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大磯・高麗山の秦氏 その10

大磯・高麗山の秦氏
05 /10 2012


白岩神社に入ろうと思ったのですが、参道の左手にまたも超立派なお屋敷がありこちらを先に見ることに…。

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お屋敷の門。

とても個人の邸宅とは思えない豪壮な雰囲気です。敷地内には六義園レベルの見事な枝垂桜が…。

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枝垂桜です。

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もう一枚。

写真では雰囲気がわからないのですが、奥の枝垂桜が素晴らしい。(勝手に撮影してごめんなさい)ようやく神社に入ります。

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鳥居。

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参道。桜並木の奥に石段があり見事な構成となっています。

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石段の下から見上げた社殿。

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社殿です。

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白岩神社と書かれた扁額。

実は白岩神社の名前から磐座(いわくら)信仰すなわち巨石信仰があるのではと思っていました。だとすれば、巨石が社の背後に鎮座しているはずです。神社の解説板にもそれを思わせる記述が…。

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解説板。曽我五郎足跡石なるものがあると書かれています。

秦氏の伏見稲荷大社の背後にそびえる稲荷山には数多くの磐座があります。そして伏見稲荷大社と同様に白岩神社の背後にも磐座がありそうです。白岩神社の祭神は伏見稲荷大社の祭神と同じです。この相似性は面白いですね。

             ―大磯・高麗山の秦氏 その11に続く―

大磯・高麗山の秦氏 その9

大磯・高麗山の秦氏
05 /05 2012

国道一号線脇に宇賀神社を示す石碑が立っています。

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石碑。

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神社の鳥居です。

国道が高い位置にあるので、木の小さな鳥居が低い位置に並び面白い絵柄となっています。

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鳥居越しの社殿。

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社殿内部。

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宇賀神らしい蛇の彫り物もありました。

宇賀神社の所在地は神奈川県中郡大磯町西小磯11。 祭神は大食津姫命です。養老元年(717年)以前の創建とされ祭神は大御食津姫命です。大御食津姫命は伊勢神宮外宮豊受姫大神の異名同神であり、宇賀の名前から理解されるように、伏見稲荷大社の主祭神である宇迦之御魂大神とも同神です。それは鳥居越しの社殿前に狐が控えることからも明らかですし、幾つもの鳥居が並ぶさまは稲荷神社の特徴と同じです。(宇賀神は中世以降様々な要素が混入してしまい、保食神、稲荷神、蛇神を始めとした多くの神格があって分析しにくい神様です)

この神社には以下のような実に奇妙なタブーがあります。

相模国府祭に参集の為渡幸の神輿は宇賀神社の前を遠ざかりて通るを例とせしと。又御神体は蛇体に現われ邪魔せしものとも云い伝う

「大磯の今昔一」によれば以下の通りです。

昔国府祭(こうのまち)の時、一宮・四宮・八幡さんのおみこしは宇賀神さんの裏の道を通った。小磯の人達は、宇賀神さんの神格が高いので他の神様は前を通る事が出来なかったのだと言い伝へ、他所の人達は、宇賀神さんはままっ子の神様だから前を通るとやきもちをやかれ、あたをされるから前は通らないのだ、と言い伝へる。其ののち前を通るようになった時代のこと、国府祭からのかえりに、宇賀神さんの前にさしかかった時には提灯の火を消し、一同息をひそめて通り、通りすぎたとたん「わーっ」と歓声をあげたと言う。

文面からは強烈な忌避感情が読み取れます。つまりこの神社は忌避すべき存在(タブー)であったと思われるのです。

相模国府祭は寒川神社や川勾神社など相模国六社が大磯の国府本郷にある神揃山に参集する祭りで、その意味では相模国における最も重要な祭りと考えられます。由来は大化の改新以前に遡ります。当時の神奈川は大磯町より東が相武(さがむ)、西は磯長(しなが)の二つの国があって、その二つが合併して相模国となりました。

合併に当たり、相武の寒川神社、磯長の川勾神社のどちらをトップの神社にするかでもめ事となったのですが、国府祭はそのもめ事の様子と解決を今に伝える祭礼なのです。つまり相模国の最重要神社群が宇賀神社を忌避しているのです。山本ひろ子著「異神 下」(ちくま学芸文庫)の宇賀神の章を読み直してみましたが、同様のケースは見当たりません。とても妙ですね。

