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北鎌倉の安倍晴明再考 その5

呪術都市鎌倉探訪記
02 /17 2012

今回はもう一カ所の晴明石と晴明井戸を推理します。ほとんど想像だけで書くことになりそうですが…。

「呪術都市鎌倉探訪記 その10」で既に晴明井戸の所在地を推定しています。もう一つの晴明井戸と晴明石がここにあったと仮定して話を進めましょう。


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「呪術都市鎌倉探訪記 その10」に書いた晴明井戸の所在地。

場所はグーグル画像の鹿島産業裏の空き地(駐車場)です。

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所在地の写真。

稲荷社と自噴井戸があり、晴明屋敷から川を挟んでお隣となるので、ここが知事家兼道の屋敷と推定しました。「吾妻鏡」の記述によれば、兼道の屋敷には「鎮宅の符」が押されていました。押したのはもちろん晴明。これにより屋敷は200年間も火災に遭わなかったのです。

さらに北辰(北極星)と北斗(北斗七星)を神格化したのが鎮宅霊符神です。鎮宅の符と小袋谷川によって象られた北斗七星の形がペアになってこそ、その効力は存分に発揮されるのではないでしょうか?しかも、「吾妻鏡」の記述こそが北鎌倉における晴明伝説の元になっているのです。

だとすれば、晴明屋敷のお隣にあり、稲荷社があり、自噴井戸があり、北斗七星形の脇に位置するこの場所が知事家兼道の屋敷と推定して何らおかしくはなく、この場所にもう一つの晴明石と晴明井戸があったと推定する根拠になります。

ここで、「新編相模国風土記稿」の記述を再度参照しましょう。

晴明石
往還中二二所アリ。各大ニ三尺許。石ノ傍ラニ各井戸アリ、安倍晴明ガ加持水ニシテ火難ヲ防グ奇特アリ。ト云伝フ。大船村多聞院持。


上記の記述を読んで疑問を感じませんか?晴明石は「大船村多聞院持」と書かれています。すなわち大船にある多聞院の管理・所有下にあると記されているのです。多聞院は以前に訪問記事を書いています。「鎌倉の谷戸を巡る その7」(2010年5月6日)を参照ください。


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多聞院を示すグーグル地図画像。

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多聞院です。

なぜ遠く離れた(直線距離ではそれほど遠くでもありませんが)この寺が晴明石の管理者なのでしょう?実は多聞院の前身は瓜ヶ谷にあった観蓮寺とされています。ここで円覚寺古地図を見てください。

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円覚寺古地図。

下側で直角となった小袋谷川の下部に瓜谷と記載あります。晴明石が多聞院の管理下にあるなら、その傍らにある晴明井戸も当然多聞院の管理下となります。

多聞院の前身である観蓮寺は瓜ヶ谷にあった。晴明石は多聞院の管理下にある。その前提で考えると、晴明井戸と晴明石は多聞院の境内すなわち瓜ヶ谷側にあるべきです。よって、もう一つの晴明石と晴明井戸が鹿島産業の空き地にあったと考えて矛盾はありません。

一方、往還を隔てた向こう側は円覚寺の領域と思われます。ベルタイム珈琲のご主人のお話や、十王堂に安置されていた十王像が円覚寺の桂昌庵に移されていることからもそれは推測されます。また山ノ内は往還を挟んで上町、下町と分かれています。

つまり、ベルタイム珈琲脇の路地に晴明井戸があったら、それは円覚寺の管轄であり観蓮寺持ちと言えなくなるのです。往還中にあった晴明石はどうなのでしょう?絵図を見ると明らかに往還の中心線より瓜ヶ谷側にあります。何とかセーフと言うところでしょうか?往還中に置かれる前には、小袋谷川の柄杓状地内すなわち晴明屋敷内にあったとすれば、多聞院持ちとの記述と完全に整合します。

以上から、ベルタイム珈琲脇の路地にあるとされる晴明井戸は後世のものであるとほぼ断定できそうな気配です。となると、晴明石の近くにある黒塀の家の井戸も後世のものの可能性が強くなります。

不可解なのは、天保12年(1841年)に完成した「新編相模国風土記稿」には晴明石が往還の二カ所にあると記述されているのに、それ以前の文化3年(1806年)に成立した「浦賀道見取絵図」には一カ所しかなく、また一個の石しか見えていない点です。この両者を矛盾なく整合させる視点はどこにあるのでしょう?

