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秦さんはどこにいる? その19


久我山の秦氏について書き終わり、次の地域に移ろうと思っていたのですが、まだ東京で後ろ髪を引かれる場所があります。それは、東京23区の一つ豊島区です。豊島区がなぜ気になるかと言うと、秦氏地名の可能性があるからです。

豊島が秦氏地名と推定される理由は、頭に「豊」が付くこと。もう一点は、摂津国豊島郡が秦氏の拠点地域であることによります。これはきっと、秦氏が摂津国豊島郡の地名を関東に持ち込んで武蔵国豊島郡になったのではと思い、豊島の地名由来を調べてみました。Wikipediaなどは、秩父平氏の流れである豊島氏が豊島郡の起源になるとしています。

確かに千葉や江戸は千葉氏、江戸氏が地名の起源となっていますので、豊島氏も同様に考えておかしくありません。他にも地名由来説があって、隅田川河口に島が多かったので「十島」とか、「砥嶋」などが挙げられているようです。問題は、秩父平氏では秦氏と関係がないことです。

これでは行き詰るかなと思っていたら、「日本書紀」の仁徳天皇18年庚申春に、武蔵国豊島郡から2頚の狐を得て云々と言う記述がありました。秩父平氏の豊島氏が起源ではないと確認できる内容です。

さらに調べて見ると、やはり摂津国豊島郡が関連する線も出てきました。摂津国豊島郡の豊島連が関東に移住して豊島の地名になったとするものです。豊島蓮の祖は彦八井耳命で、その子孫には茨田宿禰、茨田連などがあります。

「日本書紀」では茨田堤を茨田連が新羅人を使って造ったとあり、「古事記」では新羅人が秦人になっています。大和岩雄氏は「日本にあった朝鮮王国」(白水社)で、「秦氏系茨田氏」と記載し秦氏との繋がりを認めています。以上から、摂津国豊島郡にいた彦八井耳命の子孫である豊島連も、茨田連同様秦氏系の可能性があります。

その豊島連が武蔵国に移住し、豊島と言う秦氏地名を持ち込んだのではないでしょうか?移住に当たっては秦氏が同行した可能性もあります。やや強引ではありますが、ようやく摂津国豊島郡と武蔵国豊島郡が秦氏のキーワードで連結しました。だとしたら、現在の豊島区にも秦氏の痕跡があるはずです。そう思いあれこれ調べました。

話は急に変わるのですが、「写し霊場」なる場所が日本各地にあります。写し霊場の元になるのはもちろん弘法大師空海の四国八十八ヶ所。江戸時代にはお伊勢参りだけでなく、四国八十八ヶ所を回るお遍路が盛んになりました。

しかし、関東から四国に行くだけでも大変な苦労です。行ったら行ったで今度は四国をぐるりと徒歩で一周するのですから、その労力たるや筆舌に尽くしがたいものがあるでしょう。人間信仰心が高まるのは高齢となってから。でも、お年寄りでは四国まで歩けません。

そこで、地元に四国八十八ヶ所のコピーを設置し、庶民が手軽に弘法大師の徳に触れることができるようにしたのです。こうしたコピーを写し霊場と呼んだのですが、藤沢を例に取ると、四国より砂を取り寄せ、大師座像を各寺に安置し「相模国準四国八十八ヶ所」なる霊場が設置されました。

徳川幕府のお膝元である江戸にも当然同様の写し霊場が設置され、御府内八十八ヶ所と呼ばれました。これにより信仰心の篤い江戸庶民もお手軽に巡礼できた訳です。でも、御府内八十八ヶ所が秦氏と何の関係があるのか、と指摘されそうです。その疑問に答える前に、四国の秦氏に関しておさらいしておきましょう。

四国八十八ヶ所の空海は秦氏と縁が深く、四国の秦氏と言えば真っ先に土佐国が頭に浮かびます。土佐国の大名長宗我部氏は秦氏の流れを汲むとされ、高知市内には今も多数の秦氏地名が残り、幡多郡には大月町まであります。

その土佐国幡多郡には四国八十八ヶ所の第三十八番札所、金剛福寺があります。金剛福寺に関しては以下Wikipediaより引用します。

金剛福寺(こんごうふくじ)は、高知県土佐清水市にある寺院。蹉跎山(さだざん)、補陀洛院(ふだらくいん)と号す。宗派は真言宗豊山派 。本尊は千手観世音菩薩。四国八十八箇所霊場の第三十八番札所。境内には亜熱帯植物が繁っている。足摺岬の遊歩道付近には、ゆるぎ石、亀石、刀の石、亀呼び場、竜橙の松、竜の駒、名号の岩の「弘法大師の七不思議」の伝説が残されている。山号の文字「蹉」も「跎」もともに「つまづく」の意味で、この地が難所であったことを示している。
寺伝によれば、弘仁13年(822年)に、嵯峨天皇から「補陀洛東門」の勅額を受けた空海(弘法大師)が、三面千手観世音菩薩を刻んで堂宇を建てて安置し開創したという。空海が唐から帰国の前に有縁の地を求めて東に向かって投げたといわれる五鈷杵は足摺岬に飛来したといわれている。