仮に宇賀神社が秦氏の神社であるとすれば、この奇妙さは納得できます。日本人を呪縛した秦氏は、日本人にとって神として崇める存在であり、同時に恐ろしい忌避すべき存在でもあるのです。つまりタブーの両価性として理解できるのです。ただ宇賀神社の由緒にも、その他の伝承にも秦氏の関連を窺わせるものはありません。他の可能性を探ります。

高麗山には大蛇伝説があって、ときどき高麗山を下り、高麗寺村の村人をびっくりさせたなどと言う民話が伝わっていました。宇賀神社の蛇と対応しそうな気もします。あるいは産鉄民と農民との争いを象徴する八岐大蛇伝説に似通った話なのでしょうか?まあ、宇賀神社のタブーの根源は不明として、白岩神社に向かいましょう。


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宇賀神社と白岩神社を示すグーグル地図画像。

神社脇の道路を北に向かいJRを越えた先の交差点を左折します。そして右折すれば神社の参道が見えてきます。参道の手前には随分と豪壮な邸宅があります。表札を拝見すると、驚いたことに波多野さんでした。

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表札。

神社の手前を守るように屋敷を構えておられるなら、やはり秦氏が改名された方なのでしょう。だとすれば、白岩神社に関係されるお方のはずです。図書館で調べてみると、ありました。

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本のコピー。

神社の社人は11軒でヒガシの波多野正之家とあります。正しくこの方は白岩神社の関係者だったのです。これは酔石亭主の想像ですが、先ほど訪問した宇賀神社は白岩神社の里宮で白石神社は奥宮と言った関係にあるのではと思っています。理由は以下の通りです。

宇賀神社の祭神は大御食津姫命であり、この神は豊受大神や宇迦之御魂大神と同神とされています。一方白岩神社の祭神は若宇加能売命。若宇加能売命は大和の廣瀬大社より勧請された神ですが、同社の由緒によれば、若宇加能売命は伊勢神宮外宮の豊宇気比売大神、伏見稲荷大社の宇加之御魂神と同神であるとされているのです。

以上から宇賀神社と白岩神社は別個の存在ではなく、関連していると判断されます。また相模国国府祭において神輿は「宇賀神社の前を遠ざかりて通る」ことになっています。白岩神社に対しても同様の忌避感情が見られます。内容は解説板を参照ください。

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白岩神社解説板 その1。

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その2。

由緒には、「付近を通る人が落馬したり災難が降りかかるため現在の場所に社を移し」とあります。解説板の内容から明確な忌避感情が見て取れます。宇賀神社と白岩神社の両社にタブーがあるとすれば、神社の祭祀あるいは背後の山に人を踏みこませないためのタブーが存在していることになります。

さて社人の一人として波多野家があり、この方が秦氏の流れだとすれば、神奈川県における波多野姓の分布を見る必要があります。もし大磯に波多野姓が多いなら、それは大磯に上陸した秦氏の流れと判断できるからです。

そこで神奈川県における波多野姓を見ていきます。県全体が214人で海老名市は21人とトップでした。ちょっと残念と思ったのですが、何と大磯町と平塚市が各12人で続いています。人口3万人強の大磯が26万人の平塚市と同数の波多野姓があると言うことは、かなり密度が高いことになります。

また大磯と平塚は接していますので両市を合わせれば県内トップの数字となります。この結果から、宇賀神社と白岩神社には秦氏の関与があると推定されます。

なお関東における波多野姓は旧東海道沿いにあった大磯の波多野本家をルーツとしているようです。大磯本家はかつて網元で、大磯の大地主でした。久我山の秦氏が同地の大地主であるのと同じですね。

ここで大磯の波多野氏について、波多野盆地一帯に勢力を持った波多野氏との関係を見ていきます。波多野氏に関しては以下Wikipediaより引用します。

前九年の役で活躍した佐伯経範が祖とされ、河内源氏の源頼義の家人として仕えていた。経範の父・佐伯経資が頼義の相模守補任に際して、その目代となって相模国へ下向したのが波多野氏の起こりと考えられている。経範の妻は藤原秀郷流藤原氏で、のちに波多野氏は佐伯氏から藤原氏に改め、藤原秀郷流を称している。秦野盆地一帯に勢力を張り、河村郷・松田郷・大友郷などの郷に一族を配した。

