玉依姫も熊鰐氏(わに)で、彼女の息子「神武天皇」もまた熊鰐(わに)です。彼の兄弟たちも熊鰐・・

事代主もまた熊鰐の血が入っていたようで
熊鰐とは事代主という人もいます。それで天皇家と熊鰐(わに)の連立政権という見方をする人もいるようです。
もちろん神武皇后にも熊鰐が入っているようです。

熊鰐といえば岡県主で3種の神器で天皇を迎える儀式を行ったようですが、伊都県主五十迩も同じ儀式を行ったようで彼も熊鰐ではと思われます。
また岡県主の熊鰐氏は現地では安曇系海人族秦氏であると言われているようです。


応神天皇の時代の秦氏の来訪を助けたのは
1宗像 秦氏を名乗っていないので安曇とは姻族?
2安曇 秦氏と婚姻によりすでに同族化しているようです
3住吉 彼らは安曇族と兄弟族のようですが、秦氏を名乗っていないので分岐の時期が早かった

といわれているようで、安曇はすでに応神天皇の時代前から秦氏と婚姻していたようです。

安曇はどうも中東から?呉を経由して対馬を拠点にしていた海人族のようです。(蒙古が来た時も呉の人は殺さないで助けたようです。)
日本に来てから彼らは日本を見て回ったのでしょうか
安曇や鰐の地名は全国各地にあり、船を使って良港や崇拝の場を抑えていったのでしょうか。

徐福一行が「秦氏」集団の船での先駆隊であったなら徒歩で大陸を歩いて来た秦氏一行を迎える役割があったのかもしれませんね。

武内宿禰も徐福伝説が残る土地の出身のようですし。

熊鰐氏がいたことがわかっている土地「伊那谷」に塩釜神社がありますがそこでは綿津見が祀られているようです。安曇と鰐の関係については安曇氏の研究のかたはほとんど触れていないようですが、私は深く関わっているのではと思います。きっと安曇と名がつく土地の近くには、鰐(わに)も秦氏もいるはずです。


追加:三河の和邇

三河蒲郡市に赤日子神社がありますが(知多半島と渥美半島の間の三河湾沿いにあります)、

もとは小野氏の神社だった和邇赤坂彦神社は
祭神が今と違ったようで大和志では「何神なるかしらぬが和邇の祖神」と記述されていたようです。

ただ和邇にとって重要な「赤土」が近くにありまさに「赤土の坂」で。

三河の赤日子神社も創建が和邇や小野氏と深く関わっているのではと予想します。

多分近くに赤土があるのでは・・
祭神もまさに豊玉彦と豊玉姫とウバヤスキ?安曇と熊鰐共通の人です。

訂正

訂正:ウガヤスキでなくて「ひこほほで」でした。

また以前の記述で吾田方須の母が大倭国民磯姫で祖母が紀伊名草姫と随分前に調べてうろ覚えで記述が逆になっていました。 申し訳ありません。

Re: 追加:三河の和邇

詳しいコメントありがとうございます。

蒲郡市の赤日子神社は以前に訪問しレポートを書いています。渥美半島の名前自体が安曇族と関係してきますね。
また、渥美半島に接した豊橋市や豊川市には秦氏の存在が見られ、「東三河の秦氏」シリーズの中で詳しく書いています。


名古屋市には安曇族が奉斎する綿神社があり、物部氏が尾張に入った際に先導したのではないかと思っています。
名古屋市における尾張氏と物部氏の分布状況など、あれこれ調べると実に面白いですね。

赤土

管理人様のブログが大量にありまして、やっと赤日子神社読むことができました。ご教示ありがとうございます。

やはり安曇族で「赤彦」ですね。。

和邇は埴輪造りはもちろん大事な家業でしたがそれは実は副業?であったと思っています。ほんとは水銀採取と製鉄(砂鉄の前は古代は赤土からの鉄採取)が本業であったのではと思っております。

水銀は掘り進むとすぐ掘れなくなるため、新しい採掘場所を探す必要があったようです。それでどんどん和邇氏は移住しております⇒(実際は東北とかは元「奴国」や「伊都国」の人が中心になって辰砂(水銀)と丹砂を探していたのではと予想していますが)。

