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鎌倉の谷戸を巡る その20


今回は長谷方面です。これも実は極楽寺周辺を訪問した際に行ったものです。鎌倉は狭いので、一回であちこち違ったエリアを見られるというメリットがあります。
最寄り駅は江ノ電長谷駅。鎌倉文学館(旧前田別邸)を目指します。このルートは谷戸巡りというより建物探訪とした方が適切かもしれません。由比ヶ浜大通りに沿って、出桁造りの古い民家が5~6棟見られますし、洋館建築も鎌倉文学館を含め3棟ほど現存しているからです。ただ、車が頻繁に通りますので、通り沿いの家を写真に収めるのは至難の業と言えましょう。

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由比ヶ浜大通りにある安齋商店です。

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解説板。

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加賀谷邸です。

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解説板。

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長谷子供会館です。

子供会館に関し神奈川県のホームページより抜粋。

明治41年に建てられた東京日本橋の実業家、福島浪蔵の別荘。大正10年頃から二代目諸戸清六の所有するところとなる(秦野に山林をつくった三重県桑名出身の豪商は初代の諸戸清六)。それ以後、この洋館は「諸戸の洋館」と呼びならわされて来た。外観は18世紀のイギリスの建築家アダム兄弟に因むアダム様式(イギリスのロココに相当)を思わせるほど華麗。円柱の柱身とアーキトレーヴ(柱の上の水平材)に施された花模様、アーキトレーヴの上のフリーズに付けられた円形飾り(バテーラ)窓台の下の沼巻き模様(コンソール)、ドアの額縁の花綱飾り、そしてレース状細工のバルコニーの手すりである。明治の華やかさと優雅さを如実に示す。

なお桑名には豪壮な旧諸戸邸があり、一見の価値があります。ついでに、少々お高いですが、料亭の船津屋で桑名の蛤などご賞味されるといいですね。ここの蛤の食感は他では味わえません。

鎌倉文学館の敷地に入ります。

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解説板です。

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副門です。

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久しぶりの隧道です。なかなか良いですねえ~。

アプローチを覆うように木が茂り、吹き抜ける風は涼やかで、流れる汗も引いていきます。

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車寄せ。

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外観。

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位置を変えてもう一枚。

鎌倉文学館は鎌倉で最も有名な洋館で、14世紀の英国チューダ様式を模したハーフティンバーの建物です。

ハーフティンバー:木造骨組を外部に出し、骨組みの間を石やレンガで埋めています。その様式から、木骨様式、とも呼ばれています。

テラスに出て椅子に腰をかけ海を眺めます。

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テラスからの眺望。

ちょっと三島由紀夫になった気分です。ここは彼の著作『春の雪』の207ページにおいて、終南別業として、極めて緻密な文学的表現で描写されています。広大な芝生の庭が建物前面に広がっていますが、山に囲まれた谷戸に立地するせいか、あるいは庭全体が前に向かって傾斜しているせいか、視界に狭さを感じさせます。また視線の先にはマンションと思しき建物が数棟立ち並び、海の景観を損ねています。三島の時代とは違っていますね。

            -鎌倉の谷戸を巡る その21に続く-

鎌倉の谷戸を巡る その19


今回は今泉の谷戸を巡ります。と言っても、本郷台に行ったついでに立ち寄ったものですが・・・。今泉の谷戸は非常に奥が深く、道の両側は山が迫っています。しかし見るべきものはなさそうなので、谷戸を進むとやがてどん詰まりに行き着きます。そこにあるのが、鎌倉の今泉不動として有名な浄土宗の今泉山一心院称名寺です。

お寺の手前には今泉清掃事務所があります。巨大な塔(煙は見えませんが、煙突でしょうか)が山のずっと上にまで飛び出しています。

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巨大な塔。

山と比較してあまりの巨大さに違和感を覚えながら、お寺への坂を登っていきます。さすがに鎌倉の奥座敷というか裏座敷。山深い雰囲気ではあります。お寺の前を抜け、陰陽の滝へ。

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滝です。

季節柄水量も多く、深山幽谷の気配があります。しかし、ここからは見えませんが、裏手にはゴルフ場が・・・。

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今泉不動への石段です。すり減っていますね。

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石段の踊り場から見たお寺。

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石段を上り見下ろすと、かなりの急傾斜です。

不動尊の裏手には三十六童子の像が。

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三十六童子の写真。

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もう一枚。

        ―鎌倉の谷戸を巡る その20に続く―

鎌倉の谷戸を巡る その18


鎌倉の地名由来の項と同じルートで『鎌倉の谷戸を巡る』を書いてみます。一粒で二度おいしいですね(笑)

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御霊神社への参道角にある力餅屋さんです。江戸時代創業の老舗とか。

