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関東平氏の鎌倉 その11


今回も藤沢市における妙見碑です。記事タイトルは鎌倉なので少しかけ離れていますが、源義朝が大庭御厨に乱入した際は大庭も鎌倉郡の一部だと強弁していますので、過去の(悪しき)例に倣うこととします…(笑)

目的地は伊勢山になります。


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伊勢山のグーグル画像。

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伊勢山と旧国道一号線伊勢山橋。坂の下は小田急線藤沢本町駅です。

伊勢山は山と言うより丘程度の高さです。藤沢本町駅で下車してからすぐ山に登れます。かつては桜の名所として賑わったそうですが、今ではどうでしょう?訪れる人の数は少なそうに思えます。

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伊勢山橋のすぐ近くに床屋さんの看板が。

スパイダーマンが首つり状態となっています(笑)
DANPATSUとは男髪のことでしょうか、あるいは相撲の断髪式の断髪でしょうか?どちらでも意味は通じます。両方を掛けているとすれば素晴らしいセンスですが、多分前者なのでしょう。

伊勢山は伊勢神宮にお参りできない庶民が、伊勢の方角を拝するため山上に伊勢社を祀ったことからその名が付いたとされます。しかし社の痕跡はどこにもありません。

むしろ大庭の地を伊勢神宮に寄進して大庭御厨になったこと、伊勢山が大庭城址と皇大神宮に挟まれた場所に位置することなど、伊勢神宮に縁の深い場所であることから伊勢山と称されたような気がします。

などと思いながら坂道を登ると…。

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急にふくろうさんが…。

こちらをじっと見ています。焦って撮ったせいか…、いや設定が違っていたため、ふくろうさんだけピントが合っていません。全く動かないところを見ると、どうやら作り物だったようで…。

山上にはあまり見るべきものはないのですが、公園中央に各種石碑があり北側の隅に庚申塔などが置かれその中に妙見碑があります。

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伊勢山公園に設置された各種石碑。戦争の慰霊碑です。

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庚申供養塔など。

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庚申供養塔。

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下部の三猿。あまりお猿さんらしく見えません。

この庚申塔は承応2年(1653年)に建てられたもので、市の指定文化財となっています。

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妙見碑です。

「北辰妙見大霊府神・嘉永七年七月」と記されています。嘉永七年は1854年ですから、鎌倉同様それほど古いものではありません。発掘された場所は伊勢山南斜面の土中とのことです。それはよしとして、なぜ伊勢山に妙見碑があるのでしょう?

妙見は千葉氏とその一族あるいは日蓮宗に関係します。ところが、伊勢山に千葉氏の影などありません。日蓮宗のお寺もありません。なのに、妙見碑がある。ちょっと奇妙ですね。

実は伊勢神宮外宮の神官である度会氏は妙見信仰を持っています。貞観元年(859年)神官の娘が御贄川で溺れ、遺体を探していると川底から童形の妙見菩薩像が出たのでこれを祀ったところ、子孫に恵まれたことから度会氏は妙見信仰を持つことになりました。

従ってこの碑は、伊勢にお参りに行った地元民が、度会氏の妙見信仰に触れ子孫繁栄の霊験にあやかろうとして建てたのではないかと推測します。

同じ妙見碑でも場所によって刻まれた文言は微妙に異なり、由緒・経緯も異なっています。どんな系統の碑にどんな文言が彫られるのか調べたら面白そうですが、とても手に負えそうになく、諦めるしかありません。興味があればどなたか挑戦してください。

伊勢山下の国道一号線バイパスを越えた北側は開発が進み、巨大なマンションが建っています。妙見様もびっくり。

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巨大マンション。

話は変わります。先日のテレビ報道によると、大震災後に九州に至るまでの各地の温泉で湯量が増えた、減った、色が変わった、あるいはアパートの下から温泉が湧き出したなどの異変が起きたとのことです。