その技術は江戸時代も?自分の祖母の一族出身の最上徳内さんが何故か鉱脈を見つけるノウハウを持っておりました、、。これは余談です。


和邇の本拠地、葛城も水銀が採れたようですし、もちろん近江も和邇とほぼ同族息長氏の支配地に水銀の山脈があります。
伊勢にも。また三河も赤日子神社のしばらくいった山側の土地でやはり水銀が取れるようです。持統天皇の三河行幸も水銀が関係しているのではと言う人がいるくらいです。。

水銀を取るにも鉄が必要ですし、武器には鉄が必要です。水銀と鉄両方に共通する「赤土」。

赤土を採りにいち早く出かけた安曇族特に「和邇」が
母方?としているウナビ姫の物部尾張一族を案内したのかもしれませんね。
これから管理人様の東三河の秦氏1~86手をつけはじめます。読み終わるまでまたしばらくかかると思いますがよろしくお願いいたします。

Re: 赤土

赤日子神社の記事に到達するのにお手数をかけたようで申し訳ありません。
内容的には一般的な記事に過ぎないので、お手間に見合っていないのではと心配になってしまいます。

「東三河の秦氏」シリーズは私の興味に特化したような内容で、かなり偏っていると思います。しかもやたら長い…。
まあ、こんな見方もあるのかと言った程度でお読みいただけたら幸いです。

見逃した点;彦島と伊都県主五十迩

赤日子神社には尾張と関わるもうひとつの可能性がありました。

伊都県主五十迩のことを少し前に熊鰐(わに)氏であったのではと書きましたが、

伊都県主が三種の神器を掲げ天皇を迎えたのが下関の引島⇒「彦(日子)島でした。
下関の彦島の隣が「名護屋」です。その彦に関わる可能性もありました。

特に伊都尾羽張ータケミカヅチという系譜がありますし、

タケミカヅチの子供が尾張氏祖となる系譜もあるようです。

またタケミカヅチには「崇神記」で

大國主ー櫛御方命ー飯肩巣見命ータケミカヅチーオオタタネコ
⇒これは和迩君の系譜と大変近いです。
またタケミカヅチとは中臣藤原氏が祖先としていました。。和迩は中臣佐久とも名乗りましたし、フツの神は石上神社で和迩の神様でした。。

特に伊都県主五十迩は「伊蘇志」とも呼ばれて、蘇氏だったのではないでしょうか?
昔昔、博多を中心とする蘇国というものがあったようです。ちなみに和迩の小野妹子は中国では「蘇因高」と名乗っていました。

五十迩手は「築前国風土記」で自分のルーツを高麗の意呂山に天下った「日木牟」の末裔と名乗ったようです。天日矛とのつながりも・・武内宿禰の母方のルーツもタケミカヅチと関係するという見方の方もいます。

もしかして尾張氏も伊都国と深く関わっていたら和迩と非常に近いですね。

Re: 見逃した点;彦島と伊都県主五十迩

赤日子神社の鎮座地は三河で、尾張ではないため九州の「名護屋」とはリンクしないように思えます。
尾張の名古屋も地名由来は諸説ありどれが正しいのか何とも言えません。
名古屋の地名は那古野か浪越に由来するだろうと推定はしていますが…。

ご指摘通り遠いですね・・

ちょっと遠すぎますね。ではやはり地名ではなく赤彦ですね。。

赤彦の名前は調べると奥が深いです。

赤坂彦といえば吾田方隅命のことを指しますが
赤彦を調べるとどうも吾田方隅命の家族はお母さんが大倭氏であったので、親戚が針間鴨国造でその縁の土地の名前が明石で
明石彦⇒赤彦でもあるのではと予想しております。(播磨は和邇の小野氏とも縁の土地です)

針間国造は上毛野氏と同祖「市入別命」(伊許自別命)が任命されていて、許勢の「許」も使われていて、安部氏です。

彼は豊城入彦命のひ孫で、
稲背入彦命ー御穂別命(御諸別命)ー市入別と言われていて三輪氏との関係が濃厚のようです
(豊城入彦命は磯城十市県主(春日の苗字が出てくる)と関係があります)。市入別の父「御諸別命」は東国へ派遣されているようです。
市入別の名前はもしかしたら市井氏(一井・櫟)の名前の由来に繋がるのかもしれません。(もちろん市杵姫⇒市入別だと思いますが・・)

