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記紀・風土記の秦氏 その5


前回までで、「記紀」や「新撰姓氏録」における秦氏を垂仁天皇、応神天皇、仁徳天皇から雄略天皇の条にまで下りました。雄略天皇期には他にも秦氏関連の記事があるので見ていきましょう。

雄略天皇12年条冬10月
木工闘鶏御田(つけのみた)が伊勢采女を犯そうとしたと疑い、殺そうと思って物部に引き渡された。その時伺候していた秦酒公が、御田にそのような意図がないことを天皇に悟らせようとして琴を弾いて歌った。天皇は琴の歌の真意を悟ってその罪を許された、とあります。(全文は長いので、省略して書きました)

御田は斐陀(飛騨)の国人で木工を専業としており、秦氏の職掌に近いものがあるので秦酒公は彼を救うべく努力したのでしょう。また酒公は天皇の傍に伺候できるだけの高い立場を持っていたと理解されます。闘鶏(とうけい)は鶏を戦わせることを意味しますが、酔石亭主としては(つげ)で地名の都祁と理解します。そして都祁には秦氏や多氏が居住していました。


大きな地図で見る
都祁を示すグーグル地図画像。

都祁は弓月君から連想される弓月嶽(巻向山)の北東に位置し、都祁波多野には式内の神波多神社が鎮座しています。詳細は以下を参照ください。
http://www.genbu.net/data/yamato/kanhata_title.htm

このように考えると木工闘鶏御田とは、都祁にいた秦氏系或いは秦氏配下の木地師が飛騨に移住したものと想像されます。飛騨の匠の祖は秦氏だったのかもしれません。

雄略天皇15年 やや長いですが、重要と思われるので全文を記載します。

十五年に、秦民を臣(おみ)・連(むらじ)等に分散ち、各(おのもおのも)欲(ねがひ)の随に馳使ひて、秦造(はだのみやつこ)に委ねず

15年に秦の民を臣や連に分散し、それぞれの思うままに使って、秦造には委ねなかった。

是に由(よ)りて、秦造酒、甚だ以ちて憂として、天皇に仕へまつる。天皇、愛しび寵みたまひ、詔して秦民を聚(つど)へて、秦酒公に賜ふ。

秦酒公はこれを気に病みながら天皇に仕えていた。天皇は酒公を寵愛して、秦の民を集めて酒公に与えられた。

公、仍(よ)りて百八十種の勝(すぐり)を領率ゐて、庸・調の絹・縑(かとり)を奉献り、朝庭(みかど)に充積(みてつ)む。因りて、姓を賜ひて禹豆麻佐(うづまさ)と曰ふ。

酒公は百八十種の勝を統括することになり、庸・調の絹・上質な絹織物を献上し、朝廷に山ほど積み上げた。そこで姓を与え、禹豆麻佐(うづまさ)と言う。

十六年の秋七月に、詔して、桑に宜き国県に桑を殖ゑしめたまふ。又秦民を散ち遷して、庸・調を献らしめたまふ。

十六年の秋七月に、詔して、桑に適した国や県に桑を植えさせた。また秦の民を分離して移住させ、庸・調を献上させた。

以上を見る限り、秦氏は何度となく集められたり、分散させられたりしていることになります。秦氏の痕跡が各地に見られるのはこの影響でしょうか?

太秦の由来もここに語られています。(うづ)とは大きいことを意味すると思われ、大族である秦氏の由来譚になっています。

桑を植えさせるのは、養蚕、機織りを得意技とする秦氏の職掌を示しています。

               ―記紀・風土記の秦氏 その6に続く―
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