この異変は地震により地下の岩盤がずれた結果発生しているのですが、それが東北、関東のみならず日本列島全体に起きていることを示しています。

一方地震学者は、相模湾から九州に至る連動地震の可能性を指摘しています。もしそうなら、東海、東南海、南海地震に加えて関東大震災が同時発生するようなものです。

最近余震も減っており、日常の生活が戻りつつありますが、災難は忘れた頃にやって来ます。引き続き警戒心を保つようにしておきたいものです。

          ―関東平氏の鎌倉 その12に続く―

関東平氏の鎌倉 その10


今回は藤沢市における妙見信仰を見ていきます。藤沢の鵠沼地区には結構な数の庚申塔などがあって、「鵠沼を語る会」と言う地元の会が詳しく調べ上げており、その中に妙見碑も出てきます。所在地は藤沢市鵠沼海岸2-12 国分㈱鵠沼寮駐車場だとか。

鵠沼海岸と知って、ちょっと妙な気がしました。そこは海岸線に近く、戦前の別荘やお屋敷があった一帯。妙見碑があるとは考えられません。しかし実際にあるなら、あれこれ考える前に行ってみるしかないでしょう。では、チャリンコを転がして探索に…。

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途中には湘南らしいお店が…。

かなり大きな鵠沼稲荷神社も海岸近くにありました。(良く神社前を通るので以前から知っていましたが…)鎌倉では大蔵稲荷の境内に妙見碑があったので、ひょっとしたら同じような関係でしょうか?

ところが由緒を調べてみると昭和18年に伏見稲荷大社の分霊を勧請して創建されたとあり、関係なさそうに思えます。あるいは、妙見碑も新しいのかもしれません。

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鵠沼稲荷神社。

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鵠沼和貴水とあります。

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湧き水のことでした。

清冽な水が流れ出ています。原発事故の後利用された方も多かったのでは、と思います。鵠沼稲荷から妙見碑まではすぐの距離です。

藤沢市の文化財になりそうな大きな洋館が見えてきました。国分さんの表札があります。
とすれば、この裏手辺りに寮の駐車場があるのでしょう。

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国分さんの洋館。


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グーグル画像。

画像で2丁目と表示されているのが国分さん宅で、寮の建物も見えます。日本離れした広大な敷地です。南へ少し歩くと湘南海岸に出ます。

駐車場の中に妙見碑がありました。かなり新しそうに思えます。

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妙見碑。

「鵠沼を語る会」によれば、これは鵠沼で最も不可解な碑だそうです。ここは江戸時代には鉄炮場で、明治になり徳島藩の藩主の次男が購入。現在の所有者は缶詰で知られる総合食品メーカー国分㈱の代表取締役会長兼社長國分勘兵衛氏とのことです。

なるほどそれで国分さんの表札があり、3000坪の敷地の一部が社員寮の駐車場になっているのです。

不可解な碑であればあるほど酔石亭主にとって挑戦し甲斐があると言うもの。早速碑文の内容を見てみましょう。

碑の中央には、「北辰妙見星」と彫られています。その上部には山形の上に丸が彫られています。そして右上に「日」、左上に「月」の文字が見られ、右側には「三十霊明神」、左側には「七曜九曜廿八宿富士大行名山」と彫られているようです。

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拡大して撮影。

左上の「月」に対して右上の「日」がよくわかりません。もしかしたら「日」は「星」の書き間違いではないでしょうか?そして山形の上の丸は星と富士を表しているなら、千葉氏の月星紋の変形とも推測されます。多分、富士信仰の要素が入って変形させたのです。

七曜は、火星、水星、木星、金星、土星、太陽と月の7つの天体を指しています。九曜はこの7つに架空の計都(けいと)星と羅睺(らごう)星を加えたものとされています。廿八宿に関しては以下Wikipediaより引用します。

二十八宿(にじゅうはっしゅく)とは、天球における天の赤道を、28のエリア(星宿)に不均等分割したもの。二十八舎(にじゅうはっしゃ)ともいう。またその区分の基準となった28の星座(中国では星官・天官といった)のこと。中国の天文学・占星術で用いられた。


妙見信仰は北極星への信仰から星辰全体へと広がっているようです。ところで国分さんの国分株式会社創業は、同社ホームページによると1712年(正徳2年)と大変古いものでした。4代國分勘兵衛宗山が土浦に醤油醸造工場を設け、大國屋の屋号で開業、同時に江戸・日本橋本町に店舗を開設したとのこと。