和迩とつながる針間鴨の御諸別命の東国への派遣が赤彦の名前が三河にある理由の一つかもしれません。これもあくまで私個人の予想ですが・・


Re: ご指摘通り遠いですね・・

現在でもそうですが、有力者同士の婚姻はよくあることです。
まして、全体の人口が極端に少ない古代にあっては、有力豪族同士の婚姻で最後には何が何だか分からなくなってしまいます。
こうした部分はあまり深入りしない方がいいのかもしれませんね。

氏族の全般的なところから始めるより、ある地域のある氏族の限定的な謎を解明するところから始めた方が面白いようにも思えます。

No title

櫟井氏の場合、限定的な謎は

なんで九州の高宮氏(三輪)と同族ということで戦国時代合流して戦ったのか?別れたといっても数百年?千年も離れていても同族?
三輪と和邇って関係あるの?
ということが私のスタートだったように思います。

しかし三輪との繋がりはしばらくは全く分からず。
和邇周辺の系譜は改変されていて分からなくされていました。それは何故?

あるかたが和邇と鴨の謎をとけば日本の古代史の姿が見えるとおっしゃったそうですが、(ということは一部の方は解いているはずです)
私もいつかはその姿をみてみたいと切に思ってしまいました。管理人様のおっしゃるように積み上げて徐々に行けたらいいのですが。
根がせっかちなんでしょうね。


中臣・藤原氏は和邇の系譜の何を隠したかったのか?


もしかしたら中臣の祖であるタケミカヅチが大國主の子孫であるところだったのかと思っていますが。

または崇神天皇あたりが伽耶から渡来し和邇が航海を助けた本質的な天皇家の由来だったか。

大国主の子孫や蘇我氏に関わる大王家の系譜か

わずかな証拠は持統天皇に没収されていない記録と残された遺跡や神社から読み取るしかありませんが
古代は女性の系譜⇒母方が重要なので
姻族を追うことが基本で探索しております。

和邇氏は縁戚が多すぎですが(笑)







Re: No title

やはり和邇氏に手を付けようとすると収拾がつかなくなるようですね。
尾張でも派生氏族に葉栗臣や知多臣がいます。知多市のみに鰐部姓が多いのはこの関係かもしれませんが、事実関係を拾うことはできそうにありません。
派生氏族があまりにも多いことも話を難しくしています。
和邇氏と息長氏との関係やその頂点にいそうな彦坐王の存在。(彦坐王に関しては尾張氏の関連でかなり詳しく書きました)
なぜ和邇氏と息長氏は天皇の皇妃を多数輩出しているのか。
和邇氏と安曇連や宗像氏との関係。
なぜ和邇氏は東国にまで進出して、浅間神社と関係するのか。
等々、どれ一つとってもその解明には半端ではない労力が必要となりそうです。

何か一つにテーマを絞って遺跡や神社、地名、人名分布などを徹底的に調査してみたらどうでしょう?

No title

そうですね。実は私の母方は佐渡出身で、

祖父の実家は佐渡でも親戚しか名乗らない珍しい苗字で、
姓氏辞典ではその苗字は昔は「漆島」と記載されていたそうです。

「漆島」を調べると、宇佐八幡で道鏡事件のご信託を出した巫女の苗字でした。ちなみに「鴨」族らしいのですが、、

漆島と近いとされる辛島氏を調べていたら西周の姫氏とインドの釈迦族出身の女性のハーフが先祖で、巫女の能力が出現したような伝承があるようで、
漆島氏にもインド人が先祖に入っていたら、祖父方は背が高くやけに色黒でギリシャ人のように目鼻がはっきりしているのが納得できると思った記憶があります(笑)。

八幡宮が佐渡に来た時に神官として来たのかとも思ったのですが、もしかしたらもっと前からいたかもしれません。

調べると佐渡は5世紀から秦氏が居住していたそうです。

「宇佐」といえば宗像が思い浮かびました。
秦氏をつれてきたのは誰だったのか可能性を考えました。

佐渡など小さな開発されていない地方には色々と痕跡が残っているかもしれないので、まずは個人的な興味から和邇と宗像の関係をもっとはっきりさせようと思います。

宇佐八幡の神官と関係する「海賊と呼ばれた男」の主人公の出光氏にも多分「高宮氏」の血が流れているようで、「高宮丸」というタンカーがあるそうです。高宮氏が近くにいる「宇佐八幡」に絞ってしばらく和邇宗像を調べてみようかと思います。