上記から理解できるように佐伯経資は相模国に下向して波多野氏になりました。秦野の地に入ったから波多野氏になったのです。この波多野氏は、秦氏系と思われる大磯の波多野氏とは別の流れと考えられます。(注:大磯の波多野家の祖先がどうなっているのかは調べていないので、秦氏系かどうかまだ確定できていません)

               ―大磯・高麗山の秦氏 その10に続く―

大磯・高麗山の秦氏 その8

大磯・高麗山の秦氏
05 /03 2012

前回は慶覚院の千手観音像に関する考察で終わってしまいました。実は、秦氏と直接関係がなかったので、「その7」にてあまり検討しなかった内容があります。大悲像や五大尊が秦の始皇帝の元に伝来した際の状況についてです。「宝蓮寺縁起」にはおおよそ以下のように書かれています。

始皇帝29年、沙門室利(梵語で吉祥)ら十八人がインドから震旦(中国を意味する)に来た。舎利梵夾等の仏、宝物、閻浮檀金の大悲像、五大尊、金剛力神等の秘仏を持ち来たった。

この話どこかで読んだような気がしてならず、手許にある「今昔物語集 天竺・震旦部」(岩波文庫、物語は平安時代末期の1120年代以降成立)を開いてみました。すると、「震旦の秦の始皇の時に、天竺の僧渡れる語 第一」と言うタイトルで以下の記述を発見。

今昔、震旦の秦の始皇の時に、天竺より僧渡れり。名を釈の利房と云ふ。十八人の賢者を具せり。亦、法文・聖教を持て来たり。

利房は「仏祖統紀」によると室利となっていますので、人物・人数ともに同じです。なるほど、「宝蓮寺縁起」の元ネタは比較的ポピュラーな「今昔物語集」だったのです。これに秦氏を関連付け、脚色して縁起が創作されたと理解されます。もっと古い元ネタがどこかにあるのでしょうが、どなたか知っておられたら教えて頂きたいと思います。

「今昔物語集」によると、彼らは法文・聖教を持って来ただけで、大悲像も五大尊も出てきません。それもそのはず、始皇帝は紀元前259年 ~ 紀元前210年の人物であり、一方ヘレニズムの影響で仏像が製作されるようになったのはクシャーナ朝からで、どんなに早くても紀元1世紀前半となってしまいます。

利房がありもしない大悲像や五大尊を秦に持ち込むなんて不可能で、この部分に関する「宝蓮寺縁起」の記述は全くの作り話と断言できるでしょう。まあ、伝説はとかくそんなものですが…。

結局、弓月君の渡来は事実に近いとしても、大悲像と五大尊が日本に渡来するまでのストーリーは創作で、百済王から献上された千手観音像を聖徳太子が秦川勝に下賜して秦楽寺に安置したあたりから事実を反映しているように思えます。この部分は弥勒菩薩像が聖徳太子から秦川勝に下賜され、蜂岡寺(現在の広隆寺)に安置された話とほとんど同じなので、信憑性が高いと考えられるからです。(注:「日本書記」には尊い仏像とあるのみで、弥勒菩薩像とは記載されていません)

なお「宝蓮寺縁起」によれば、室利たちは始皇帝に殺されそうになり、徐福によって助けられたとされます。一方「今昔物語」では、始皇帝が風体の怪しい室利たちを尋問し投獄してしまいます。しかし利房が祈るとあら不思議、丈六(4.8m)のお釈迦さまが紫磨黄金の光を放って虚空に出現し、獄門を打ち破って彼らを救出するのです。

お釈迦様が「宝蓮寺縁起」になると徐福に変えられているのは、多分徐福系秦氏の影響でしょう。あれこれ比較検討してみると実に面白いですね。

それはさて置き、慶覚院のあたりはかつて前田と言う地名だったそうです。そして前田には古い製鉄場の跡らしき場所があったとされています。湘南海岸あるいは金目川の砂鉄を採集して製鉄していたのでしょうか?