ではもう一つの晴明石の歴史を推測してみます。

円覚寺古地図が作られた1685年以前の段階で、一つの晴明石と晴明井戸は小袋谷川の柄杓状地内すなわち晴明屋敷内にあった。もう一つの晴明石と晴明井戸は川を挟んで隣接する知事家兼道屋敷内にあった。場所は鹿島産業裏の空き地である。

円覚寺古地図の推定作成年である1685年から「浦賀道見取絵図」が製作された1806年の間に、晴明屋敷跡地にあった晴明石は往還中に移された。もう一つの晴明石はJRの踏切脇(お蕎麦屋さんの鎌倉五山の脇)に移された。(注:「新編相模国風土記」の晴明石が二カ所にあるとの記述は、1685年以前の話を書いたか、JR踏切脇に移されたものを書いたと推定される)

もう一つの晴明石はJRの踏切脇に移されたのは、ここが若宮幕府における北境であり、安倍晴明あるいは安倍一門の陰陽師が鬼気祭などの儀式を執行した場所だったから。だとすれば、その場所には北境を示す標石があったはず。

と言うことで、もう一度この場所を見てみましょう。

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安倍晴明の石碑を裏から撮影。

平石が晴明石で、脇にある丸石が若宮幕府の北境を示す標石と思われます。平石は八雲神社の境内にある晴明石と石質は同じに見えます。寸法はやや小さそうにも見えますが、大差はなさそうです。これこそが行方不明になっていたもう一つの晴明石だったのです。妙に思えるのは、丸石が脇に置かれていることです。

この丸石と写真上端の鳥居の基礎(凹形の二個の石)を比較してください。古さ、石質ともにほぼ同じように見えます。一方平石は新しく見えます。当初は鳥居の後ろに丸石が置かれ、そこに晴明石を持って来たため丸石の位置が横にずらされたように見えませんか?

ついでに別の「浦賀道見取絵図復刻版」も参照ください。

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復刻版絵図。JR踏切脇に相当する一帯です。

字法明石橋の横に立石があります。しかも、往還の中にあります。もしかしたら、これが晴明石なのかもしれません。「新編相模国風土記稿」の往還中との記述にも整合します。以上がもう一つの晴明石に関する推定来歴となります。

なお、ここにある安部清明大神の石碑は2009年末以降に晴明石の上からおろされ、石の手前に設置されたようです。多分セメントが劣化してぐらぐらしてきたため、晴明石からおろしたのでしょう。

石碑の裏には明治39年7月と彫られているので、その時点で石碑が平石(晴明石)の上に設置されたと推測されます。そして2009年末以降のある時点で平石の手前に移されたのです。従って、「呪術都市鎌倉探訪記 その11」(2011年3月5日)に書いた内容(明治時代になって現在の場所に石碑が建てられた)は間違いでした。

さて、様々な史料や推測を交え晴明石と井戸に関して書いてきましたが、どれも一長一短で終わらざるを得ません。

「浦賀道見取絵図」のみを基礎資料とすれば、八雲神社参道(古地図では今泉道)先の往還中(現在は21号線)に晴明石橋と晴明石があるのは、位置がやや異なっているものの基本的に正しいと思われます。またベルタイム珈琲のご主人が示された晴明石の位置は、実物を見ておられるのですから100%正しいと思われます。

但しその正しさは「浦賀道見取絵図」が完成した1806年以降のものと言えます。1806年以前に関しては、井戸と石がそれぞれ二カ所にあると言う「新編相模国風土記稿」の記述、多聞院の前身である観蓮寺は瓜ヶ谷にあった点、円覚寺古地図には晴明石橋と晴明石がない点などを考慮すると、俄然雲行きが怪しくなってくるのです。特に円覚寺古地図には、一軒一軒の詳細まで記されている以上、石橋があったら必ず記載するはずだからです。

また、晴明石が一個行方不明と言うのは、戦後の道路拡張の際行方がわからなくなったとは考えられません。「新編相模国風土記稿」にそれぞれ二カ所と記載されているのに、今泉道近くの往還中には一個しかなかったので、もう一個は行方不明にしたものと思います。(実際にはJR踏切脇に存在)

晴明井戸と晴明石が小袋側の柄杓状地内になかった場合(つまり晴明屋敷など存在しなかった場合)、円覚寺古地図に晴明石橋がない点から判断して晴明井戸と晴明石はともに後世(円覚寺古地図が完成したと思われる1685年以降)の捏造が考えられます。

鎌倉には満福寺の弁慶石や、御霊神社にある鎌倉権五郎景政の袂石・手玉石があります。これらは実際のものとは異なり、何らかの伝承に基づき後世になって設置されたものと考えられます。晴明井戸や晴明石、晴明石橋もそれらの同類と考えることは可能なのです。(もちろん弁慶や、景政の伝承がある地に、過去への思いを馳せるため設置されたとしたら、完全な捏造とも言い難い部分はあります)

ここでもう一度「浦賀道見取絵図」の復刻地図を参照ください。

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復刻地図。

どう考えても不自然なのは、晴明石が晴明石橋の上にあることです。石があれば溝の水流は石を避けて通るはずです。ところが絵図のような形だと、山からの水流が往還に溝を作った。往還に溝があっては不便なので石橋が造られた。次に石橋の上に石が置かれた、という順番になります。絵図は晴明石、晴明石橋のいずれもが後世になって設置されたものであることを物語っているとも考えられるのです。