色々とアドバイスありがとうございます。

Re: No title

高宮氏に関してはほとんど何の知識もありませんが、以前多賀大社に行った際、近くには高宮町があり紀伊国櫟氏が高宮を称したとか、後で佐々木氏も高宮を称したとかありますね。また、以前に三輪山麓の大神神社を訪問した際、高宮神社もついでに行きましたが、その近くには高宮神主家の家があったそうです。もうご存知のように、大神神社の神主家・大神姓(三輪氏)が高宮氏と改めた名前だそうです。大神氏の子孫が宇佐神宮大宮司となるなら、どのような経路でそうなったのかよくわかりません。大和葛城にも高宮の地名があり、現在の一言主神社鎮座地辺りのようです。近くには綏靖天皇の皇居である葛城高丘宮の遺跡があり、尾張氏の探索関連でこちらも行ったことがあります。

要するに、高宮氏と言っても色々な流れや個別の由来があるのではと推定され、どこに焦点を絞るのか難しそうですね。私にはとても追いきれないようなので、是非頑張って検討を進めてください。

色々な観点からありがとうございます。

管理人様ももちろんご存知だと思いますが、宇佐八幡の神官は1宇佐氏2大神氏3辛島氏(のちに漆島氏)と言われています。

個人的な興味から漆島氏を調べていましたが、辛島氏は五十猛神の後裔で渡来系の秦氏(新羅系加羅人)と言われ「辛島赤丸」が平安初期漆島宿禰を賜り「漆島」を名乗るようになりました。

漆島は辛島とは別の由来があり、皇別多臣一族大分国造の一族で和迩の血の濃い神武天皇の子神八井耳命の第2子建弥阿久良命の後裔とされているようです。(人によっては景行天皇と「阿部木事」の娘の子の武国擬別命の子孫とされております。)

「秦&海人族」のキーワードで彼らは製鉄、探鉱や水運の仕事をしていたようです。
もしかして佐渡に古代の苗字が残っているということは、秦氏を船で運んだのは漆島の船団だったかもしれませんね。

大分国造家からは薩摩の加紫久利神社社司「阿万(あま)氏」二宮神社祠官は「安曇」姓を名乗っている家が出ています。

宇佐八幡の三姓の一角は和迩や安曇との繋がりがありそうです。

九州の高宮氏は管理人様のご指摘通り、大神神社社家の三輪の高宮氏が中世に九州に行き繁栄したようです。九州の高宮氏のサイトをみて「近江の高宮氏」と一緒に合流して戦ったことを知りました。

九州三輪大神氏と近江櫟井氏は戦国時代までは「高宮氏」同族としての交流があったようです。これは系譜も由来も違うのに不思議です。戦国時代には櫟井氏はもうすっかり佐々木六角氏になっていましたが・・。

宇佐八幡の「鷹」「高」がキーワードになるかもしれません。宇佐八幡に関係する和気氏の移動先を調べると安曇に関係する名称や「赤磐」「赤坂郡」や「播磨」「吉備」など鉄と関係してとても面白いです。これから調査していきたいと思います。

ちなみに防府の宇佐八幡宮は891年「佐々木徳寿丸」が関係して建立されております。豊前の宇佐八幡では852年若宮神社に大鷦鷯命(仁徳天皇)や大葉枝皇子などが合祀されており、宇佐八幡宮は櫟井氏や愛智秦氏が同族となっていた「佐々木」と縁が深いようです。

宇佐の大神氏が任命された理由やなぜ宇佐が天皇家の宗廟なのかのんびりと調べていきたいと思います。色々とご教示ありがとうございます。




Re: 色々な観点からありがとうございます。

注意すべきは、古代の人口だと思います。
200年代の推定人口は50万人から70万人、300年代もほぼ同様で、400年代になってようやく100万人を超え150万人程度とされています。
古代初期の有力豪族と言っても多分数十人単位で、配下に雑多な人々がいるといったイメージで、しかも常に協力し合ったり争ったりして、離合集散があったものと思われます。
それが後代になって自己都合である特定の結びつきが強調され、系図の捏造などが行われたのでしょうね。
だからよくわからないことが多いのですが、あれこれ想像する余地も大きいので楽しい謎解きができる訳です。
既に膨大な知識を持っておられるようなので、是非楽しい謎解きをしていただき、ブログなどで発表いただければと期待しています。

人口も考慮に入れてみます。

管理人様のように「漆島」という各地に残る地名を追ってみましたら
白山市⇒新潟市というふうに日本海沿岸の航路が見えてきました。佐渡の最古の一宮も「渡津神社」でどうも綿津見の「わたつ」のようです。博多の弥彦神との様々なつながりもあり、安曇族の痕跡を色濃く発見しました。