高麗山には鍛冶に関係する白山権現もありますので、海岸或いは川で砂鉄を採集(産鉄)し、前田で製鉄して、それを付近の鍛冶場で鉄製品にしたと言うイメージが湧いてきました。(あくまで想像ですが…)

上記から、金目川の名前は鉄絡みだった可能性も出てきますね。酔石亭主としては川の河口が唐ヶ原で海岸が唐ヶ浜だった関係から、金目川の元の名前が唐川で、鉄との絡みで金目川に変わったのではと勝手に想像しています。

であれば、唐川→神奈川が神奈川県の地名由来になるのかもしれません。神奈川の神奈は神奈備(神のいるところ)の神奈です。神である秦氏(神も秦も字音は同じシン)の重要な移動経路が金目川だったので、そう考えるとふさわしそうな気もします。高麗若光は鍛冶の技術を持ち込んだとされるので、若光の渡来以降唐川が金目川に変わったとも考えられます。

与太話はほどほどにして、JR大磯駅の西側に向かいます。ちょっと気になる神社が2社鎮座しているからです。社名は宇賀神社と白岩神社。


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両神社の位置を示すグーグル地図画像。

車を止めるのは難しそうな場所なので今回は電車を利用しました。

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大磯駅からの光景。

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もう1枚。

大磯は戦前・戦後に活躍した政財界の著名人の別荘地として有名ですが、悲しい恋の物語が語り継がれる地でもあります。内容は次のようなものです。

大磯駅の裏山で昭和7年(1932年)5月9日若い男女の心中遺体が発見されました。男は調所男爵家の一族で慶大生の調所五郎、女は静岡県の素封家の三女・湯山八重子でした。彼らは写五郎が写真の現像液に使っていた塩化第二水銀で自殺したのです。大磯駅から撮影した写真の山が事件のあった場所のようです。

二人の心中事件はセンセーショナルに取り上げられ「坂田山心中」と呼ばれました。(実際の山の名は八郎山だそうです)一ヶ月後には松竹がこの事件を題材として「天国に結ぶ恋」を製作し封切ります。映画は大ヒットだったとか。

ここで気になるのが、二人が服毒自殺した水銀です。もうご存知のように水銀は死と再生の象徴とされます。永遠の命を願う始皇帝の墓には100本もの水銀の川があるのが発見されたそうです。もちろん秦氏にとっても水銀は死と再生の象徴として重要なものでした。二人は再生し次の世で結ばれることを願い、水銀を飲んだのかもしれません。

もし彼らが天国ではなくこの世で結ばれて、妊娠し子供ができたら、当時のマスコミに取り上げられることもなかったでしょう。そう思って妊娠と言う文字を見ると秦氏に関係がありそうに思えてきました。妊娠の娠の旁(つくり)は辰で音のシンは秦に繋がります。また辰は水銀の原料である辰砂の辰であり、妊の旁である壬は壬生(=丹生)の壬であり、丹生はこれまた水銀の原料を意味しています。

そう、妊娠は死と再生の再生部分を担っているため、水銀と関係のある文字が選ばれたのです。普段目にする文字にも、背後に深い意味が隠されているとは本当に不思議ですね。

また与太話的になってしまいました…。駅から国道一号線方面に坂を下ります。

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大磯らしい洋館です。ずっと以前にここで食事をしたことがあります。

国道1号線に入り少し歩くと延台寺があります。このお寺には曽我兄弟に関係する虎御前の供養塔などがあります。寺の始まりは曾我十郎の彼女だった虎御前が曽我兄弟の菩提を弔って建てた庵だとか。


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延台寺を示すグーグル地図画像。

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供養塔。

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大磯宿遊女の墓。藤沢にも同じような墓があります。

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出桁造りのお店。

さらに歩くと茅葺の屋根が見えてきます。鴨立庵です。近くには一般的に秦氏との関連が想定される白山神社もあります。


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鴨立庵の位置を示すグーグル地図画像。

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鴨立庵です。

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解説板。やや読みにくいので以下記載します。

鴫立庵(しぎたつあん)
寛文4年(1664年)小田原の崇雪がこの地に五智如来像を運び、西行寺を作る目的で草庵を結んだのが始まりで、元禄8年(1695年)俳人の大淀三千風が入庵し鴫立庵と名付け、第一世庵主となりました。現在では、京都の落柿舎・滋賀の無名庵とともに日本三大俳諧道場の一つといわれています。崇雪が草庵を結んだ時に鴫立沢の標石を建てたが、その標石に”著盡湘南清絶地”と刻まれていることから、湘南発祥の地として注目を浴びています。
こころなき 身にもあはれは 知られけり 鴫立沢の 秋の夕暮  (西行法師)
 