秦氏に縁の深い空海が、秦氏の居住区と思われる幡多郷に創建したのが金剛福寺でした。そこで第三十八番札所である金剛福寺の写し寺を御府内八十八ヶ所から拾ってみます。すると…、驚くべきことに豊島区内の金乗院が金剛福寺の写し寺となっていました。

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第三十八番を示す金乗院山門前の石柱。

秦氏の色が濃い土佐国幡多郷のお寺と、秦氏地名と思われる豊島区内にある金乗院がここにリンクしたのです。秦氏は必ずと言っていいほどこの種のリンク付けを行います。一族の癖のようなものですね。だとしたら、金乗院に秦氏の痕跡が見られるはず。早速行ってみましょう。

行き方は山手線大塚駅で都電荒川線に乗り換え、学習院下で下車。東に少し歩き高南小のお隣で、住所は豊島区高田2丁目12番39号です。


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金乗院を示すグーグル地図画像。

まずは大塚駅から都電荒川線に乗り込みます。実は荒川線に乗るのは生まれて初めてです。

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荒川線車内から撮影。これが都内の景色とは思えません。(写真は帰りに撮影)

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もう一枚。

学習院下駅の手前です。一両編成の都電ですから、江ノ電よりちっちゃいですね。しかも両側はまるで森のよう…。都電の左側は明治通りで、その左に学習院があります。学舎は丘の上のような場所にあり、緑が豊富。都電の周囲が森に囲まれているのはその影響と思われます。

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千登世橋です。これも学習院下駅の手前にあります。

昭和7年に架設されたもので、明治通りと目白通りの立体交差橋で土木史的価値が高いと解説板に記されていました。

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千登世橋から見た明治通り。かなり下り坂になっています。右手の丘が学習院の杜。

学習院下駅で下車し東に歩きます。まず目に飛び込んできたのが、巨大な新築マンションです。

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マンション。

マンションの先が上り坂になっています。ちょっと寄り道して、上り坂を見てみましょう。

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上り坂。びっくりするほどの急な坂です。

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坂だけを撮影しました。お年寄りならとても歩けません。

高南小を横目に少し歩くと金乗院に着きました。山門前には御府内第三十八番弘法大師と彫られた石柱以外にも何本か石柱があります。

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別の石柱裏面。

土州足摺山代と彫られています。金剛福寺は足摺岬のすぐ近くですから、さもありなんと思えます。またこの石柱で金剛福寺と金乗院の関係が理解できます。


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金剛福寺を示すグーグル地図画像。

金乗院に関しては以下Wikipediaより引用します。

金乗院(こんじょういん)は、東京都豊島区高田にある真言宗豊山派の寺院である。山号は神霊山。江戸五色不動のひとつ、目白不動尊を祀っていることで知られている。
当寺院は、開基である僧・永順が本尊である聖観音菩薩を勧進して観音堂を作ったのが始まりであるとされている。永順は1594年に没しているのでそれ以前の天正年間の頃(1573年~1592年)の創建ではないかと推定されている。当初は中野にある宝仙寺の末寺で蓮花山金乗院と称したが、後に護国寺の末寺になり神霊山金乗院となった。


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境内です。本堂は新しい。

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案内板。

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解説板。

解説板には秦氏関連など何も出ていません。困りましたね。お寺に秦氏の痕跡はなさそうです…。ただこのお寺にはかなり有名な人物のお墓があります。そう、丸橋忠弥の墓です。

丸橋忠弥と言えば慶安の変(由井正雪の乱)の由井正雪が頭に浮かびます。徳川家綱が家光の後を継いだころ、彼らは幕府転覆を謀るのですが、密告により事は露見。慶安4年(1651年)7月に由井正雪は自害し、8月に丸橋忠弥が磔刑となり、計画は頓挫します。

この事件でまず気になるのは由井正雪の名前です。由井は「鎌倉の地名由来」で出てきた由井の里の由井です。由井の里に秦氏が絡むのは既に論証しています。同様に、由井正雪にも秦氏が絡んでいるのではないでしょうか?それが首謀者の一人丸橋忠弥であるとも考えられます。