晴明石や晴明石橋、晴明井戸に関してあれこれ考察を加えましたが、結論を出すには至らず、両論併記的に終わるしかありませんでした。ただ、北鎌倉の安倍晴明は単なる伝説であったとしても、三代将軍実朝から四代将軍九条頼経の時代に活躍した安倍泰貞など、安倍氏系陰陽師は鎌倉において間違いなく重要な地位を占めていました。晴明伝説が生まれる素地は十分にあったのです。

以上、結論はともかく北鎌倉の晴明井戸や晴明石を考える上で必要な要素は、本論考でほぼ全て網羅したと思います。(もちろん100%ではありませんが…)本記事を参考にして、さらに議論を深めて頂ければ幸いです。

本シリーズはカテゴリ「呪術都市鎌倉探訪記」に含めます。

最後に一言…。北鎌倉における安倍晴明のキーワードは北斗七星に代表される「北」と晴明井戸に代表される「水」でした。一方、鎌倉幕府の支配者は源頼朝以下3代の源氏と得宗家北条氏となります。源は(みなもと)で水源を意味し、北条の名前には「北」が含まれます。安倍晴明と鎌倉幕府のキーワードに見られる奇妙な一致。これは偶然の符合なのでしょうか?そんなはずはありません。武家の都鎌倉の実態は、陰陽師が裏で支配する呪術都市だったのです……。

北鎌倉の安倍晴明再考 その4

呪術都市鎌倉探訪記
02 /16 2012

晴明石と晴明石橋の所在地は前回で確定したものの、幾つかの疑問がわき上がりました。

例えば、「浦賀道見取絵図」より120年以上前(少なくとも1685年より以前)に描かれた円覚寺古地図には石と石橋が見られません。絵図と違って古地図は地元の様子を詳細に描いています。その中に晴明石と晴明石橋が書き込まれていないのです。

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円覚寺古地図を再度掲載。

現代においても小橋に過ぎないフェイシャルサロン北鎌倉先の橋が円覚寺古地図に書き込まれているのに、晴明石と晴明石橋が存在しないのは極めて不自然です。(絵図は観光地図に近いものですが、円覚寺古地図は正にこの一帯を詳細に描いたもので、正確性はあると判断されます)

加えて、晴明石は鎌倉砂岩ではありません。どこかから運ばれてきたものです。一帯に晴明の居館があったとすれば、庭に据えられた石組の一部であった可能性もあります。

と言うより、この地に晴明の居館があったと伝えられてきたことが、晴明石と井戸の伝説の元になったとも言えるのです。晴明石と晴明石橋は円覚寺古地図が描かれた1685年(推定年代)以降に設置されたもので、それを晴明石と晴明石橋とするのは後世の捏造であったとも考えられます。

「浦賀道見取絵図」は逆に、晴明石と晴明石橋を過剰なほどはっきり描き込んでいます。(なぜか八雲神社は描かれていない)これは絵図作成に当たり地元の意向が強く働いたようにも感じられます。安倍晴明とくれば、観光資源とするにはうってつけですから…。もしかしたら、橋の袂に晴明茶屋があって晴明饅頭でも売っていたのかもしれません。では、かつて往還中にあった晴明石の歴史を推測してみましょう。

1685年段階で晴明石は小袋谷川の柄杓状地内(晴明の居館跡)にあったが、1806年段階では石橋が造られ、石も往還中に移されていた。1806年以降石橋の下を流れていた川は例えば立ち並ぶ家の前に側溝が掘られ、そこに付け替えられ、往還の隅を道と並行して流れるようになった。

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側溝の写真。

側溝が斜めの部分はグレーチング蓋となっていますが、この部分は溝の位置を動かしているようにも思えます。

これにより石橋は不要となり撤去され、石も通行の邪魔にならないようある程度深い位置に据え直された。この時点で、ベルタイム珈琲のご主人が幼い頃見ている晴明石の状態になった。晴明石は戦後の道路拡張で近くに移されたがそこも具合が悪いので、最終的に八雲神社の境内で祀られることとなった。石の傍らにあった晴明井戸は候補が多くどれが相当するのかわからない。と言ったところでしょうか。

上記は晴明屋敷があり、晴明石と晴明井戸が屋敷のあった当時から存在していたとの仮定に基づいて書いています。晴明屋敷が存在しないなら、晴明石と晴明石橋は後世の捏造となるのです。

晴明屋敷はかつて実在したのかしないのか?どちらも一定の根拠があって、確定し難いものがありますね。

では、もう一カ所の晴明石と晴明井戸はどこにあったのでしょう?