ここにも五智如来像が出てきます。蓑毛大日堂の五智如来像と何か見えない繋がりでもあるのでしょうか?ちょっと不思議ですね。

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出桁造りのお店。カレーダイニングカフェらしいのですが。

もう少しこの手の建物が多いと東海道の雰囲気も増すのですが仕方ないですね。お店の確か向かい側だったと思いますが、趣のある門が…。

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門。

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翠渓荘と言うお店らしいのですが、元は企業の施設だったようです。

などと思いながら歩いていると、ようやく有名な大磯の松並木が現れました。

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松並木。

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松の巨木。

松並木を抜けると宇賀神社が今は閉鎖された滄浪閣(そうろうかく)の向かいに見えてきます。なお滄浪閣は、1890年に建てられた伊藤博文の別邸です。

秦氏とはほとんど関係のない大磯散歩記事で終わってしまいました。

                 ―大磯・高麗山の秦氏 その9に続く―

大磯・高麗山の秦氏 その7

大磯・高麗山の秦氏
05 /01 2012

高麗山をぐるりと回れば元の出発点に戻ることになります。出発点で慶覚院に設置された千手観音像の解説板を再び見た瞬間、突然脳裏に何かが浮かびました。あたかも天啓のようにある考えが閃いたのです。「千手観音像に関して重要な点が漏れている」、そんな声が聞こえたような気もした。これぞ秦の神のお導き。お導きに従って再度検討を進めるしかありません。まずは、「その3」で一部分しか書かなかった木遣「観音様」の全文から…。

応神天皇十五代の御時より、大磯浦のかつぎ舟、商の漁に出でかけるが、不思議や海中光有、渦巻く波の中よりも、小鮹一ツ泳ぎ来て、かつぎの舟に近付きて、乗るよと見えし不思議やな、鮹ではあらん舟のへに、千手千観の観世音、光妙輝き立給ふ、舟の者共伏せ拝み、そのまま水際に舟はよせ、盛奉る、拝みあげ、仮屋をしつらえ、経を読み、くせんくんじゅうなし給い、鮹の光りし浦なれば、かつぎおば、鮹井の上浦おば、照ケ崎とは此れを云ふなり

いつものように書き誤りがあるかもしれませんがご了承ください。内容自体は簡単で第15代応神天皇の御代に大磯浦の漁船が漁に出たところ、海中から光があり小蛸が泳いできた。蛸が舟に乗ると思ったら、それが千手観音だったので、舟の者は皆伏して拝み、仮屋をしつらえたと言うものです。

千手観音の出現と、「その3」で書いた木遣「権現丸」における権現様(秦氏)の出現はほとんど同じ形となっています。では、千手観音の由来が酔石亭主の中でどう閃いたのでしょう?

話は急に秦野まで飛びます。「相模国の秦氏 その6」においてヤビツ峠に行く途中にある蓑毛の大日堂を取り上げました。(読み返してみるとあまりにも内容が薄く冷や汗が出ます)大日堂には秦川勝に関連する石碑があり、以下のように彫られています。

応神天皇十五甲辰年自唐土秦苗裔 
守護来而安當山彼又住故名称里於
秦後孫秦川勝再加力云云


大体の意味は、応神天皇十五甲辰年に秦の遠い子孫が唐土から渡来し、当山を安んじて守護し、ここに住んだのでこの里の名を秦と称した。後の子孫秦川勝、と言ったところです。

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秦川勝の石碑

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石碑の一部分。秦川勝の名前が判読できます。

「その1」にて書いたように、金目川の源流は秦野市蓑毛の大山南斜面となっています。すなわち、千手観音像が出現した大磯と秦川勝の石碑がある大日堂は金目川で直結しているのです。だとすれば、両者に何らかの関連・繋がりがあると見ていいでしょう。でも、どんな繋がりが…。それを見ていきます。


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大日堂の位置を示すグーグル地図画像。金目川の最上流部にあると確認できます。