国分さんの歴史は古い。だったら千葉氏と関係があったのかもしれない。そう閃き、Wikipediaでチェックしたところ以下の通りでした。

国分氏(こくぶうじ、こくぶし)は日本の下総国国分を本拠にした武士の一族で、桓武平氏千葉氏流に属す。平安時代末期の惣領千葉常胤には7人の男子がおり、庶子にもそれぞれ所領を分与した。五男胤通は、下総国葛飾郡国分寺領(現在の千葉県市川市国分)を分与され「国分」を称した。


何と、鵠沼で最も不可解とされる妙見碑は間違いなく千葉氏の支流である国分氏が建てたものだったのです。建てた時代は不明ですが、国分氏がこの地を購入したのと時を同じくして建てられたのでしょう。住宅が昭和初期のものとすれば、妙見碑もその時期と言うことになります。鵠沼で最も不可解な碑の謎がこれで解けました。

実はこれと全く同じ書体の碑文が小田原市の大稲荷神社にあります。国分氏は戦国時代になって北条氏に従い、秀吉の小田原攻めで所領を没収されます。そうした関連で国分氏は小田原にも同様の碑を建てたのでしょう。

ちなみに、国分氏の家紋は九曜紋で千葉氏は月星紋です。この場所にはもう一つ小さな妙見碑があります。

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妙見碑

文字が読み取りにくく、こちらの方が古い碑のように思われます。

               ―関東平氏の鎌倉 その11に続く―

関東平氏の鎌倉 その9


今日は妙見信仰に関連した石碑などをグーグル地図画像に沿って見ていきます。


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グーグル地図画像。

最初の訪問先は来迎寺の入口手前左にある八雲神社(地図画像には神社の明記がありません)、祭神は須佐男命です。建立がいつかはっきりせず、「風土記稿」によれば字大門の天王社が元だそうです。

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八雲神社。

鳥居を見るとなぜか干しワカメがぶら下がっています。不思議な光景ですね。スサノオとワカメなど結びつくはずがありません。だとすれば、西御門に居を構えた武士と関係がありそうです。そう、千葉氏の一族で下総国海上郡海上庄から名を取った海上氏(うなかみ)です。海上氏にも二つの流れがあり、千葉介常胤の叔父・常衡から派生した海上氏と、千葉介常胤の六男・胤頼を祖とする海上氏があります。

海にちなんだ一族の居館にある社だから干しワカメなのでしょうか?確信はないのですが、そうしておきましょう。神社の裏に廻ると…。

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ありました。妙見大菩薩の石碑です。

石碑の上に何やら丸く彫られています。拡大して見ると…、

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北斗七星です。

妙見は北極星あるいは北斗七星を神格化したものですが、碑に刻まれているのは珍しい。
いつ頃建てられたのかを調べてみると、天保三年(1832年)と裏に彫られています。

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石碑の裏。

約180年前のものでそれほど古くはありません。海上氏は秀吉の小田原攻めの際に北条氏と運命を共にして衰退します。すると石碑は、かつてこの土地にいた海上氏をしのんで地元の方が建てたのでしょうか?あるいは海上氏の子孫がこの地に在住していたとも考えられます。

八雲神社を後にして頼朝の白旗神社前を金沢街道に向けて歩きます。すぐに「岐れ道」バス停付近に出ます。その少し左手先を左折すると滑川に架かる橋に出ます。

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大蔵稲荷橋です。

大蔵稲荷橋を渡るとすぐ左手に鳥居が…。

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大蔵稲荷一の鳥居です。

鳥居を過ぎて境内へ。すると…。

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庚申塔などが数多く目に入ります。その中にちょっと形の違うものが…。

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ありました。妙見大菩薩の石碑です。

いつ頃のものかは不明です。さらに歩くと…。

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二の鳥居でしょうか。その先はかなり急な石段です。石段を登ります。

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三の鳥居と社殿の覆堂。

厳重に管理されているようです。「吾妻鏡」の弘長元年(1261年)には、大蔵稲荷の辺りが騒がしい云々の記述があり、この稲荷社がそれであるとされています。名前からしても古い稲荷神社と思われますが、どんな意味があるのでしょう?裏は岩壁になっているので廻ってみます。

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やぐらというか洞窟状の穴があり、石の祠が置かれています。