                ―北鎌倉の安倍晴明再考 その5に続く―

北鎌倉の安倍晴明再考 その3

呪術都市鎌倉探訪記
02 /15 2012

今回は晴明石橋と晴明石の実地調査です。「その1」と「その2」で既に何枚も写真を掲載していますが、ストーリーの都合上北鎌倉駅で電車を降りたところから書き出すことにします。


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グーグル地図画像です。

電車を降り県道21号横浜鎌倉線を大船方面に向かって歩きます。すると、すぐに十王橋が現れます。

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十王橋です。大船側から撮影。

十王橋の先に斎藤牛豚店があります。この敷地が十王堂とほぼ重なっていると思われます。

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斎藤牛豚店。

斎藤牛豚店前を過ぎ少し歩くと、あっという間に小袋谷川が柄杓形となっている部分の1/4(絵図で石橋と石が描かれた地点)は通り過ぎてしまいました。柄杓形の半分近くまで来たところに喫茶店があります。北鎌倉ベルタイム珈琲と言うお店です。二階に「すずきや」と書かれているので、昔は鈴木さんが別の家業を営んでいたのでしょう。

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ベルタイム珈琲。

お店の脇に路地があり、側溝もあります。この溝に晴明石橋が架かっていたのでしょうか?石橋を架けるだけの水量があるか疑問に思えますが、絵図と比較すれば既にその場所を過ぎているので、ここが目的地の可能性もあります。確認のため、お店に入って話を聞くことにしました。

コーヒーを運んで頂いた女性に話しかけたところ、近くに居られたご主人から詳しい内容をお聞きすることができました。

まず、お店の前にかつて晴明石があったと思うがどうなのか質問しました。すると……。

店の脇の路地の先にかつて井戸があり、水が自噴して流れていた。それが晴明井戸とされているとのこと。今は路地の下になっているが、ご主人が子供の頃にはまだ井戸があったそうです。あっと言う間に晴明井戸に行き着いてしまいましたが…。

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路地です。側溝があるので、多少なりとも水が流れているはずです。

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路地の先にある空気穴。このあたりに井戸があったようです。

また、近所にお年寄りの郷土史家の方がいて、その方の意見では晴明石の周囲四カ所に晴明井戸があり、その一つがベルタイム珈琲脇の路地にあった井戸とのこと。四つの井戸で晴明石の結界を構成しているような雰囲気です。あるいはもっと別の意味があるのでしょうか?しかし、「新編相模国風土記稿」の記述すなわち晴明石が二カ所にあり、それぞれの傍らに晴明井戸があるとの内容からは離れています。

では、肝心の晴明石はどこにあったのでしょう?最も知りたい点をお聞きすると、答えは大船方面に向けてここからさらに数軒先とのこと。

絵図とは違ってきますが、何しろ往還中にあった晴明石を実際に見ている方のお話ですから間違えようがありません。ご主人とともにお店を出てその場所に案内していただきました。

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晴明石のかつての所在地。円覚寺古地図にある今泉道に相当する場所と思われます。

写真ではマンホールのあたりに晴明石があったのです。戦後の道路拡張前、往還は家のある側から中央分離線部分までしかなかったとのこと。戦後黄色い中央分離線下半分が拡張され、そうなると石は道路のほぼ中央にくるので、動かすしかなかったと話されていました。

往還中に石があった当時は道の上に出ている部分はあまり高くなく、平石のような感じだったそうです。(掘り出したところは見ていないので石全体の高さはわからないとのこと)

次に、絵図には石橋があり、石橋の上に晴明石が載っているような形に見える点をお話ししました。ご主人は石橋の存在についてご存知なかったのですが、しばらくしてそう言えば子供の頃石橋があって座ったことがあるのを思い出されました。但し、往還中ではなく道路際の側溝部分のようです。

その石橋が絵図の石橋とは別物であるにせよ、側溝には少なくとも石橋が必要なほどの水量があったのは間違いなさそうです。側溝が斜めの部分はグレーチング蓋となっています。水量を確かめるため蓋の上からのぞいて見ると、結構な量の水が流れていました。

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溝の水流。

ここで下の写真をご覧ください。

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写真。

山の上に社が見えますね。実はこれが八雲神社です。つまり写真の道は八雲神社へと続く参道でもあったのです。(現在はJR横須賀線と北鎌倉駅により道が分断されている)

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今泉道から見た八雲神社。突当りが北鎌倉駅のプラットホーム。

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八雲神社を拡大した写真。

グーグル画像で見ると、天王屋敷、晴明石橋、晴明石、八雲神社が一直線に並びます。だとすれば、晴明井戸もこの直線上に並ぶのではないでしょうか?

そうご主人にお話ししたところ、写真左手の黒塀のお宅も路地脇に井戸がある(実際に見ました)、しかし北鎌倉は地下水が豊富でほとんどのお宅に井戸があるので、どれが晴明井戸かは実際のところわからないとのことでした。

四カ所の晴明井戸に関しては、地元の方たちによって掘られた井戸が、いつの間にか晴明井戸へと転化していったのではないかとも推定されます。(あくまで勝手な想像ですが…)仮に黒塀のお宅の井戸が晴明井戸とすると、そこを柄杓の先端にすれば京都の晴明神社と同じ形になってしまいます。

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電子国土画像。

井戸と脇の流れ、小袋谷川で柄杓状にしてみました。ほぼ完全な北斗七星になります。京都の晴明神社と同じ構成となる以上、黒塀のお宅の井戸が晴明井戸である可能性は高くなります。なお京都の晴明井戸は上部に五芒星が象られています。五芒星に関しては以下Wikipediaより引用します。