そういえば和気氏の祖は和邇の血が入った日子坐王⇒丹波道主の娘が母親という系譜でした。和邇+息長(気)⇒和気でしようか(勝手に造語です笑)

本佐々木氏は三上祝(息長)と系図が被っているので
和気氏と佐々木氏は「息長氏」の視点から見た同族でした。

宇佐八幡は「息長」から目星をつけていきたいと思います。

日子坐王と向き合わなければいけないとなると、頭が禿げそうですが、なんとか調査して参ります。

いつもお忙しい中返信ありがとうございます。

Re: タイトルなし

漆島姓は全体数が少ないものの、当然のことながら九州に多いですね。
彦坐王は尾張氏関係でかなり書きましたが、視点を変えるとまた別の姿が見えてくるかもしれません。
調査がうまく進むといいですね。

No title

苗字の分布までありがとうございます。漆島氏の分布の近くに母方の苗字も分布するので大変興味深いです。(母方の苗字は主に福岡、美作に、ほかは佐渡と井伊谷⇒彦根に一家系ずつが確認されております)両方とも全国に100-200世帯しかいない苗字なので調べやすいです。なんとか調べて参ります。

東三河の秦氏も30以上読ませていただきました。
そういえば櫟井氏のいた高宮は日本で初めて屠牛の行われた場所でした。近江牛につながりますが。また麻布の産地です。
三河であったような雀が供えられるのは聖書の中の貧しい人の捧げ物ですよね。お金持ちはもっと別の捧げ物がされたことが書かれていたはずでした。

「雀」から越人の習慣というより、やはり秦氏は中東のユダヤ人と関係しているのかなと感じます。高宮の由来の一つである「胡宮」を色々調べましたが素直に文字通り「中国よりはるかに西方」ととっていいのかもしれませんね。

櫟井氏から出た相応という比叡山(和気氏に関係している)に入って無動寺を開設した僧は
今の「長浜市北野町」生まれで屠牛が行われた高宮に櫟井氏がずっと住んでいたわけではないかもしれませんが。
(長浜周辺の伊香郡は伊香氏の本拠地で、坂田酒人や息長の勢力地の近くですが、愛知郡には平安時代には秦氏が住んでおりました)。

ちなみに脱線して伊香氏は宇佐つながりで大変興味深いのですが
伊香津臣の子孫でその祖父天川命は別名「与登魂命」で宇佐八幡の「与登比売命」と名前が近い?ここは抑えなければと。余談ですが。。




Re: No title

苗字(姓)の全国分布は以下のホームページで簡単に検索できます。
秦姓が日本全国のどの市町村に多く分布しているのかなどを探す際に大変重宝しました。

http://archive.fo/UsNU8

No title

検索ツールの情報ありがとうございます。母方の姓は「漆」⇒「浅」になっている姓なのですが、福岡(30世帯)と長崎に一固まり、美作(備前)に一固まり(江戸時代前にその姓の記録がありました)、島根、福井、新潟と日本海沿いの北上ルートに各10世帯ずつ分布しておりました。北海道や関東はおそらく私の一族も関東や北海道に移住しておりますので、明治時代以降の移住先だと思います。

世帯数からいって長崎/福岡、美作、漆島の地名が残る白山市付近と新潟柏崎の向いにある佐渡に一家系ずつではないかと思います。白山の地名はご存知の通り秦澄と関係しております。

もう一家系がいた遠江の「伊井谷」は管理人様のほうが詳しいと思われますが、浅間山に近く、秦の地名が近くにありますし、
「伊井谷」自体がどうも櫟井氏に入婿した本佐々木氏の一井家職の祖父が名乗った「井」氏から出た「伊井氏」が遠江に移住した先の地名のようです。すでにその時代は一井家職の大叔父が三上(祝)を名乗っており分岐時には三上祝とは同族もしくは姻族だと思われます。また静岡で興味深いのは「漆島」の苗字もわずかに分布しております。

「漆島」と「母方の苗字」両方の分布を調べると「辛島と漆島」のように秦氏や和邇に関係する息長と関係する一族の近くにいて、両方の姓の分布を見ることで情報を補いながら読み取れて興味深いものがありました。