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自宅側のポストがアジサイに囲まれ、いかにも鎌倉らしい。

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江ノ電の定番スポット。御霊神社の前から。

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もう一枚。

ところで、鎌倉の地名由来で由井の民は産鉄・鍛冶集団と書きましたが、秦氏とは断定しませんでした。秦氏は、土木建築、養蚕、機織り、猿楽や伎楽などの芸能、醸造、陰陽道、鉱山、仏教などあらゆる分野に係わっており、正に古代の総合商社の感があります。従って、産鉄や鍛冶に一定の関与はあるとしても、それを専業とする専門商社ではないでしょう。

御霊神社の面掛行列からも、それが窺えます。この行列には秦氏系の伎楽面だけでなく、火吹き男(ひょっとこ)が登場します。実物は見ているのですが写真撮影禁止なので、残念ながら写真でご紹介できません。

しかしひょっとこ面は、誰でも一度は見ているはずで、幾つかの特徴があります。まず、そのほとんどが口をすぼめていることです。タタラ以前の原始的な製鉄においては、火男(ひょっとこ)が火吹き筒を吹いて送風していました。ひょっとこの口をすぼめた面には、より古い製鉄の姿が投影されていたのです。

もう一点の特徴は、多くの場合面の片方の目が閉じられていることです。これは溶鉱炉の温度変化を見るため、一方の目を瞑り片方で炉の穴を見ていること、あるいは、このような作業を続けることで目を痛め、片方を失うことに由来しています。

以上より、面掛行列には秦氏系の要素と産鉄系の要素の両方が入っていることになります。産鉄系の要素が入ったのは、御霊神社の所在位置が由井の里に非常に近いこと、また秦氏系と産鉄系の間には一定の関係があったことによると思われます。

御霊神社の祭神鎌倉権五郎景政は奥州戦において右目を射られます。彼が傷ついた目を洗ったところ、そこに棲む魚が片方の目を失ったという伝説があります。この話が産鉄民と結びついて、権五郎は産鉄民が祀る神になったのでしょう。

『古事記』の天の石屋戸の段では、天の金山の鐡を取りて、鍛人天津麻羅(かぬちあまつまら)を求ぎて、云々と鍛冶に関する記述が出てきます。

また『先代旧事記』天孫降臨の段では、物部造等の祖、天津麻良(あまつまら)と記載あることから、産鉄・鍛冶集団は物部氏系と考えられます。ただここまで時代が下ると、秦氏も同様ですが、どの職能はどの氏族と言った区分けができにくいのでは、とも思います。

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虚空蔵堂の旗です。

お堂の横には星月夜の井というロマンティックな名前の井戸があります。解説板には行基は井戸から出てきた光り輝く石を虚空蔵菩薩の化身と思い云々とあります。

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井戸の解説板。

行基は何を見たのか考えてみたいと思います。虚空蔵堂の解説板では、星月井に明るく輝く明星の光が移る云々とあります。光る石だの星だの明星だのとくれば、北斗七星の妙見信仰や北辰信仰が入り込んでいるに違いありません。虚空蔵堂では道教、陰陽道、仏教などがごった煮状態なのでしょう。ただ、信仰心が強いと、自分が見たいと念じたものが見えてしまうというのはありそうです。行基の場合はそういったケースだとしておきます。

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成就院から見下ろす由比ヶ浜。この季節定番の光景です。

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稲村ケ崎の断崖。手前には大量の海藻が。

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稲村ケ崎の洞窟。波の力で自然にできたものではなさそう。奥が深いです。

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こちらと繋がっているのでしょうか?

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これは砲台の跡?

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極楽寺駅と江ノ電。

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極楽寺川上流部。

谷戸巡りではなく、観光案内みたいになってしまいました(笑)。

           -鎌倉の谷戸を巡る その19に続く-

鎌倉の谷戸を巡る その17


今回は鎌倉中央公園の谷戸を巡ります。いわゆる鎌倉の観光地から見ると裏側(北鎌倉駅の山を越えた東側)になりますし、車がないとかなり不便なので、遠隔地からの観光客はまず足を延ばさないエリアだと思われます。駐車場は32台分で、駐車には事前に―土、日は特に―予約しておく必要があります。

初夏の深い緑の中を歩くのはちょっとした森林浴気分。ウグイスやコジュケイの鳴き声もすぐ近くで聞こえ、家族で散歩するには絶好の環境と言えます。公園内には池のある池之谷、田んぼが作られている小段谷戸、東谷など三つの谷戸があり、一応の谷戸風景にはなっています。