五芒星は、陰陽道では魔除けの呪符として伝えられている。印にこめられたその意味は、陰陽道の基本概念となった陰陽五行説、木・火・土・金・水の5つの元素の働きの相克を表したものであり、五芒星はあらゆる魔除けの呪符として重宝された。
日本の平安時代の陰陽師、安倍晴明は五行の象徴として、五芒星の紋を用いた。「安倍清明判(あべのせいめいばん)」や「清明九字(せいめいくじ)」とも言い、キキョウの花を図案化した桔梗紋の変形として、「晴明桔梗(せいめいききょう)」とも言う。

北鎌倉における晴明石と四つの晴明井戸は、結界ではなく五芒星を構成していたのかもしれません。(これは勝手な想像ですが…)

いずれにしても、晴明石がかつて置かれていた場所の特定はできました。また晴明石橋も絵図通り存在していた可能性は高いと思われます。

さらに晴明屋敷近くに位置する晴明石橋の存在は、京都における一条戻橋(晴明の屋敷跡近くにある)と対比することができます。一条戻橋は大内裏の鬼門に当たり、魔界への入口、あの世とこの世の境にある橋として都人に恐れられてきました。 晴明はこの橋の下に式神を隠していたとされます。

驚くべきことに、晴明石橋の所在地もまた鎌倉の鬼門ライン(稲村ケ崎の金山に鎮座する白山神社と本郷台の鍛冶ヶ谷付近にかつてあった白山神社を結ぶライン)上にあります。しかも、一条戻橋が洛中と洛外を分ける境界であったように、晴明石橋の所在地は鎌倉の内と外を分ける境界だったのです。これほどの符合が、遠く離れた京都と北鎌倉で偶然に成立したとはとても思えません…。明らかに意図されたものと言えるでしょう。

鎌倉の鬼門ラインに関してはカテゴリ「頼朝以前の鎌倉」、記事「鎌倉の地名由来を考える」(2010年6月22日)を参照ください。これには秦氏や由井の民など特殊技能民が関与しているのですが、安倍晴明も一枚噛んでいたのです。本当に怪しいですね…。

なおベルタイム珈琲のご主人から頂いた他の情報は以下の通りです。

どこまでかは不明だが、ベルタイムからさらに大船寄りまで円覚寺の領域だったらしいとのこと。本件は「その2」の円覚寺古地図を参照ください。古地図で往還から上の部分は少なくとも円覚寺の寺域であったと考えられます。

次に、酔石亭主との考え方と全く同じで驚いたのですが、小袋谷川が直角に曲がっているのは絶対に自然ではあり得ない。またZ字に曲がっている部分もおかしいとされていました。明治天皇が鎌倉を行幸された際何らかの理由で変えたのかも、との推測もお聞きしました。

これに関しては、古地図からすると1685年の段階で既にこの形になっている。だとすれば、川の形は安倍晴明が北斗七星を象って曲げたのではないかと自説をご説明したところ、興味深そうにお聞きいただけました。

晴明石のあったあたりは交通事故が多く発生したとのこと。もちろん、石のせいだとはおっしゃりませんでしたが…。ちょっと怖くもあります…。

またご主人より、郷土史家の方は晴明の屋敷がこのあたりにあったと考えている旨お話をいただきました。その通りであれば、不自然な川の曲がり方は安倍晴明に起因すると考えて矛盾はなさそうです。

なお小袋谷川が不自然な直角を示す位置にある斎藤牛豚店は、JR横須賀線で断ち切られた背後の山が下っている場所にあります。だとすれば、山の岩盤に突き当たったので川が直角に曲がった可能性も考えられますが、次の直角やその先でZ字形に曲がる理由は説明できません。

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斎藤牛豚店の裏手。ぐっと高くなっている地形に、かつて山裾が続いていた片鱗を見ることができます。

以上、晴明石と晴明石橋の所在地は確定しましたが、ベルタイム珈琲横の路地にあった井戸も晴明井戸かは不明ですし、それ以外にも何点か疑問はあります。もっとあれこれ考えてみる必要があるのです。

                 ―北鎌倉の安倍晴明再考 その4に続く―

北鎌倉の安倍晴明再考 その2

呪術都市鎌倉探訪記
02 /14 2012

今回は晴明石の所在地特定にトライします。もちろん現在の所在地(八雲神社境内)ではなく、かつて石があった場所です。どこかに参考資料がないか探したところ、「浦賀道見取絵図」が出てきました。藤沢市の図書館(総合市民図書館)に行くと閲覧できます。

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浦賀道見取絵図です。

写真の腕も悪いのですが、絵図自体の文字も滲んではっきりしません。

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拡大します。

やはりはっきりしません。ただ、小袋谷川の形は現在とほぼ同じで、道の真ん中近くに晴明石が描かれています。もっとはっきりした図がないかと思ったところ、絵図とは別に復刻版がありました。見やすいのですが、肝心の部分が二枚に分かれています。