丸橋忠弥に関しては、以下Wikipediaより引用します。

出自に関しては諸説あり定かではなく、長宗我部盛親の側室の子として生まれ、母の姓である丸橋を名乗ったという説、『望遠雑録』には上野国出身との記述があり、また出羽国出身という説などもあり、長宗我部氏とは関係ないとする説もある。なお、河竹黙阿弥の歌舞伎『樟紀流花見幕張』(慶安太平記)では、本名は「長宗我部盛澄」(ちょうそかべ もりずみ)と設定されている。

丸橋の名字は出羽国出身の乳母の姓を取ったものですが、上記のように秦氏の流れを汲む長宗我部盛親の子だとの説がありました。ここまで書いてきた流れからすると、丸橋忠弥は秦氏のように思えます。本当かどうかお墓を見に行きましょう。本堂に向かって右側の石段を上がると墓地になります。

上り口には様々な古い庚申塔があります。本堂の手前には龍が彫られた倶梨伽羅不動庚申もありました。忠弥の墓は案内表示に従って歩けばいいのですが、途中でわかりにくくなります。しかしそれほど広い墓苑ではないので、すぐに見つかるはずです。

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丸橋忠弥の墓です。

忠弥の墓の手前右手に古そうな墓石が並んでいます。ちょっと見てみましょう。すると…。

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何と、秦氏とあります。

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そのお隣には長曾我部氏とあります。

ここの墓石は全て長宗我部ではなく長曾我部と表記されています。長宗我部氏は自分たちの祖先を秦氏としていますが、仲好く長宗我部氏と秦氏が並んでいるのには驚きです。

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波田氏と書いたものもありました。

この墓石は、秦氏が改名して波田氏となった事実を物語っています。凄いですねぇ。

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こちらの墓碑は秦氏長曾我部畑云々と彫られています。

秦氏長宗我部の畑さんの経歴と言う意味でしょうか?畑の下の漢字が坐や巫に似通った文字となっています。その一つ飛んで下の漢字も十が三つに上と書いてあるように見えます。いずれにせよ、現状では漢字がわからず読めません。

この内容から、秦氏と長宗我部氏と言う別の氏族がそれぞれ埋葬されているのではなく、同じ一族を意味していると理解できます。秦氏=長宗我部氏なのです。

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これは秦甚兵衛武成でしょうか。

秦武成で検索すると、若狭秦家文書の中に名前が出てきます。多烏浦の海産物は寛喜3年(1231年)に多烏浦の刀弥に補任された秦武成が負担するなどと書かれています。もちろん同一人物ではありません。

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これは秦武善の奥さんの墓のようです。

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丸橋忠弥の墓。戒名が「尭雲院忠徳道盛居士」と彫られています。

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墓石には家紋が彫られていますが、長宗我部氏の方喰(カタバミ)紋です。

丸橋忠弥が長宗我部氏とすれば、自動的に秦氏になるはずです。しかし、戒名からは判別できません。そんな場合には墓石の裏面をチェックします。木の柵が邪魔して撮影が難しく、文字も摩耗して見えにくくなっていますが、何とかやってみましょう。

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墓の裏面です。「長曾我部」と読み取れます。

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その下部です。「我部忠弥秦」と読み取れます。

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最下部です。「弥秦盛澄」と読み取れます。

繋げれば、「長曾我部忠弥秦盛澄」となります。忠弥を外せば、河竹黙阿弥の歌舞伎『樟紀流花見幕張』における本名と同じでした。名前の右側には死去した日付が彫られています。読み取りにくいのですが、死去したのは 慶安4年8月10日(1651年9月24日)ですから、「慶安四年八月十日卒」で間違いないでしょう。

何と、由井正雪とともに幕府転覆を謀った丸橋忠弥は、秦氏の子孫である長宗我部氏で盛澄と言う名前だったのです。

なお忠弥は例の鈴ヶ森で処刑されるのですが、遺骸一族により持ち出され紀州で埋葬されます。その後秦武郷(はたたけくに)が金乗院に改葬したとされます。改葬時期は、処刑から100年以上経過した安永9年(1780年)7月14日です。墓石にある秦甚兵衛武成、秦武善は、名前に「武」が付くことから秦武郷の子孫である可能性も窺えます。

つまり丸橋忠弥は、長宗我部秦氏に守られてこの金乗院で永遠の眠りについているのです。
また金乗院は長宗我部秦氏の菩提寺と言うことになります。

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卒塔婆の背後には巨大マンション。何ともシュールな光景です。

それにしても不思議です。幕府からすれば、許すべからざる大罪人丸橋忠弥の墓が自分のお膝元にあるからです。密かに墓石を建てたとしても、はっきりと名前が記されているので、すぐにばれるでしょう。幕府に通報が行けば墓は破却されるはずです。なぜこの墓は残ったのか知りたいと思います。