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大日堂の仁王門。

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大日堂。

さて、この大日堂を管理していたのが大日堂の車道を挟んで反対側にある宝蓮寺です。そして宝蓮寺には「宝蓮寺縁起」と言う寺の縁起が伝わっていました。「秦野市史第一巻古代・中世寺社史料」にその内容が記されていますが、長文でしかも漢文で書かれているため、関連する部分のみを抜粋して書き下してみます。(前田豊著「徐福王国相模」彩流社にも出ているのでこちらも参照ください)

後秦の始皇帝の子孫が大日本国応神天皇十五年甲辰に仏の宝物・閻浮檀金の大悲像(=千手観音像、大悲観音は千手観音の異称)・五大尊を守護しながら、秦の苗裔(子孫)として日本に渡来した。彼らは山城国葛野郡に居住し天皇に奏聞した。応神天皇は尊像を霊山に安置し守護するよう命じたので、秦の苗裔は東国に下向し千手観音像を駿河の国・有度山の杉の上に置いた。

尊像はその後、久能の霊夢により世に顕れた。五大尊は相模の国・足柄上郡に安置され彼らは相州に居住した。よってその地を秦(秦野のこと)と言う。これは山城国に始めて居住し奏聞した場所が太秦だったからである。尊像は大変なご利益があり推古天皇の時代には貴賎が市をなした。これは聖徳太子のブレーンである秦川勝の力によるものである。秦川勝は大和の国の初瀬川より流れ来たと言う伝説を持っている。欽明天皇の時代に当たる。五大尊の由来はおおよそこうしたものである。


いかがでしょう?出だしの応神天皇は大磯の千手観音像の由来と同じです。大磯における千手観音の由来は、高麗人の渡来ではなく秦氏の渡来を反映していたと理解されます。さらに、始皇帝の子孫が応神天皇15年に渡来した云々は、秦氏の祖である弓月君の渡来が反映されています。

(注:「新撰姓氏録」の左京には、「秦造 始皇帝五世孫融通王(=弓月王)之後也」とあり、弓月君が始皇帝の子孫であると記載されています。「日本書記」によれば、弓月君は応神天皇14年に渡来し、弓月君の民は16年に渡来しています)

また大日堂境内にある秦川勝の石碑は、宝蓮寺の縁起がベースになっているとわかります。

そして、秦氏は東国に下向し千手観音像を駿河の国・有度山の杉の上に置き、尊像は久能の霊夢により世に顕れました。五大尊はその後相模国の足柄上郡(秦野市の蓑毛大日堂)に安置され、秦氏は相模国に居住したのです。

宝蓮寺の縁起では駿河国有度山から秦野に飛んでいますが、唐子さんが大磯に上陸し秦野に移住したとする伝承(岩田達治著「丹沢山麓 秦野の伝説」)から、大磯を経由したと考えるのが自然です。詳しくはWikipediaを参照ください。


すなわち弓月君が大悲像(=千手観音像)や五大尊を日本に持ち込み、子孫は山城国に居住した。山城国の秦氏は東国に移動した。彼らは駿河国有度山に千手観音像を安置し、続いて大磯に移住。その結果、大磯浦に千手観音像が出現したとなります。

以上の経緯から、この駿河国有度山と大磯の千手観音像は実は同じものであると推定されるのです。駿河国有度山の千手観音は現在静岡市清水区の鉄舟寺にあり、大磯の千手観音は慶覚院にあり二体の千手観音像は別のものと思われますが、これらはそれぞれの伝承に基づき後代になって造られたものです。よって現在は二体となっている千手観音像も、本来は同じものであったのです。

慶覚院にある千手観音像から酔石亭主の脳裏に閃いたのは、この像の動きから秦氏の移動経路が復元できるのではないか、と言うものでした。もちろん、秦野市蓑毛の大日堂、静岡市清水区の鉄舟寺や久能山を既に訪問していたから、別々のピースがパチンと一つに収まったのですが…。

実は、千手観音像の動きは上記だけにとどまりません。とても面白い話が秦氏の氏寺である秦楽寺(所在地:奈良県磯城郡田原本町秦庄)に伝わっています。秦楽寺は、聖徳太子が百済王から献上された西天竺の仏師毘首羯磨(びしゅかつま)作の千手観音像を秦川勝に下賜され、大化3年(647年)にそれを当地に安置したことに始まるとのこと。