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復刻した絵図。十王堂のある側。

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もう一枚。晴明石のある側。

これならわかりやすいですね。しかし復刻絵図には驚かされました。何と、十王堂橋の隣に字晴明石橋とあり、その橋の上に晴明石があるのです。この絵図は文化3年(1806年)に完成したとされ、今から約200年前のものです。

絵図を見て納得の部分と納得できない部分がいくつか出てきました。絵図とグーグル地図画像を見比べてください。


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グーグル地図画像。

往還(現在の21号線)と小袋谷川が交わりその先で川が直角に折れて円覚寺方面に向かっているところなど、200年前とほとんど変わっていません。まず十王堂ですが、グーグル地図画像で斎藤牛豚店のあたりにあったと理解されます。

次に晴明石橋の位置ですが、原画では小袋谷川が柄杓状になった部分の1/4ほどの距離を大船方面に進めば石橋になると理解されます。絵図は一般的に観光地図的なものであり、距離の正確性はあまりないと考えるべきです。それでも、かなり捜索範囲を狭めることができるでしょう。

ただ、晴明石橋の存在はそれ自体が問題点となります。川などないはずなのに、どうしてここに石橋があるのか理解できません。石橋の上を跨いで晴明石があるのも奇妙です。石橋は晴明石のサイズ(三尺=約90cm)からして、幅30cm~60cm程度と思われます。つまりこの橋は、側溝の上にコンクリ蓋を置いたようなものだったはずです。

川などないのに橋がある疑問が解けないので、もっと参考資料がないか図書館で調べてみました。すると、円覚寺の古地図が出てきました。

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円覚寺古地図です。見にくいものの、情報の宝庫です。

古地図の製作年代は不明ですが、ヒントがあります。往還の上で川が直角に曲がったところの横に十王堂が区画も含めはっきり出ている点です。貞亨2年(1685年)刊行の「鎌倉志」には「ここまで十王堂有が、今亡なり」と書かれています。この記述からすれば、古地図は1685年以前製作のものとなります。(注:「浦賀道見取絵図」にも十王堂は出ています。過去と作成時点とが混在しているようです。或いは再建された…)

また十王堂の左にずらっと名前が書かれ、その先に今泉道とあります。往還の下側には、はっきり読めないのですが、XX村道がありその先に橋があって道は川を渡っています。この構成は位置関係も含めて現在のグーグル地図画像と全く同じなので見比べてください。今泉道は多分グーグル地図画像に㈱環境創建とある左脇の道に相当します。

古地図では、今泉道から往還を少し北鎌倉駅方向斜めに渡ると、現在のフェイシャルサロン北鎌倉へと続く道に入っていくようです。

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フェイシャルサロン北鎌倉へと続く道側から今泉道を撮影。

往還を斜めに渡るのが写真でも理解されます。そして道は小袋谷川を渡るのですが、古地図にも橋が出ています。この部分もグーグル地図画像と同じです。

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フェイシャルサロン北鎌倉と橋。バイクの先に見える小さなフェンスが橋になります。

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川を渡った側から撮影。

300年以上前の古地図と現在を比較照合できるのですから凄いですね。

さらに古地図の左下に天王屋敷があります。グーグル地図画像では現在のさつき荘のあたりになります。

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さつき荘一帯。何の痕跡もありませんが…。

また古地図画像右から川が直角に曲がり、もう一度直角に曲がったあたりの下側に瓜谷とあります。これは瓜ヶ谷のことです。不可解なのは、瓜ヶ谷を流れる川が小袋谷川に合流してT字を形成するのですが、絵図にも古地図にも瓜ヶ谷の川が見られないことです。

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小袋谷川のT字部分。

画像の上部が往還から下る流れです。T字部分の瓜ヶ谷側に立石があります。何かの目印だったような気もするのですが…。

瓜ヶ谷を流れる川は後世になって付け替えられたのかもしれません。「呪術都市鎌倉探訪記 その9」(2011年3月3日)では、T字の川の形は人工的に作られたのかもしれないと書いています。小袋谷川の二つの直角も人為的な匂いがします。

さらに古地図ではやや見にくいのですが、十王堂橋の右下に下町とあり、画像右端近くの薬師堂道に続く橋の下に上町とありエリア分けされていたとわかります。

但し、この古地図には晴明石橋も晴明石も出ていません。晴明石橋が出ていないだけでなく、橋の下を流れているはずの川も描かれていません。晴明の重要な遺物である石と橋は、「円覚寺古地図」が描かれた1685年(推定年代)から「浦賀道見取絵図」が作成される1806年の間に設置されたものと言う可能性も出てきました。

もちろん実際がどうであったのかは上記史料だけでは不明です。この問題は一旦横に置き、現地で「浦賀道見取絵図」にある晴明石橋と晴明石の場所を特定しましょう。

               ―北鎌倉の安倍晴明再考 その3に続く―

北鎌倉の安倍晴明再考 その1

呪術都市鎌倉探訪記
02 /13 2012

北鎌倉の山ノ内には晴明石がありその傍らには晴明井戸があったとされます。大変面白い話と思ったので「呪術都市鎌倉探訪記 その10」(2012年1月9日)、「その11」(2011年3月5日)において、晴明石や晴明井戸の所在地を推理しました。(「その10」の作成日が離れているのは記事が一度消えたため)