また長宗我部氏の一部が秦姓に戻ったのはなぜでしょう?久我山の秦氏も似た例がありますが、秦野氏から秦氏への改名は有り得ることと思えます。秦から波田への改名も当然有り得ます。しかし秦→長宗我部→秦はどうも理解できません。両方の疑問は長宗我部氏の子孫が現在も居られることから、何らかの答えがありそうな気がします。

上記疑問はあるものの、長宗我部氏は間違いなく秦氏の流れを汲んでいると思います。理由は以下の通り。

御府内八十八ヶ所の遍路は、信仰と言うより江戸庶民のレジャーでした。今回金乗院を訪問した際、御府内八十八ヶ所を廻っているご婦人方とお話ができたのですが、全部回ること自体を目的とされていました。多分、江戸時代も五十歩百歩だったと思われます。

そうした意味合いの御府内八十八ヶ所に、秦氏は密かに仕掛けを構築し別の意味を持たせたのです。彼らは武蔵国豊島郡の金乗院を土佐国幡多郷にある第三十八番札所金剛福寺の写し寺にさせ、金乗院を一族の菩提寺とさせました。四国八十八ヶ所と江戸における写し霊場をちゃっかりリンクさせていたのです。

秦氏は、本来自分たちとは関係のない御府内八十八ヶ所の一つを取り込んで換骨奪胎し、自分たちにとって都合のいいものに仕立て上げました。そうした秦氏の隠れた意図を、幕府も庶民も見抜けなかったはずです。このような仕掛けや仕組みの構築こそが秦氏の得意技ですから、仕掛けを担った長宗我部氏は秦氏であると断定できるのです。

いや、もっとうがった見方をすれば、秦氏は初期の長宗我部氏を乗っ取ってしまったのかもしれません。そんなこととはつゆ知らず、長宗我部氏が自分たちを秦氏の子孫と考えているとしたら…。秦氏の思う壺となってしまいます。ちょっと恐ろしい想像ですが、可能性ゼロとは言えません。

今回は東京の秦さんを追加的に書いたものです。追加にしては記事の量が多くなり、秦氏の仕掛けと秦氏の改名に関する具体例を見ることができました。予想を越える収穫を得られたのでは、と思います。

秦さんはどこにいる その18(久我山の秦氏)


今回は玉川上水に沿って見ていきます。

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玉川上水です。

玉川上水は、江戸に飲料水を供給するため江戸時代に掘削されたものです。その内容に関してはもう一度Wikipediaより引用します。

『玉川上水起元』(1803年)によれば、承応元年(1652年)11月、幕府により江戸の飲料水不足を解消するため多摩川からの上水開削が計画された。工事の総奉行に老中で川越藩主の松平信綱、水道奉行に伊奈忠治(没後は忠克)が就き、庄右衛門・清右衛門兄弟(玉川兄弟)が工事を請負った。資金として公儀6000両が拠出された。
幕府から玉川兄弟に工事実施の命が下ったのは1653年の正月で、着工が同年4月、四谷大木戸までの本線開通が11月15日とされるが、1653年2月10日着工、翌年8月2日本線開通とする史料もある。


玉川上水沿いに歩き出してすぐ、お墓が見つかりました。多分秦さんのものだろうと思いチェックしたところ…。

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予想通り秦さんのもので、「秦氏」と彫られています。

「秦氏の謎を解く」の「秦氏」がそのまま彫られているのですから、酔石亭主にとっては感動ものです。また別の墓石には施主として秦野と彫られています。

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墓石。

「久我山の秦氏」も今回が最終回となります。終わる前に残る宿題を解かねばなりません。酔石亭主は、久我山の秦氏は1500年代前半に秦野より当地に移住したと考えています。一方、秦野の秦氏は徐福伝承を持っていました。であれば久我山の秦氏も同じ伝承を持っているべきです。なのに、彼らは徐福伝承を持っていません。これはなぜなのでしょう?

まず、久我山の秦氏が秦氏としての特徴を備えているかどうかを見ていきます。(久我山在住の秦さんは、秦野荘の波多野氏が平安末期に移住したと考えて居られました。その場合、彼らは秦氏の特徴を備えていないことになるので、まずこの点を明らかにしたいのです)

秦氏は、呪術に優れる、徐福伝承を持つ、財務官僚である、土木技術に優れる、養蚕、鉱山開発などの事業を得意とする、など様々な側面を持っています。

一方久我山の秦氏は地主的な存在で、呪術、財務、養蚕、鉱山開発など手掛けていないことは明らかです。もちろんこの地に徐福伝承などありません。彼らに残るのは土木技術のみです。久我山の秦氏が困難な土木工事を実施していたとしたら、それが秦氏である証明となるでしょう。

ここで最初に考えた玉川上水の問題が浮上してきます。玉川上水は江戸時代に玉川兄弟が工事を担当し、造られました。しかし、上北沢桜並木会議ホームページには以下の記載があります。