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公園の案内板。

しかし、これって谷戸なの?とすぐに疑問の声が湧いてきます。あまりにも整備され、管理された場所はその名の通り公園に過ぎないからです。

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公園内の谷戸池風景。

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水田と谷戸。

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谷戸をもう一枚。

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しし石(獅子石)です。

確かに巨大な獅子が口を開けているようにも見受けられます。ここは公園の北端から外に出た場所なのですが、実は北に向かって開けた谷戸のどん詰まり近くに位置しています。30数年前北側からこの谷戸に入ったことがあるのですが、その頃は道も舗装されておらず、田畑と小川のせせらぎがあるのみで、童謡を口ずさみたくなるような里山の風情を残していました。

ところが現在は、谷戸の最奥部まで住宅が建ち、のどかな風情はきれいさっぱり消え失せています。莫大な金をかけて公園を整備するより、この素晴らしい里山と谷戸景観をそのまま保存すべきであったのにそうなってはいません。後世に残すべき遺産を破壊しておいて、鎌倉を世界遺産に登録申請しても、受け付けられるはずがないと思います。

中央公園に行く途中の深沢小学校横には御霊神社があります。

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神社の解説石板。

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神社の拝殿?(建物の形式は舞殿のようです)

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舞殿横のやぐら。

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やぐらのある崖の全景。

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五輪塔。色調整してみました。

五輪は古代インドにおける宇宙の五大要素を示し、塔の一番下にある方形は地輪で、上に向かって順に水輪、火輪、風輪、空輪と言っています。全宇宙をこの塔の中に凝縮しているのですから、心して拝しましょう。また五輪塔は真言密教空海の影響が強いようですが、空海は本当にあちこちで顔を出しますね。

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神社の本殿。

本殿は山腹の鎌倉砂岩を切り下げて建てられています。

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本殿横手の切り下げられた崖。

崖をよく見ると、犬と木という文字が刻まれています。いたずら書きでこのような文字を刻むことはなさそうですし、かなり以前に刻まれたように見受けられます。ひょっとしたら江戸時代頃の落書きとか・・・。もし鎌倉時代のものなら文化的価値も出るでしょう。時代が特定できると面白いですね。ちなみに、カンボジアのアンコールワットには1600年代の日本人の落書きがあります。

          ―鎌倉の谷戸を巡る その18に続く―

鎌倉の谷戸を巡る その16


この項は、その15の補足です。前回で、頼朝の子を孕んだ里の娘について書いたのですが、実はこの件を深く突っ込むといわゆる差別問題に踏み込んでしまうため、やや腰が引け、詳しくはご紹介できませんでした。ですが差別問題を取り上げる意図は全くないので、気を取り直しもう少し詳しく書いてみます。

頼朝が出会った娘は畑で菜の花を摘んでいたところを見染められたため、菜摘御前の名があります。この娘の父親(子供かもしれませんが、判然としません)が鎌倉藤沢弾左衛門別名藤原頼兼という人物になります。

時代は江戸時代に飛びますが、弾左衛門の子孫(を自称する)浅草弾左衛門は享保年間に幕府に対してある文書を提出します。それが「弾左衛門由緒書」と「頼朝公御証文写」です。

「頼朝公御証文写」には鎌倉藤沢弾左衛門が支配権を持つ職種が書かれており、その中には猿楽、陰陽師、傀儡師、鋳物師、鉦叩など平安期以降の秦氏が担った職能と考えられるものも含まれています。これは偽書であるとされているのですが、少なくとも鎌倉時代佐助ガ谷にいた集団は上記の職能を持っていたとの印象が江戸時代に下ってもあったことは否定できません。とすれば、佐助ガ谷の集団は秦氏の流れをくむ者たちであったとする傍証にはなり得るでしょう。

「弾左衛門由緒書」には自家の歴史、被差別民に対して支配権を持つ由来、いきさつなどが書かれていますがここでは触れません。

また「江戸 官鑰秘鑑」には浅草弾左衛門の先祖は秦武虎という人物であると記されているそうです。(原文を確認してはおりません)これも江戸時代のもので真偽のほどは明らかではありませんが、佐助ガ谷の特殊技能集団に関連して秦氏の名前が挙っている点は注目に値するでしょう。

鎌倉時代の弾左衛門が江戸享保期の弾左衛門と直接繋がることはないと思いますが、両者の支配する職種が同じである点は見逃せないはずです。秦氏は平安初期に自ら姿を消し、鎌倉期には隠れ里から権力中枢に一定の影響を与え、戦国期には道々の者として日本全国を往来していたのかもしれません。それが江戸期においては身分制度の固定化によって特殊な位置に付いてしまったのでしょう。

なお、酔石亭主は引き続き秦氏を取り上げていくつもりですが、今後は基本的に平安期までの秦氏に区切りたいと思います。それ以降の秦氏は姿が変容していますので、別の存在と捉えた方がいいのではないかという気もしているからです。

              -鎌倉の谷戸を巡る その17に続く-
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