これが本来の大蔵稲荷だったのでしょう。もしかしたら、秦氏系の墓だったのかもしれません。

さて、八雲神社の妙見碑は千葉氏系海上氏の関連と見て間違いなさそうですが、大蔵稲荷の妙見碑は何なのでしょう?うんとこじつければ、秦氏も妙見信仰を持っていたからその関連と言えるかもしれませんが、明確な根拠はありません。

そうした場合は位置関係から考えるのが常道です。八雲神社から大蔵稲荷に向けて線を引くと…、何とぴったり南北ラインになります。

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案内板。線を引いてあるので参照ください。

そしてライン上には頼朝の墓ある法華堂の敷地が…。しかも頼朝は、千葉神社(千葉妙見宮)に参詣しています。

このライン構成は明らかに意識的です。だとすれば、大蔵稲荷の妙見大菩薩碑も海上氏に関連した部分があるのかもしれません。もっとこの南北ラインを延長してみます。南には日蓮が立正安国論を著したことで有名な安国論寺がありました。と言うことで、安国論寺へ。

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安国論寺の解説板。

寺の前の右手に進むと、名越の大黒堂が見えてきます。

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大黒堂境内。小さな祠と言った感じです。左手に庚申塔などがあるような…。

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石碑です。

猿田彦大神・北斗尊星・天鈿女尊とあり、文化5年(1808年)に建てられたものです。200年以上前のものですが、さほど古いとは言えません。猿田彦は道祖神と習合し天鈿女尊は猿田彦の奥さんになります。左右を挟まれて北斗尊星も窮屈そうに見えます。

こちらの北斗尊星は日蓮宗の妙見信仰に関連している可能性もありますが、南北ライン上にあるとなると、やはり海上氏の関連でしょうか?今となっては尋ね得ようもありませんが…。

鎌倉における妙見関連の遺構は以上です。数が少なく時代的に新しいのが特徴です。せめて戦国時代以前のものでもあればと思ってしまいます。

               ―関東平氏の鎌倉 その10に続く―

関東平氏の鎌倉 その8


鎌倉党は頼朝以前の相模国を支配していました。しかし彼らの命運は頼朝の時代にあえなく尽きてしまいます。一方、良文の子孫で長い命脈を保った一族も存在しています。彼らの名を千葉氏と言い、千葉県の地名由来になっていることからも、その繁栄振りが見て取れるでしょう。また分家や支流もただならぬ数となっていました。以下Wikipediaより引用します。

千葉(ちば)氏は、坂東八平氏・関東八屋形の一つに数えられる下総の豪族で、守護大名・戦国大名となった一族である。桓武平氏良文流。通字は「胤」


彼らの系図を見ていきましょう。

良文―忠頼―忠常(千葉氏の祖)…常重―常胤(つねたね)

常重は千葉氏の実質的な初代当主。常胤は頼朝に従い、鎌倉幕府成立後は御家人の筆頭となりました。頼朝の信頼が極めて厚かったと理解できます。彼の生没年は1118年~1201年とこの時代には珍しい80年以上の長寿を全うしています。

千葉氏の一族に特徴的なのは、彼らが妙見信仰を持ち続けたことでしょう。妙見信仰は元々良文の母親が持っていた信仰で、それが時代を越えて一族に伝えられてきたとは、ちょっと驚きです。

妙見信仰は中国の道教における北極星や北斗七星への信仰が日本に入り広まったものです。道教では北極星(北辰)を太一神として崇め、北辰・北斗を神格化したのが鎮宅霊符神で、安倍晴明が北鎌倉で鎮宅霊符を貼った家が後に頼朝の仮住居となりました。仏教にこの信仰が流れ込むと北辰妙見菩薩となり、神道では天御中主神と習合しています。

日本においては道教、陰陽道、密教、神道、仏教(主に日蓮宗)などあらゆる宗教に妙見信仰が見られるのは面白いですね。

千葉氏の信仰の拠点は千葉神社(千葉妙見宮)です。平良文は妙見尊に祈願して戦に勝利していたので、千葉氏は一門の守護神として深く信仰してきました。このため忠常により分霊が祀られ、長保2年(西暦1000年)、『北斗山金剛授寺』という寺号の寺が開山されます。

大治元年(1126)には常重により、千葉城にて祀られていた御尊体を金剛授寺に遷し、ここが千葉氏における妙見信仰の中心となり、その後武家のみならず庶民からの崇敬も集めることになりました。