なお、玉川上水の内、井の頭-高井戸間は、江戸時代以前に、井の頭の水を利用する為に、鈴木・秦(久我山)両豪族が掘削していたと言われる(北沢用水は高井戸から分水)。


何と、玉川上水の前身を秦氏が掘削していたことになります。久我山から井の頭にかけては井の頭道が走り、道に沿って秦氏の居住区が広がっていることからしても、この説には信憑性がありそうに思えます。

さらに鈴木家側から見ると、鈴木家の娘が二代にわたり秦氏へ嫁いでいるという話があります。また、鈴木家の娘がいなくなって大騒ぎになり、一ヶ月後娘の声で「井の頭の池の主にお嫁に行ったので探さないで欲しい」と声がした。庭を見ると草木が倒され一筋の道ができていたので、辿って行くと井の頭の池に続き、そこで消えていた。と言う伝承もあり、他にも似たような話が幾つかあります。

世田谷区桜上水1-1にはかつて鈴木左内家の屋敷神であった左内弁財天が祀られています。その解説板の内容は以下の通り。

この弁財天にまつわるものとして、様々な説話が伝えられています。そのひとつに次のような話があります。鈴木左内家の娘は周囲がうらやむほどの美しい娘でした。ある日この娘が井の頭の池に遊びに出かけたところ、井の頭池の竜神が娘を見初めました。竜神は美男子に姿を変えて娘の前に現れ、娘もその若者に恋をするようになりました。その若者が自分の正体は竜神であることを娘に告げたところ、娘は初めは驚いたものの、その若者に嫁ぐことを決心しました。娘は、家に帰った後、病にかかりました。父母は心配しましたが、日ごとに容体が悪化するので、ついに諦めて娘を井の頭池に連れていきました。娘は泣きながら祈ったあと、池に身を投げました。すると水面に巨大な蛇が現れ、再び水底に消えていきました。この後、鈴木家では弁財天を祀るようになったといいます。
北沢総合支所土木課世田谷区教育委員会


伝承の基本構造は「古事記」の三輪山伝説にほぼ似通っています。井の頭池の若者(=竜神)が秦氏です。この伝承には鈴木家と秦氏の力関係がよく表れていると思われます。鈴木家は秦氏の求めに従い、泣く泣く娘を差し出したのでしょう。

鈴木家の伝承には秦氏の呪術性が垣間見えますし、何より玉川上水の前身となる工事を実施した点が土木技術系秦氏の特徴を十分に表現していると思います。井の頭池から神田川はこの地域で最も低い場所にあり、高台に位置する玉川上水に水を流す工事は多大な困難が伴います。にもかかわらず、工事を完遂できたのは、胎内掘り(トンネル工事)などの技術を秦氏が持っていたからだと推測されます。

結論的には、久我山の秦氏は秦野にいた波多野氏の流れではなく、秦氏本流かそれに近い土木技術系のメンバーが1500年代の前半に入植したものと考えられます。

以上から久我山の秦氏は、秦氏としての特徴を備えていることになります。

次の問題は「その15」でも指摘したように、彼らが徐福伝承を持っていないことです。この問題をどうクリアするか、まず、秦野における秦氏のありようを見ていきましょう。

秦野市の大日堂には秦川勝の石碑があります。これに関しては「相模国の秦氏」で取り上げていますが、内容の一部を再度掲載します。石碑には以下のような文面が刻まれています。

応神天皇十五甲辰年自唐土秦苗裔 
守護来而安當山彼又住故名称里於 
秦後孫秦川勝再加力云云 


大体の意味は、応神天皇十五甲辰年に秦の遠い子孫が唐土から渡来し、当山を安んじて守護し、ここに住んだのでこの里の名を秦と称した。後の子孫秦川勝。

この文を読んでどのような印象を持たれたでしょうか?応神天皇は実際には4世紀後半の人物と思われ、その時期に秦氏の遠い祖先が渡来したと書かれているのです。徐福の渡来を紀元前220年ごろとすれば、何と600年も渡来時期に差があります。

600年前を現在の私たちから見ると、室町時代のことになります。つまり、徐福の渡来と秦氏の祖先の渡来時期は大きくかけ離れていたのです。にもかかわらず、秦野には徐福伝承を持つ秦氏がいる。一方で応神天皇期に渡来した伝承を持つ秦氏がいる。

これをどう理解すればいいのでしょう?酔石亭主は事実をありのまま理解すればいいと考えます。具体的には以下のようであったのでしょう。

秦野には、徐福伝説を持ち運んだ徐福系秦氏と、秦川勝の子孫である葛野秦氏の二系統が存在していた。藤沢に向かったのは徐福系秦氏であり、久我山に向かったのが葛野秦氏と考えれば矛盾はない。葛野秦氏は京都において大井堰の工事を遂行した。よって、玉川上水の前身の工事を担った久我山の秦氏は葛野秦氏の流れを汲むメンバーと推定される。