そして宝蓮寺の縁起によれば、大日堂の五大尊は毘首羯磨によって刻まれたとされているのです。(注:毘首羯磨は実在の人物ではなく、帝釈天の侍臣で、細工物や建築をつかさどる神とされる。宝蓮寺縁起には毘首羯磨が大悲像(=千手観音像)を刻んだとは記載されていないが、話の流れから毘首羯磨作と考えられる)何と同じ千手観音像が奈良盆地における秦氏の支配地域にも出現していました。全く驚かされますね。

ところで、「久能の霊夢に…」とある久能とは誰のことでしょうか?そう、「東海の秦氏 その3」にて書いた秦川勝の二男或いは孫の秦久能忠仁です。霊夢が秦氏と関わるのは今までに何度か書いています。「駿国雑志」(阿部正信が天保14年(1843年)に著した駿河国の地誌)によれば千手観音立像の由来は以下の通りです。

昔、聖武天皇の御宇、秦川勝が二男、尊良の子、久能と言う者、山に入りて獣を狩けるに、海辺近き所に古き杉の樹より、光ありて朝日のごとし、久能あやしみ人をして射落させ見れば、長さ五寸ばかりの閻浮檀金の千手観音の像也。久能是を奇として、山中に寺を建、像を安置しけり。ある夜の夢に、老僧来て久能に告て曰く、我は補陀落山よりここに来れり。善かな汝、我を安置することよ、我能衆生を度せんのみと、夢覚て霊感をしるせり、因て補陀落山と云寺を建、久能寺と名づけり。其後行基ぼさつ此山に入て、古き楠を伐、千手の像七躰を刻み、かの五寸の像を新刻の像の胸に納けると也、七躰各七ヶ所に安置す。

ここまで書いた千手観音像の出現には、全て秦氏の関与があったと理解されます。なお「東海の秦氏 その2」において、「駿国雑志」に記載された内容と関連する鉄舟寺の由緒を掲載しています。是非ご参照ください。

これで観音様の出番もおしまいかと思ったら、まだありました。静岡に出現する以前に浜松にも姿を現していたようです。浜松市東区半田はかつての鹿玉(あらたま)郡に含まれ、覇多(はた)郷があり、長上郡の朝日波多加神社は秦氏に関係があるとされています。さらに半田の地名も秦氏地名です。


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東区半田を示すグーグル地図画像。

半田の一帯はかつて舟岡山とも呼ばれていましたが、これは秦氏と関係のある京都船岡山の地名を浜松に持ち込んだものと推定されます。京都船岡山に鎮座する義照稲荷社(よしてるいなりしゃ)と稲荷命婦元宮(いなりみょうぶもとみや)はいずれも秦氏の神社で、稲荷命婦元宮は、伏見稲荷大社・命婦社の親神となる「船岡山の霊狐」を祀っています。稲荷信仰は伏見稲荷と船岡山の両者から広がったものと思われます。

また浜松には、同じく秦氏地名である羽鳥庄(浜松市東区豊町)があり、同地に服織神社が鎮座しています。以上から浜松にも秦氏の痕跡があると理解されます。

そこで、浜松駅の南に位置する龍禅寺(所在地:浜松市中区龍禅寺町357)を見ていきましょう。何とこの寺の創建は、推古天皇の御代に海中より出現した千手観音像を安置する堂が建てられたことに由来していました。全く神出鬼没の観音様ですね。でも、神出鬼没なのはその伝承を持ち運んだ秦氏と言うことになります。

また聖徳太子が馬込川河畔で千手観世音菩薩のお告げを受けたとも伝えられていて、そこは太子淵(馬込川と新川の合流部)と呼ばれているとか。或いは川から聖徳太子の像が出現したなど、話が変容して曖昧な部分もあります。(注:龍禅寺の伝承に関しては史料による確認ができておらず、裏付けがない点お含みください)

内容を整理します。応神天皇の御代に秦氏の祖である弓月君が閻浮檀金の大悲像や五大尊を守護して日本に渡来した。(注:閻浮檀金とは閻浮樹の森を流れる川の底から採れる砂金を意味しています。つまり大悲像とは、金の或いは金張りの千手観音像となります。五大尊とは不動明王、降三世明王、軍茶利明王、大威徳明王、金剛夜叉明王です)

