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記紀・風土記の秦氏 その3


今回は弘仁6年(815年)に編纂された古代氏族名鑑、「新撰姓名録」から秦氏の存在を見ていきます。姓名録には、本貫、種別、細分、氏族名、姓、同祖関係、始祖、記事などの項目があって、本貫は氏族発祥の地、種別は氏族の出自、細分は出身国を意味します。

秦氏の場合、種別は諸蕃(しょばん)となっています。諸蕃とは「三韓」と呼ばれた朝鮮半島の国々を出自とする渡来系氏族を指す言葉ですが、細分では「漢」と種別とは矛盾した形になっています。この矛盾は、彼らが始皇帝の子孫との伝承を持つ一方、朝鮮半島を経由して渡来した事実によるものと思われます。

まず左京を本貫地とする秦氏を見ていきましょう。左京に関しては以下Wikipediaより引用します。

「左京」とは、天皇の在所すなわち御所から見て左側の意。天皇は南面して高御座に座っていたので左は東になる。そのため地図上では右にありながら左京と呼ばれる。


氏族名      姓    同祖関係     始祖   
太秦公宿祢   宿祢            出自秦始皇帝三世孫孝武王也

記事
男功満王。帯仲彦天皇[謚仲哀]八年来朝。男融通王[一云弓月王]誉田天皇[謚応神]十四年。来率廿七県百姓帰化。献金銀玉帛等物。大鷦鷯天皇[謚仁徳]御世。以百廿七県秦氏。分置諸郡。即使養蚕織絹貢之。天皇詔曰。秦王所献糸綿絹帛。朕服用柔軟。温煖如肌膚。仍賜姓波多。次登呂志公。秦公酒。大泊瀬幼武天皇[謚雄略]御世。糸綿絹帛委積如岳。天皇嘉之。賜号曰禹都万佐


功満王が仲哀天皇8年に来朝した。融通王(弓月王)が応神天皇14年に27県の人民を率いて帰化し、金銀玉帛などを献上した。仁徳天皇の御代に127県の秦氏を以て諸郡に分置し、蚕を養い絹織物を貢がせた。天皇は、秦王の献上する糸、綿、絹帛(きぬ)は、自分が用いると柔らかで、暖かいこと肌膚(はだ)のようだ、と言われた。よって波多(はた)の姓を賜った。次に次登呂志公(とろしのきみ)、秦公酒(はたのきみさけ)、雄略天皇の御代に糸、綿、絹帛を山のように積み上げたので、天皇は喜び、号を賜いて禹都万佐(うづまさ)と言う。

氏族名     姓     同祖関係     始祖   
秦長蔵連    連    太秦公宿祢同祖  融通王之後也
秦忌寸     忌寸   太秦公宿祢同祖  融通王五世孫丹照王之後也
秦忌寸     忌寸   太秦公宿祢同祖  融通王四世孫大蔵秦公志勝之後也
秦造       造                始皇帝五世孫融通王之後也

記事には秦氏の渡来、彼らが養蚕や機織りの特殊技能を持つこと、秦姓の由来、太秦(うずまさ)の地名由来となる「禹都万佐」などについて記されています。正しく秦氏の基礎資料と言えるでしょう。また、秦氏が始皇帝を始祖と(自称)する点も記載されています。一方、徐福はどこにも出てきません。

他に色々見慣れない言葉がありますので、確認していきます。まず「姓」ですが、これは大和朝廷が各豪族の貢献度に対して授与したもので、氏姓(しせい)制度に基づいています。

宿禰(すくね)は、天武天皇13年(684年)に制定された八色の姓(やくさのかばね)における姓(かばね)の一つであり、真人(まひと)、朝臣(あそん)についで3番目となります。連(むらじ)は、八色の姓において上から7番目。忌寸(いみき)は 、上から4番目となります。

造(みやつこ)は部民(べみん)を率いて大和朝廷の職務を分担する中級の伴造(とものみやつこ)に与えられた姓で、賜姓の時期は6世紀ごろとされます。八色の姓制定時には秦造(はたのみやつこ)が4番目の忌寸(いみき)を賜姓されています。