このように考えれば、矛盾は解消します。秦野における秦氏は、富士山麓に居住した徐福系秦氏が大月、旧藤野町小渕を経由して丹沢のヤビツ峠を越えて秦野に入りました。時代は800年の富士山大噴火の後です。

一方秦野には、秦氏が海上ルートで渡来し、大磯に上陸し秦野に入ったとする伝説もあります。具体的には唐子(からこ)さんが中国から渡来し、大磯の浜に上陸して秦野に至ったというものです。

それを証明するかのように、金目川河口(現在の花水川)には唐ヶ原と言う地名も残されています。唐子さん伝説はその後、徐福が海上ルートで大磯に渡来し、上陸して秦野に入ったと言う内容に転化します。

この海上ルートで渡来したのが徐福系秦氏ではなく葛野秦氏であったとすれば、二系統の秦氏が秦野にいることも納得できるはずです。

ただ秦氏の海上ルートでの渡来は、高麗若光の大磯上陸が反映されているとも考えられます。

最も筋が通るのは、京都葛野に本拠を置いていた葛野秦氏が陸路秦野に来たと言う考え方です。時代は800年より相当以前になります。それは、久我山の秦氏が玉川上水の前身工事に従事した点だけでなく、別の面からも証明されます。

「相模国の秦氏 その4」2010年12月4日にて、「記録に残る最も古い相模国の国守は秦氏の秦井出乙麻呂で天平15年(AD743年)より国守の職に就いたとされています」と書きました。秦井出乙麻呂は秦井出氏の系統と考えられる人物です。そして秦井出氏は、以下の系図から葛野秦氏の流れを汲んでいると確認できます。

秦酒公(葛野秦氏の祖。秦氏の中では有名人物)─意美─知々古(摂津、秦井手忌寸)

また「続日本紀」神護景雲三年(769年)には「摂津国豊嶋郡人正七位 井手小足等十五人に姓・秦井手忌寸を賜ふ」との記事もあります。以上から、800年以前に葛野秦氏が秦野荘のある相模国に入植していたと確認できます。

これらの点を総合すれば、秦野には徐福系秦氏と葛野秦氏の二系統が居住していたと理解できますね。そして久我山の秦氏は、秦野にいた葛野秦氏が移住したものだったのです。よって彼らは徐福伝承とは無縁でした。また移住時期が1500年代前半と新しいため、秦氏がこれだけ密集しているにもかかわらず秦氏地名は存在していません。

以上で、久我山の秦氏が徐福伝承を持っていない謎は解明できました。久我山の秦氏はこれにて終了です。次回は埼玉県と千葉県の秦氏を検討予定ですが、別の記事が溜っていますので少し後回しとします。

秦さんはどこにいる? その17(久我山の秦氏)


久我山駅の西には地域の総鎮守である久我山稲荷神社が鎮座しています。神田川に沿った小高い丘の上が鎮座地です。


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久我山稲荷神社を示すグーグル地図画像。

神社の御由緒はホームページから…。

社は古来久我山の鎮守で、明治40年4月に字北原にあった天祖神社を合祀しました。天祖神社(神明社)の 祭神は大日霎貴神、当時本殿(間口三尺・奥行三尺)、境内一反五畝余を有していましたが、稲荷神社に合祀したので 明治42年4月に境内地を処分しました。

これだけでは、どんな歴史を持った神社なのかほとんどわかりません。秦氏のことですから、わざとわかりにくくしたのかも…。いずれにしても、この神社は久我山の秦氏にとって中核に位置するものです。とにかく境内に入ってみましょう。

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鳥居です。なかなか立派な神社です。

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朱塗りの鳥居には寄進された秦さんの名前があります。

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社殿です。

様々な工事に寄進された奉納者名を見ると秦さんだらけです。

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奉納者名を記した板。

奉納者の中に高麗さんも居られました。高句麗渡来の高麗さんの存在を考慮すると、久我山の秦氏は、7世紀から8世紀にかけてこの地に入った可能性も出てきます。しかしこの高麗さんは、多分三鷹市の高麗さんの流れと思われます。調べて見ると…。

東京都の高麗姓は69人で、トップが八王子市の19人。それに次ぐのが三鷹市の13人でした。高句麗からの渡来人が関東に移住し、最終的に八王子と三鷹市に定着したのでしょう。高麗氏に関しては以下Wikipediaより引用します。