しかし読み直すと、あまりに簡単に書いてしまった感があり、疑問な部分も出てきます。これはまずい、再度の検討が必要だと思えてきたのです。今回は地元の方からもお話を聞き、かつ史料等を参考にして、もっと詳しい記事に仕立て上げるよう努めました。

そこで、記事タイトルも新たに「北鎌倉の安倍晴明再考」とした次第。以前の記事と重複する部分もありますがご寛容ください。なお本記事を書くに当たっては、北鎌倉ベルタイム珈琲のご主人から長時間にわたり詳しいお話を伺うことができました。改めてお礼申し上げます。

前置きはこの程度にして早速検討を始めましょう。そもそも、北鎌倉に安倍晴明の痕跡があるとされるのは、「吾妻鏡」の以下の記述が元になっています。

治承4年(1180年)10月9日 戊子
大庭の平太景義の奉行として、御亭の作事を始めらる。但し合期の沙汰を致し難きに依って、暫く知家事(兼道)が山内の宅を点じ、これを移し建立せらる。この屋は、正暦年中建立の後、未だ回禄(かいろく)の災いに遇わず。晴明朝臣鎮宅の符を押すが故なり。


正暦年中は(990年~995年)。意味は、(頼朝が)鎌倉に居館の建設を始めたが間に合わないので山ノ内にある知事家(兼道)の屋敷を移築した。この屋敷は正暦年に建てられて以降、いまだに火の神の災い(火災)に遭っていない。その理由は晴明が屋敷に鎮宅の符を押したからだ。

以上から、「吾妻鏡」の記述が正しいとすれば、安倍晴明は北鎌倉の山ノ内に来たことになります。であれば、晴明石と晴明井戸がここにあって不思議ではありません。次に「新編相模国風土記稿」を見ていきましょう。

晴明石
往還中二二所アリ。各大ニ三尺許。石ノ傍ラニ各井戸アリ、安倍晴明ガ加持水ニシテ火難ヲ防グ奇特アリ。ト云伝フ。大船村多聞院持。


晴明石の解説の中に必要な情報はほぼ出そろっているように思えます。往還とは現在の県道21号横浜鎌倉線です。その路上の二カ所にそれぞれ晴明石(三尺=約90cm)と晴明井戸があったと記載されているのです。では、グーグル地図画像で見ていきましょう。


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グーグル地図画像。この範囲内の往還中に晴明石が一個所在していた。

画像の中央を流れる川が小袋谷川で、(有)成蹊社とあるところで21号線に当たって消滅しているように見えるのですが、実際には道路を越えてすぐ直角に曲がり円覚寺の前へと続いていきます。川が21号線に当たったところにある橋は十王橋と呼ばれ、かつて付近に存在した十王堂にちなんでいます。後で書きますが、このお堂も安倍晴明との関連が推測されます。

安倍晴明は北鎌倉の山ノ内に来ただけでなく、屋敷も構えたそうです。一般的には、県道21号線とJR横須賀線が交差する踏切の建長寺寄りにあったとされ、晴明の石碑が置かれています。


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グーグル地図画像。

鎌倉五山と言うお蕎麦屋さん脇のパーキング手前に石碑があります。

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石碑です。

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石碑の背後。石碑の後ろに平石、その脇に丸石が見えます。

「呪術都市鎌倉探訪記 その11」では、この平石を行方不明になったもう一つの晴明石と特定しています。晴明の屋敷があったとされるこの場所は、若宮幕府の北境に当たると「呪術都市鎌倉探訪記 その13」(2011年3月10日)で記載しました。しかしJR踏切一帯には、石碑と稲荷神社を除くと安倍晴明の痕跡がないため、十王橋近くの小袋谷川が柄杓状となった場所を晴明屋敷と特定したのです。

小袋谷川の柄杓状地内を晴明屋敷に特定する理由は幾つかあります。小袋谷川の柄杓形状は自然にできたものとは考えられず、陰陽道が重視する北斗七星を象っていると推定されます。川の流れが人の手で柄杓状に曲げられたとすれば、詳細は後述しますが、安倍晴明との関連が疑われるのです。

晴明は稀代の陰陽師として有名で、泰山府君祭という陰陽道における最高の秘儀は彼が始めたものとされています。泰山府君は中国における道教の神ですが、日本において泰山府君は地獄の十王の一人である閻魔大王と同神になりました。そして十王を祀る十王堂が各地に建てられたのです。こうした経緯から、北鎌倉にあった十王堂は晴明に関係していると推測されます。

晴明石は戦前まで十王堂近くの往還中(現在の県道21号線)に置かれていました。ところが、戦後の道路拡張の際邪魔になるとして別の場所に移され、そこも具合が悪いと言うことでスサノオノミコトを祀る八雲神社境内に移されます。(時期は未確認ですが、昭和44年に移されたようです)