左京の秦氏を見ただけで、彼らの位置付けや基本事項がよくわかりますね。次が右京を本貫地とする秦氏です。

氏族名     姓     同祖関係      始祖 
秦忌寸     忌寸   太秦公宿祢同祖  功満王三世孫秦公酒之後也
秦忌寸     忌寸   太秦公宿祢同祖  功満王後也
秦忌寸     忌寸   太秦公宿祢同祖  始皇帝十四世孫尊義王之後也
秦忌寸     忌寸               始皇帝四世孫功満王之後也
秦人            太秦公宿祢同祖  秦公酒之後也

始皇帝があちこちに出てきます。次が山城国です。

氏族名     姓     同祖関係      始祖 
秦忌寸     忌寸   太秦公宿祢同祖  秦始皇帝之後也

記事
功智王。弓月王。誉田天皇[謚応神。]十四年来朝。上表更帰国。率百廿七県伯姓帰化。并献金銀玉帛種々宝物等。天皇嘉之。賜大和朝津間腋上地居之焉。男真徳王。次普洞王。[古記云。浦東君。]大鷦鷯天皇[謚仁徳。]御世。賜姓曰波□。今秦字之訓也。次雲師王。次武良王。普洞王男秦公酒。大泊瀬稚武天皇[謚雄略。]御世。奏□。普洞王時。秦民惣被劫略。今見在者。十不存一。請遣勅使括招集。天皇遣使小子部雷。率大隅阿多隼人等。捜括鳩集。得秦民九十二部一万八千六百七十人。遂賜於酒。爰率秦民。養蚕織絹。盛□詣闕貢進。如岳如山。積蓄朝庭。天皇嘉之。特降籠命。賜号曰禹都万佐。是盈積有利益之義。役諸秦氏搆八丈大蔵於宮側。納其貢物。故名其地曰長谷朝倉宮。是時始置大蔵官員。以酒為長官。秦氏等一祖子孫。或就居住。或依行事。別為数腹。天平廿年在京畿者。咸改賜伊美吉姓也


多くの秦氏祖先の名前が出てきますが、あまり意味がないので無視します。ここで重要なのは、「賜大和朝津間腋上地居之焉」という一文です。弓月君は応神天皇から大和朝津間腋上地(現在の奈良県御所市朝妻)を賜り、ここに居住したことになります。そして雄略天皇期に賀茂氏と共に京都盆地へと北上したのです。


大きな地図で見る
朝妻を示すグーグル地図画像 

近くに伏見という地名もあります。伏見(深草)は秦氏の重要拠点の一つですが、朝妻近くにある伏見の地名を持ち込んだのでしょうか?

秦氏の祖である弓月君が渡来して奈良盆地に直行したら、九州の秦王国はどうなってしまうのか、という問題が発生します。秦氏はまず九州に上陸して豊前国に根を張り、そこから大和へ移住したと考えるのが自然なはずですが、姓氏録の記述では朝妻に直行したような雰囲気があるからです。

大和岩雄氏は「日本にあった朝鮮王国」(白水社)において、秦氏の渡来を五世紀前後に最初の渡来があり、百年間ほど、断続的に渡来したと考えられる、と書いています。しかし、渡来してどこに最初に定着したのかは書かれていません。秦王国のある豊前国が最初の定着地である前提で書かれているようには思えますが…。

取り敢えずは、弓月君の一団は奈良盆地に入ったが、その後も断続的に渡来し豊前国に定着したグループがあったとするしかありませんね。この問題を誰かが研究されて、答えを出していただけたらと思っています。

続いて、記事の「普洞王男秦公酒」以降を見ていきます。普洞王の子である秦酒公(日本書記の表記、はだのさけのきみ)に関連する事項が中心となります。

雄略天皇の御代、普洞王のとき、秦の民が劫略を被り、今はかつての十分の一もいない状態となった。秦酒公は天皇に彼らを召し集めて欲しいと要請した。天皇は小子部雷(チイサコベイカツチ)に、大隅阿多隼人らを率いさせて捜索し、秦の民を集めさせた。その結果、秦の氏九十二部、一万八千六百七十人を得て、酒公に賜わった。酒公は秦の民を率い、養蚕をさせ絹織物を作って盛んに献上し、丘のように山のように、朝廷にうづ高く積み上げた。天皇はこれを喜び、酒公を特別に御寵愛され、禹都万佐(ウツマサ)という号を賜わった。たっぷり積めば利益があるので、酒公は長谷朝倉宮のそばにおいて八丈大蔵を秦氏に建てさせた。このときが大蔵官員の始まりで、酒公は初代長官となった。