高麗氏(こまのうじ、こまし)は、高句麗王族を祖先とする渡来系氏族。高麗を氏・姓(本姓)とする。姓(カバネ)は王、朝臣。
668年の高句麗滅亡により、約1799人の高句麗人が日本に亡命した。
703年(大宝3年)に高句麗王族とされる高句麗使の玄武若光が高麗王の姓を下賜される。750年(天平勝宝2年)には高句麗第19代国王・広開土王から五代孫の王族・背奈福徳後裔の福信ら一族が高麗朝臣の姓を下賜されている。当時、朝臣姓を渡来人に贈るのは異例であった。その後に高麗福信は氏を高倉に改称する。なお若光の子孫は代々、高麗神社の宮司として現在まで続いている。同族に高句麗第22代国王・安蔵王から三代孫の子孫の狛氏があり、戦国武将に高麗経澄がある。


なお狛江は上記の狛氏にちなむ地名と思われます。狛の文字に白が含まれるのは半島の白山信仰とも関係しそうです。

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舞殿です。

久我山稲荷神社は、秦さんが総力で支え続けている神社でした。神田川を渡り人見街道に戻ります。すると街道の北側にこんもりした森が見えてきます。神社のように思えます。

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神社の森。

丁度神田川を挟んで久我山稲荷神社と向き合うような位置となります。しかし久我山稲荷神社と違って寂れた風情。

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社殿。

石柱を見ると大熊氏が祀る稲荷神社と判明しました。

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石柱です。

神田川を挟んで台地の北側が秦氏、南側が大熊氏と住み分けができていたのが、神社の配置から見て取れます。

人見街道を西に三鷹市方面へと歩きます。するとまたありました。

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秦工務店です。

所在地は三鷹市との境である牟礼橋の手前になります。牟礼橋の下を玉川上水が流れています。

牟礼橋のすぐ手前にはケヤキの巨木が天を衝いています。

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大ケヤキです。

ケヤキの後ろには庚申塔らしきものが…。

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庚申塔です。

建てられたのは元禄13年(1700年)で、願主の名前がぎっしり書いてあります。しかし、読み取れません。玉川上水を越えると三鷹市の牟礼に入ります。この地区にも秦野姓があるとのこと。(確認はしていません)

赤穂市の有年牟礼・山田遺跡からは秦と刻んだ須恵器が出土しており、三鷹市ではありますが、牟礼の地名には秦氏の関与があるのかもしれません。

久我山の秦氏に関してざっと見て回れたようなので、玉川上水に沿って歩き久我山駅に戻ることにします。

秦さんはどこにいる? その16(久我山の秦氏)


一週間のご無沙汰でした。今回も久我山の秦氏に関して検討を続けます。彼らの実像に疑問を抱えたまま、人見街道に出て、街道を東に向かいましょう。


大きな地図で見る
人見街道を示すグーグル地図画像。

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人見街道です。真っ直ぐな道なので、改修が施されているようです。

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人見街道解説板。

人見街道を東に150mほど歩きます。すると…。

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別れ道のところに庚申塔がありました。

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庚申塔。

塔の下部には願主として秦の名前が幾つか見られます。秦氏が建てた庚申塔と理解されます。

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解説板です。

この庚申塔は道標を兼ねたものです。広い道が人見街道で右手の高台に向かう道が井の頭道となります。井の頭道自体が秦氏の手になるものかもしれません。

さらに人見街道を東に向かいます。お稲荷さんがありました。

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お稲荷さんです。廃社になっている雰囲気です。

所在地は杉並区久我山5-27-1。地元では、はだか稲荷社と呼ばれているとか。何とも妙な名前のお稲荷さんですが、「はだ」を「秦」、「か」を家と見れば秦家稲荷社で、正しく秦氏が祀る神社となります。

ここからはぶらぶら歩きします。東原公園の脇に大きなお宅がありました。秦さんかと思って表札を見るとやはり秦さんです。

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秦さん宅。

先ほどの庚申塔の場所に戻り井の頭道方面に向かいます。

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久我山駅が近くなると、秦建設工務店さんがありました。

井の頭道をそのまま歩くと、最初の秦さんの豪邸に至ります。神田川と並走する井の頭道(高台の道)に沿って秦さんの拠点があることになります。この構造は多分昔からそう変わってはいなかったものと思われます。

秦さんはどこにいる? その15(久我山の秦氏)


今回も前回に引き続き、秦氏の久我山移住時期について検討します。この問題を地元はどのように考えておられるのでしょう?実は地元の研究者も秦さんでした。自分の先祖の歴史=郷土史だなんて、何とも痛快な話です。