千葉妙見宮には源頼朝も参詣し、自筆の願文、太刀、武具などを奉納したとされています。また日蓮も参籠し、有難い奇瑞を得たことから、妙見尊を宗門の守護神としました。

千葉氏は鎌倉幕府創設の立役者であり、幕府の筆頭御家人となりました。彼らの屋敷ももちろん鎌倉にあります。例えば日蓮宗の妙隆寺は千葉氏の屋敷跡に建てられたとか。

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妙隆寺の位置を示す案内板。

寺は画像左上。なお案内板は右側が北になっています。案内板は西御門に設置されているもの。

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妙隆寺の解説板。

以上からすれば、鎌倉や藤沢には妙見信仰関連の遺跡が多数あるはず。と思ったら意外に少なくて驚きました。次回はそれらを訪ねてみたいと思います。

               ―関東平氏の鎌倉 その9に続く―

関東平氏の鎌倉 その7


今日は後三年の役で鎌倉に凱旋した後の景政と、彼の子孫たちを見ていきましょう。景政は長治年間(1104年 - 1106年)に相模国高座郡大庭一帯を開拓して、永久4年(1116年)頃伊勢神宮に寄進したそうです。このため一帯は大庭御厨と呼ばれました。大庭御厨に関しては以下Wikipediaより引用します。

大庭御厨(おおばみくりや)は、相模国高座郡の南部(現在の茅ヶ崎市、藤沢市)にあった、寄進型荘園の一つ。鎌倉時代末期には13の郷が存在した相模国最大の御厨(伊勢神宮領)である。大庭御厨は鎌倉景政によって開発された。伊勢神宮に寄進されたが、源義朝の乱入を防ぐことは出来なかった。大庭氏は保元の乱以降、源氏の配下となった。大庭氏は和田合戦で滅亡したが、大庭御厨は三浦氏や北条得宗家の所領として存続した。


景政の子孫に関東平氏五家の一つ大庭氏があり、大庭城に拠って一帯を支配しました。以下は系図ですがこれも諸説あり一定しません。

良文―忠光―忠通―景成―景政―景経―景忠―景義、景親、景久

景忠は大庭氏の祖になります。景義と景親は大庭御厨に乱入した源義朝と従属関係を持ちますが、治承4年(1180年)に頼朝が挙兵すると、景親は鎌倉党として頼朝追討の軍を指揮、頼朝を石橋山の合戦で破ります。一方景義は頼朝に与します。景親は後に頼朝に敗れ処刑されるのですが、景義の子孫が御家人として生き残りました。

全く関係ないのですが、大相撲の決まり手の一つ「河津かけ」は、仇討ちで知られる曽我兄弟の父河津祐泰が景久を投げた技だそうです。

いずれにせよ、大庭一族はそれぞれが生き残り作戦を展開していたのですね。しかしその甲斐もなく、北条氏の時代になると大庭氏はほぼ消滅してしまいます。また鎌倉党(鎌倉氏、梶原氏、長尾氏、大庭氏、俣野氏)も梶原氏を除き頼朝の時代に衰退あるいは消滅しました。(梶原景時は頼朝が死ぬと討ち取られます)

では景政が開拓し、その子孫である大庭氏が城を築いた大庭城址に行ってみましょう。


大きな地図で見る
グーグル画像。

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引地川越しに見た大庭城址全景。

大庭城址公園へは正面入り口ではなく、湘南ライフタウンの入口付近から登り始めます。画像では、舟地蔵と書かれた辺り。

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案内板。

大庭は山あり川ありで、川に沿って海にも出られるため古代人には棲みやすい場所だったようです。

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解説石板。

大庭景親の居城と云ふ 後上杉定正修めて居城せしか 永正九年子朝長の時北条早雲に攻落され是れより北条氏の持城となった云々とあります。随分変転があったのですね。

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大庭城址と彫られた巨石。

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城址は広々とした公園になっています。

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空堀跡。城の遺構として残っています。

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掘立柱建物址

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解説板。

相模国を駆け巡った鎌倉権五郎景政は、大治5年(1130年)57歳で死去します。最後の場所は鎌倉の甘縄だったとか…。

              ―関東平氏の鎌倉 その8に続く―

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