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信濃国の秦氏 その16


和田城のある山の左手中腹に神社らしき建物が見えます。

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新海神社です。(位置関係は「その15」に掲載した和田宿マップを参照。⑮が神社です)

和田宿マップによると、新海神社は大井氏宗家の本拠地である佐久の新海三社神社から分社され祀られたものだそうです。これをどう理解すればいいのでしょう?佐久は長和町同様、信濃国における秦氏の存在が現在に至るも確認できる地域です。そこから神社が勧請されているのです。

ここで急に場面を転換して、埼玉県深谷市に飛びます。深谷市新戒(しんかい)300に古櫃神社と言う変わった名前の神社が鎮座しているからです。


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古櫃神社を示すグーグル地図画像。由緒は以下の通り。

古櫃神社(新戒)
全国で唯一の社名をもつ当社は、新戒の鎌倉街道北側に鎮座している。創建は鎌倉期。秦河勝の裔で、新開荒次郎忠氏が肥沃な当地に館を構え、祖神の大荒明神を勧請し、伝来の社器を櫃に入れて社の下に納め、館の守護神としたことによると伝える。新開荒次郎忠氏は鎌倉時代丹党の旗頭で、源頼朝の重臣なり。永禄年中深谷上杉氏に属す。深谷上杉氏は北条氏に協和しており、北条氏が滅ぶと新開氏も深谷上杉氏とともに滅んだが、四国に移った一族は阿南市牛牧城主となり、地域発展に貢献し、城跡には新開神社がある。年間の祭事は、春・秋の祭りなどあり、五穀豊穣と奉賽の祭りが行われ、七月の八坂祭は特に盛大に行われ、市内最大の神輿を渡御して健康を祈る。

新戒(しんかい)の地名と新海、新開荒次郎忠氏が繋がっています。しかもそれらは秦川勝とも繋がっているのです。だとすれば、新開氏は秦川勝の子である秦広国の流れに連なっているのでしょう。さらに新開荒次郎忠氏は頼朝(秦氏の影響を受けている)の重臣でもありました。

由緒にある「祖神の大荒明神(おおさけみょうじん)」は秦川勝を意味します。秦川勝には以下のような伝承があります。

昔大和国洪水の折に、初瀬川大いに漲り、大なる甕一つ流れ来たって三輪の社頭に止まる。土人開き見るに玉の如き一男子あり云々。後に又小舟に乗って播磨に着し、大荒明神となりけり。

この内容で思い浮かぶものがありませんか?そう、桃太郎のお話と瓜二つです。桃太郎伝説の原点になったのは秦川勝だったのです。だから秦氏地名の地である大月にも桃太郎伝説が存在しています。(注:佐久市にも佐久市内山大月と言う地名があります)

話を戻します。佐久を本貫地とする新開氏の一派は武蔵国の新戒(榛沢郷大寄郷)に移住し、古櫃神社を創建しました。なお四国に移住した新開氏の一派は、天正10年(1582年)に同じ秦氏の血を引く長宗我部元親により倒され滅亡します。

では、新開氏の佐久における本領はどこでしょう?彼らの本領は佐久郡伴野庄田口郷(現在の長野県佐久市臼田)とされます。場所を地図で確認します。


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グーグル地図画像。

一方、長和町和田に鎮座する新海神社の元となった新海三社神社は佐久市田口2394に鎮座しています。何と、秦川勝の子孫である新開氏の本領と新海三社神社は同じ場所にあったのです。両者の関係が見て取れますね。

新海三社神社に関しては以下を参照ください。実に丁寧に纏めてあります。
http://www.genbu.net/data/sinano/sinkai_title.htm

上記ホームページには新開氏の開(さく)が、佐久の地名となり、「新開(にいさく)」から、新海という社号になったようだ、とあります。

酔石亭主もこの説に賛成ですが、内容をもう少し大きな視野で見ていきます。古櫃神社の由緒によると、秦川勝は新開氏の祖神であり大荒明神(おおさけみょうじん)でした。すなわち大荒=大避で京都太秦の広隆寺近くに鎮座する大酒神社(元名は大辟神社、坂越では大避神社と表記)に繋がっていきます。

元名が大辟神社になった理由は、秦氏の祖である功満王が漢土の兵乱を避けたことからとされていますが、この説には疑問を感じます。他にはどんな説があるのでしょう?