秦さんによると、秦氏の久我山移住時期は平安末期。源頼朝が活躍し始める頃のことです。移住に関係する頼朝の活動は以下Wikipediaより引用します。

平安時代末期に河内源氏の源義朝の三男として生まれ、父・義朝が平治の乱で敗れると伊豆国へ流される。伊豆で以仁王の令旨を受けると平氏打倒の兵を挙げ、関東を平定し鎌倉を本拠とする。…中略…
挙兵の第一攻撃目標は伊豆国目代山木兼隆と定められ、治承4年(1180年)8月17日頼朝の命で北条時政らが伊豆国韮山にある兼隆の目代屋敷を襲撃し、兼隆を討ち取った


平氏打倒のため、頼朝は有力武将に書状を送り参戦を呼びかけます。これに対し、北条時政などが呼応しました。ところが波多野荘を支配する波多野義常は平家側に付き、頼朝の使者安達盛長に罵詈雑言を浴びせ追い返したのです。その後関東の支配権を確立した頼朝は、義常に討伐軍を送り、義常は本拠地である松田郷で自害しました。

この波多野氏の一族が相模国波多野荘を捨てて武蔵野に向い、久我山に住みついた。その結果久我山には多数の秦氏が居られる、と言うのが秦さんのご見解のようです。よって移住時期は平安時代末期(あるいは鎌倉時代初期)となるのです。

しかし義常が自害し、波多野氏の生き残りが久我山に来たとしても、彼らは秦氏とは全く別系統の一族です。波多野氏に関しては以下Wikipediaより引用します。

前九年の役で活躍した佐伯経範が祖とされ、河内源氏の源頼義の家人として仕えていた。経範の父・佐伯経資が頼義の相模守補任に際して、その目代となって相模国へ下向したのが波多野氏の起こりと考えられている。…中略…
経範から五代目の子孫・波多野義通は頼義の子孫である源義朝に仕え、その妹は義朝の側室となって二男朝長を産み、保元の乱・平治の乱でも義朝軍として従軍しているが、保元の頃に義朝の嫡男を廻る問題で不和となって京を去り、所領の波多野荘に下向したという。
義通の子波多野義常は京武者として京の朝廷に出仕し、官位を得て相模国の有力者となる。義朝の遺児源頼朝が挙兵すると、義常は頼朝と敵対し、討手を差し向けられて自害した。


以上より、波多野氏は秦野に入ったから波多野姓を名乗っただけで、秦氏ではないことになります。また波多野義常は武将であり、秦氏は古来より武士として存在していません。(秦川勝の子孫が武士になった伝承はありますが…)久我山の秦氏も地元の大地主であり、武士の子孫ではないはずです。以上から秦さんの説には疑問があります。

この問題は別として、久我山にはかつて秦野姓の方が数多く居られたようです。明治になって戸籍法が発令され、戸籍簿を作る際に、秦野から野を省き秦の一字だけで戸籍簿を作ってしまったとか。従って、現在の久我山には秦姓の方が多く居られることになったとされます。明治の話ですから信憑性は高そうですが…、これも若干疑問があります。

秦姓を改名して秦野姓や羽田姓になることは頻繁に見られます。しかし傍流の姓である「波多野」から「秦野」に改名し、それから秦氏本流の姓である「秦」を称するとは考えにくいのです。

論点を整理してみましょう。秦さんの説では、平安時代末期、波多野義常が頼朝の挙兵に応じず自害、彼の一族は波多野荘を捨て久我山に入り秦野姓となった。1590年の小田原城落城後大熊氏は秦野氏を頼って久我山に来た。明治になり秦野姓から野を取り秦姓になった、となります。

酔石亭主説は、秦野にいた徐福系秦氏が1500年代前半に藤沢や久我山に移住した。1590年の小田原城落城後、大熊氏は秦氏を頼って久我山に来た。久我山において秦姓から秦野姓が派生したが、明治になり秦野姓は秦姓に戻した、となります。

平安末期に秦氏(秦野氏)が久我山に移住したとすると、小田原城落城まで400年も経過することになり、大熊氏が秦氏(秦野氏)を頼ると言う点も筋が通らなくなります。酔石亭主説はこの点に無理がありません。久我山にあるべき秦氏地名が全く見られないのも、秦氏の入植時期が平安末期よりずっと遅い戦国時代であることから説明が付きます。

両説において一致するのは、彼らが秦野から移住した点です。

しかし酔石亭主説も大きな問題を内包しています。秦野にいた秦氏は徐福伝承を持っていたのに、久我山の秦氏にはそれが見られないと言う点です。

藤沢市の妙善寺にある徐福伝承を見る限り、徐福系秦氏は徐福の存在を意識の中心に置いています。それを久我山に行ったら忘れてしまったなどあり得ないことです。なのに、久我山の秦氏に徐福伝承はないのです。

頭を抱えますが、現在の酔石亭主説では上記の疑問に答えることができません。この問題の解決は難しそうなので、久我山の秦氏関連地域を全部見終わってから再検討することといたしましょう。

なお、本ブログは一週間ほどお休みします。
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