参考までに昨日宝賀さんの和邇氏の本を読みましたが佐渡の「渡津」神社は和邇氏に「渡津」氏という姓もあり、和邇に関係した神社のようです。また三河の渥美半島や知多半島はどうも安曇氏というより「和邇氏」の移住先で「安曇」という地名がついたのではという宝賀氏の検討が書かれていました。

Re: No title

遠賀川式土器の東限は尾張とされており、知多半島から名古屋市にかけて点々と出土しています。
遠賀川流域は物部氏の居住地であり、弥生時代に安曇族が物部氏の前身となる部族を乗せて尾張に至ったと考えれば、尾張における物部氏の存在や安曇族の綿神社の存在などが説明可能となります。
少し時代が下って彼らの一部が三河に入り渥美半島の地名を残し、赤日子神社と神社手前の弥生遺跡に繋がってくるのではないでしょうか?


宝賀氏がどのような根拠・視点で渥美半島や知多半島は和邇氏の移住先とされるのか不明ですが、知多半島の場合知多臣は和邇氏の流れとなります。但し、時代的には安曇族や初期の物部氏よりかなり遅いと考えられます。
富士浅間神社は和邇氏が社家となっており、和邇氏十七代目の豊麿が坂上田村麻呂と同行してこの地に入ったとの説があります。従って、和邇氏はその頃に坂上田村麻呂共々三河に立ち寄り一部が定着したのかもしれません。豊川市の赤石神社には坂上田村麻呂の伝説が残されています。

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Re: 文献続き

相当お手数をおかけした参考情報ありがとうございます。

宝賀氏は和邇氏と安曇族が祖神を同じくする同族と把握されていることから、赤日子神社を和邇氏と関係付けたいのでしょうか?いずれにしても、同氏の見解は、全てXXなのか、XXか、と言った明確な根拠のない推定で書かれています。

和邇氏は日牟禮八幡宮で見たように、宗像氏とも関係しますし、海部氏とも建振熊で繋がっており、海部氏と尾張氏は同族ともされているので、人類皆兄弟ではありませんが、元をたどれば同じ海人系の話となってしまい、訳が分からなくなります。もちろん、総人口が百万人にも満たない時代では、元は同じにならざるを得ませんが、それを言い出しても何の意味もありません。また、後代になると小野氏や柿本氏、春日臣など派生氏族は無数にあり、こちらもややこしくなります。

和邇氏と定義する場合、朝廷に皇妃を多数送り込んだ皇妃提供氏族で継体天皇か欽明天皇の時代にはほぼ消滅した一族とするのが適切なようにも思えてきます。それはさて置き、「地名・苗字の起源九九の謎」(鈴木武樹著)によれば、渥美は安曇氏に関係する地名で、綿績豊玉彦を祭神とする宝飫(ほひ)郡赤孫郷の赤日子神社の神官は安曇氏になっているとのことです。どんな資料を根拠にそう書かれたのか不明ですが、赤日子遺跡が弥生時代の200年代であることを踏まえれば、やはり安曇氏関連と考えるべきと思います。

宝賀氏は穂高見命ー五代目子孫の小木考梨命の兄弟と考える大木考梨命を和邇日子押人命と考えその代で安曇と和迩が分岐したと考えている、とのことですが、穂高見命は安曇連の祖となるので、分岐以前は安曇氏であり、その意味においても赤日子神社は安曇氏関連とすべきです。「地名・苗字の起源九九の謎」はネット上で公開されているので、「地名・苗字の起源九九の謎」と赤日子神社で検索し参照ください。

No title

大体こんな流れでしょうか?
200年代前 後に和迩氏になる前の安曇氏が居住(物部となる一族を船に乗せて      来訪か?)
○○     ただ葉栗臣が先祖を祀る愛知県一宮氏の若栗神には孝昭天皇が当地      で尾張の姫興津余会公の娘と婚姻し天押帯日子が誕生したという伝      承あり。額田国造の4-5代前となり天孫族or和迩となる一族が愛知      県に来ていた?そこで尾張氏と婚姻?
4c中~5c  和邇になる前の健振熊の叔父が倭健の東征に伴い額田国造となる。      葉栗臣度津臣も来訪か?
8c~9c   坂上田村真呂の来訪に伴い富士などに和迩氏が来訪