「大避」に関して、中国では「大闢」という文字が使われ、中国読みすると「ダヴィ」となるので大酒神社はダビデ神社だなどと言うトンデモ説もありますが、無理な解釈だと思います。酔石亭主の理解は以下の通り。

大避は大裂けで大地を切り裂き(開き)開発することを意味しています。大辟神社の名前は、秦氏が葛野を大々的に切り開いた(大開→大裂→大避)ことに由来し、それを大酒と表記するのは祭神の一人である秦酒公の影響でしょう。

秦川勝の子である秦広国の子孫は佐久地方に入植し、一帯を新たに開発しました。その行為が彼らの名前を新開(新たに開く)とさせたのです。

以上から、佐久の地名は新たに大地を切り開いた秦氏系新開氏の開(さく)に由来していると理解されます。結局、大荒、大避、新開、新海、佐久のいずれも意味は同じで葛野秦氏にちなんでいることになります。

よって佐久地方には、現在もなお秦姓の方が多く居られる結果となっているのです。(注:詳しく調べてはいないのですが、一般的には「柵」や木花之佐久夜毘売に由来していると言う説が有力なようです)

佐久でもう一つ気になる名前があります。それは井出氏です。以前、「富士山麓の秦氏 その9」にて豊嶋郡の秦井出氏(秦井手氏)に関して書いたことがあります。井出姓は長野県全体で1928人。その中で佐久市は653人、南佐久郡小海町277人、南佐久郡佐久穂町で195人を数え、新海姓と微妙に重なり、長野県全体の6割近い数字となっています。

井手は井戸や水路を意味し、秦氏の氏寺である広隆寺付近を流れる水路(桂川より分水)は広隆寺井手と呼ばれているそうです。全部が繋がっているように感じられるのですが、如何なものでしょうか?

そして新海三社神社は、佐久郡伴野庄・平賀庄・大井庄の三庄の総社でした。よって大井庄を本貫地とする大井信定の大井氏は、新海神社を長和町の和田城近くに勧請したのです。大井庄は岩村田一帯です。


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岩村田一帯を示すグーグル地図画像。

大井庄(岩村田)は新海三社神社からは結構離れているようにも見えるのですが、よほど神社の勢力が強かったのでしょうか?あるいは、こうも考えられませんか?

大井は既に見てきたように大堰で秦氏と関係がある。佐久には秦姓が多い(長野県全体の一割)。大井氏の家老が秦幸清。大井氏の居城は羽田姓(当時は秦姓)の多い長和町和田。和田城の近くに新海神社が鎮座。

こんな視点から見ると全てが秦氏繋がりのようにも見えてしまうのですが…。(あくまで酔石亭主の想像ですよ)

大堰の地名を長野県内で拾ってみました。

長野市大字東和田字大堰向西沖
佐久市中込字東大堰手前
北佐久郡御代田町大字馬瀬口字大堰添


長野市の和田に大堰とは怪しいですね。佐久市にも大堰があり、大井氏の岩村田とはすぐ近くです。やはり、秦氏→大堰→大井氏と関連しそうな雰囲気があります。

大井氏に関しては以下Wikipediaより引用します。

紀氏のうち長谷雄流に属する一族は実直の頃、国衙の関係者として武蔵国に土着した。伊勢国との関わりが深い。一族には大井氏の他に、品川氏・春日部氏・堤氏・潮田氏が居る。なお春日部氏は源頼政の郎党であったと考えられる。
大井氏(小笠原支族)
小笠原長清の七男朝光が、承久3年(1221年)の承久の乱における「宇治川の合戦」での戦功により、信濃国佐久郡大井庄の地頭となって土着したのが起源とされる。


参考までに長野県における新海姓を見ていきます。全体数256人中、佐久郡佐久穂町72人、佐久市62人、南佐久郡川上村49人、南佐久郡南牧村29人となっています。何と全体の8割以上が佐久を冠する地に居られることになります。ただ、彼らが新開氏の子孫(=秦氏の子孫)かどうか何とも言えません。

                  ―信濃国の秦氏 その17に続く―
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