現代語訳の能力が低いため正しくない部分もあるでしょうが、その際はご寛容ください。本ブログにおいては、おおよその主旨がわかれば十分だと勝手に思っています。

さて、雄略天皇の時代になると、「日本書記」の年代(在位が457年~479年)と実年代がほぼ一致してくると思われます。従い5世紀の後半には、養蚕や機織りに従事し、また財務官僚として力量を発揮すると言う秦氏の特徴が明確に現れてきたと見られます。

酒公は松尾大社で見られるように酒造を意味すると考えられ、醸造・発酵技術を持った秦氏を示しています。同時に、大酒神社=大避神社=大裂神社と考えれば、裂は土地を開発する意味となり、土木技術を持った殖産一族秦氏の意味も含んでいると思われます。

山城国を続けます。

氏族名     姓     同祖関係     始祖 
秦忌寸     忌寸            始皇帝十五世孫川秦公之後也
秦忌寸     忌寸            秦始皇帝五世孫弓月王之後也
秦冠                     秦始皇帝四世孫法成王之後也

大和国
氏族名     姓     同祖関係      始祖 
秦忌寸     忌寸   太秦公宿祢同祖  秦始皇四世孫功満王之後也 


「新撰姓氏録」は平安時代初期に編纂され記載内容は、左京と右京及び五畿内に住む豪族の姓氏に限られています。内容は各豪族が自己申告したものなので、どこまで信憑性があるか何とも言えません。

また、徐福を祖先とした記述がないのは、左京と右京及び五畿内の秦氏が始皇帝を祖とする伝承だけを持ち、徐福系秦氏は別グループであることを示唆しているように思えます。秦氏と徐福がいつの段階で何を契機として結び付いたのかを示す史料はなく、この問題を解明するのは不可能な状況です。

中国における文献は、日本の僧である寛輔(弘順大師)が顕徳5年(958年)に中国に渡って、徐福は日本に渡来し子孫は秦氏を名乗ったと語り、それを義楚が自分の著書である「義楚六帖」に載せたのが最初とされます。徐福と秦氏が連結したのはここからかもしれません。

「義楚六帖」により中国内で徐福は日本に渡来したとの説が広がり、日本に逆輸入されていきました。時代が下ると徐福伝承は熊野系とも連結していきます。

弘安2年(1279年)には宋の無学祖元が来朝し、徐福の渡来地を熊野として「献香紀州熊野霊祠」と題する詩を献じ、徐福と熊野を結び付ける最初の記述となっています。また、南北朝時代の1368年に明の太祖に謁見した僧絶海は「熊野峯前徐福祠 云々」と詠い、徐福伝承が熊野と関連付けられています。但し徐福伝承と熊野系との実際の結び付きは、熊野信仰が広まった平安末期頃(1190年代)と思われます。

話が熊野系にまで飛んでしまいました。いずれにせよ文献だけから判定すると、「新撰姓氏録」の編纂時点である弘仁6年(815年)で徐福伝承は秦氏と結び付いていなかったとも言えそうです。

だとしたら、弘順大師は誰からどのようにして徐福が日本に渡来し、子孫は秦氏を名乗ったとする情報を得たのでしょう?疑問はさらに深まりますが、情報源は徐福子孫を自称する秦氏しかありません。その場合、958年以前に徐福伝承と秦氏は結び付いていたことになります。全く整理しにくいこと、この上ありませんね。

なお、徐福系秦氏は安曇族などの海人系と結び付き、日本の沿岸部を海路移動したグループだろうとの想定は可能です。

次は摂津国の秦氏に移りますが、長くなっているので次回とします。

                ―記紀・風土記の秦氏 その4に続く―
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