このような何度かの安曇や和邇の来訪の流れ?でよろしいでしょうか。葉栗臣の支配地域の神社をまとめたサイトをみましたがどうも物部氏の神社がないのも、葉栗臣は最初の来訪ではなく後でやってきたことの証拠になりますね。
度津臣や葉栗臣は渡しの一族で、他の土地でも渡しの必要な川の近くに住んでいるみたいです。多分木曽川の渡しのため来訪していたと思われます。

宝賀氏は和邇が奴国「葦原中国」の王族嫡裔で、神話の通り天皇の一族の母方であった一族なので皇妃を沢山出した、また安曇氏の方が和迩氏の支流ではなかったかというふうに見ているようです。大巳貴の後裔というのが大事みたいですが。

宝賀さんの本は系譜の専門家として膨大な知識がありその点で大変参考にさせていただきますが、肝心な歴史の謎はさらっと大事な部分が流されておりやはり考察の参考というふうに考えております。

地名の起源九九の謎のサイトについての情報ありがとうございます。読んでみたいと思います。



Re: No title


あくまで私見ですが、180年から190年頃に倭国大乱を避けるため、安曇氏の船で物部氏の前身部族が瀬戸内海を渡り、大和に入った。彼らの別動隊は紀伊半島を回り伊勢湾に入って、知多半島から北上。尾張の各地に遠賀川式土器を遺した。彼らの一部はさらに三河湾に入り、飽海や渥美の地名が成立し赤日子神社の創建に繋がった。この結果、尾張と三河には物部氏の痕跡が色濃く残り、安曇氏の痕跡も残ったと言った経緯ではないでしょうか。

葉栗郡の幾つかの神社は私も訪問しています。注目すべきは天武天皇時代の葉栗臣人麿です。ご指摘の若栗神社の創建に関係する人物ですね。尾張氏に関して、乎止与命以前の系図は天皇家に加担した捏造である点は尾張氏の謎解きで論証しており、尾張氏と考昭天皇の話も捏造となります。

次に、国造制度は諸説ありますが、6世紀頃に始まっているとされ、額田国造の話は逆の捉え方が必要です。すなわち、宝賀氏が指摘されるように額田国造→美濃の額田郷ではなく、額田郷が岐阜県揖斐郡池田町にあることから、額田国造の話が捏造されたと考えられるのです。宝賀氏は、国造定賜の経緯が不明なので、なぜ和邇氏がこの地に来住したのかは不明であるが、と書かれています。この謎は以下のように考えれば解けるはずです。

池田町の一帯は天武天皇が即位以前に持っていた湯沐邑(皇族に与えられた領地)となっていました。よって、湯沐邑内の各郷は天智天皇の時代に設置されたものと推定されます。(或いは推古天皇の時代以降に設置され、天智天皇の時代に大海人皇子の所領となった)詳細は「尾張氏の謎を解く その93」にて書いていますので参照ください。
http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/blog-date-20150927.html
経緯としては、天智天皇の時代(或いは推古天皇以降)に額田部が池田町に配置されたことが古代に逆照射され、成務天皇期に和邇臣先祖の彦訓服命の孫の「大直呂宇命」が額田国造に定められた、との捏造記事が国造本紀に書かれたことになります。

和邇氏を皇妃提供氏族と規定すれば、常に中央に留まり続けることが最も重要で、不破関を超えた辺境の地に出ていく必然性は皆無のはずです。だから宝賀氏も和邇氏がこの地に来住した意味が分からず、あのような書き方になったと思われますが、天智天皇の時代(或いは推古天皇以降)に配置されたとすれば筋はきちんと通ります。また、池田町には100基以上もの願成寺西墳之越古墳群があり、ほとんどの古墳が6世紀末~7世紀初頭以後のもので、湯沐邑の設置は推古天皇期以降とされる点とも整合しています。

壬申の乱においては、大海人皇子の指示により和珥部君手が村国男依、身毛広と美濃国に先行し、安八磨郡(安八郡)の湯沐令多品治に同郡の兵を挙兵させ、美濃兵3千人が不破道を塞いで最終的な勝利へと導きました。村国男依、身毛広はいずれも美濃の豪族であることから、和珥部君手も多分同様で、和邇氏系と想定される湯沐邑の額田郷と春日郷に関係する可能性があります。

以上、美濃の額田郷関連は6世紀から7世紀の話で、宝賀氏の考える倭健命は全く無関係。葉栗郡に葉栗臣が配置されたのも周辺の古墳築造時期や葉栗臣人麿が天武天皇の時代の人物であることに鑑みれば7世紀頃になると想定されます。
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