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八雲神社。以前は牛頭天王社と呼ばれていました。

神社の鳥居の先を左に上がると、稲荷神社の鳥居があり、その先に晴明石があります。

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稲荷神社と晴明石のある場所。

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晴明石。

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石を拡大します。

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さらに拡大。この石質に留意ください。

地元では晴明石を踏むと祟りがあるとされ、その結果足を悪くするのでびっこ石と呼ばれているとか。往還にあったときはさぞ足を悪くされた人が多かったのでしょうね。

写真でわかるように、晴明石の先に稲荷神社が鎮座しています。鎌倉においては晴明と稲荷社がペアになっているのです。(ここでは稲荷社が先行して鎮座していますが…)理由は晴明の出生譚にあります。

彼の父は保名で、母は信田の森の狐。この狐は保名に助けられたのを恩に感じ人間の姿となって保名の前に現れました。二人は結婚して晴明を産んだとされているのです。もちろん晴明は狐の子ではありません。信田の森は和泉にありました。そして和泉は秦氏の居住地です。晴明は秦氏系女子の子供として生まれたがゆえに、稀代の陰陽師となったのです。

八雲神社に関する神奈川県神社庁の由緒は以下の通り。

元仁元年(1224)12月鎌倉四境の北境に当たる「山ノ内」で疫病祓いの鬼気祭が斎行された。 この斎場跡に祇園八坂の神霊を勧請して村内の安穏を祈願したのが当社の創立。…以下略。

(注:鎌倉幕府3代執権の北条泰時は北条政子が嘉禄元年(1225年)に死去した後、幕府を大蔵から宇津宮辻子に移しています。元仁元年はこの場所が鎌倉の北境であった最後の年だったのです。なお宇津宮辻子幕府は嘉禎2年(1236年)に若宮大路へと移転されています)

鬼気祭を斎行したのは当然安倍一門の陰陽師と思われます。また八雲神社のほど近くには天王屋敷がありました。これは山崎天神社の相殿に祀られていた牛頭天王の御旅所つまり神輿をお迎えする仮宮があった場所を意味します。

そして、閻魔大王、スサノオ、牛頭天王は泰山府君と同神とされているのです。いかがでしょう?北鎌倉の狭いエリアに安倍晴明と関係の深い神々が勢揃いしていますね。だとすれば、この地に晴明の居館があったと推定して何らおかしくはないのです。

内容を纏めましょう。北鎌倉山ノ内には安倍晴明の存在を示す鎮宅の符の伝承、晴明石、晴明井戸があり、泰山府君と関係のある十王堂、スサノオ(=牛頭天王)を祀る八雲神社(創建は晴明没後200年以上後だが安倍氏系陰陽師が関係している場所)まで存在していることになる。

これだけの痕跡が集積している以上、あくまで晴明の居館が鎌倉にあるとの前提においての話だが、晴明の居館はこの場所にあったと考えざるを得ない、となるのですがいかがでしょうか?

では次に、京都一条戻橋の晴明神社まで飛びましょう。晴明神社境内には晴明の屋敷があったとされています。京都と北鎌倉。同じ人物の屋敷なら、何か対比できるものがありそうに思えます。と言うことで、神社の由緒を見ていきます。

晴明神社は晴明公の屋敷跡であり、天文陰陽博士として活躍していた拠点であった場所です。晴明公が亡くなられた後、一条天皇は晴明公の偉業は非常に尊いものであったこと、そして晴明公は稲荷大神の生まれ変わりであるということで寛弘4年(西暦1007年)、そのみたまを鎮めるために晴明神社を創建されたのです。…以下略。

由緒にも晴明と稲荷大神の関係が記されていますね。さらに神社境内には晴明井戸があり、井戸は北斗七星を象った柄杓の先端部に位置しています。つまり京都では、晴明井戸と北斗七星がペアになっているのです。本家本元でそうなっている以上、北鎌倉においても同様でなければならないのです。

だから北鎌倉における晴明屋敷は、北斗七星のある場所すなわち小袋谷川が北斗七星を象った場所に存在しなければならないことになります。と同時に晴明井戸も存在しなければなりません。

以上から、北鎌倉山ノ内の小袋谷川が柄杓状となった一帯に晴明屋敷、知事家兼道屋敷、晴明石、晴明井戸などが存在する(存在していた)必然性は十分にあると言えるでしょう。(知事家兼道屋敷に「鎮宅の符」を押したのは晴明で、この符は北極星や北斗七星を神格化した鎮宅霊符神の御札なので北斗七星と深い関係があります)

また京都は、琵琶湖の上に浮かんでいると形容できるほど地下水脈が豊富です。北鎌倉も同様に地下水が豊富で、至る所に自噴的井戸があります。この相似性も北鎌倉における安倍晴明の存在を示唆しているように思えます。

さて、ここまで書いた内容の多くは以前書いた分の復習と推理・分析作業なので、そろそろ具体的な検証に入らねばなりません。現在では21号線となっている往還のどこに晴明石はあったのでしょう?

             ―北鎌倉の安倍晴明再考 その2に続く―

酔石亭主

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