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大日堂の解説板。

(注:解説板には金目川に沿った山合いと記述され、最初に指摘した様に大磯との関連も明確です。五大尊は解説板の不動堂を参照ください)

秦氏は応神天皇の命により千手観音像を駿河国の有度山(現在の日本平。東照宮が鎮座する久能山は秦久能に由来する)に安置した。それが秦川勝の子或いは孫である秦久能の時代に顕れた。秦久能の子孫である秦氏は五大尊と千手観音像と共に船に乗り、大磯に渡来した。(注:聖徳太子が毘首羯磨作の千手観音像を秦川勝に下賜して秦楽寺の創建となった伝承、浜松市龍禅寺の千手観音像に関連する創建伝承が全体の流れの間に挟まっていることになります)

千手観音像は大磯に留まり、五大尊は金目川を遡り源流である大山南面の蓑毛大日堂に安置された。五大尊は平将門が反乱を起こす際持ち去ったとされる。大日堂には五智如来像が安置されているが、平将門の乱以降のものとすれば五大尊の代替として安置されたと思われる。

なぜなら、全くの推測だが、宝蓮寺縁起には「駿河の有度山、相模の蓑毛山の両所には昔から古仏があり、新仏は白雉元年(651年)六月、法道仙人が丈六の五智仏像を縫い写したもので、相州秦の五智像は仙人の縫い写し仏を写したものだ」とあるから。

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五智如来像の解説板。

(注:平安後期の作とされています。五大尊を持ち去ったとされる平将門は平安中期の人物。五智如来像等の写真は「秦野市役所ホームページ」を参照ください。一番上の写真の形で大日堂に安置されています)

一方、千手観音像に相当する像は大日堂に存在せず、大磯に留まったことが確認される。「宝蓮寺縁起」の記述に基づいて大日堂境内には秦川勝の石碑が建てられた。

なお宝蓮寺の縁起によれば、五大尊は沙門たちが始皇帝の29年に秦に持ち込んだが始皇帝は彼らを殺そうとした。しかし徐福が彼らを救い宝物は徐福に遣わされたとあり、徐福子孫が秦氏であるとの別の伝承にもうまく接続させています。

問題は秦川勝が欽明・敏達・用明・推古・上宮太子(聖徳太子)に仕え、生没年は不明で六世紀後半から七世紀前半の人とされていることです。この場合、高来神社の由緒のように秦川勝自身或いはその子孫が安閑天皇2年(533年)、神功皇后と応神天皇を合祀することはできません。まあ、この辺を厳密に考えると辻褄が合わなくなるのですが、縁起自体が伝説的なものですから、目をつぶることにしましょう。

「秦野市史 通史1」には相模国の官僚となった秦氏の名前が出ています。但し8世紀以降の話となります。具体的には以下の通り。
天平7年(735年)秦三田次 少目(しょうさかん)に任命。
天平15年(743年)秦井出乙麻呂 相模守に任命。
永観元年(983年)秦為彦 権少目に任命。
承暦3年(1079年)秦連正 権堟に任命。
相模国には相当数の秦氏がいたと理解されます。大磯の国府本郷はかつて国府のあったことに由来する地名とされるので、大磯在の秦氏がこちらにお勤めしていた可能性もありますね。(注:相模国の国府は数カ所候補地があるものの、まだ確定していません)

いずれにしても、「宝蓮寺縁起」、「駿国雑志」、木遣「観音」や「権現丸」にある千手観音像を追うことで、始皇帝の秦→奈良盆地秦庄の秦楽寺(弓月君の居住地は葛城朝妻、掖上で現在の御所市)→山城国葛野郡→遠江国の浜松→駿河国の静岡→相模国の大磯→相模国の秦野と秦氏の移動経路(居住エリア)が一定程度復元できるのですから実に面白いと思います。

上記の秦氏の移動は徐福系秦氏とは別の動きであると思われます。また秦氏が地名や徐福伝承だけでなく、千手観音伝承までも持ち運んでいたとは驚きです。

なお秦野の蓑毛大日堂における秦川勝伝承については、江戸時代の寛文9年(1669年)4月27日に蓑毛村の地頭揖斐氏が薬音寺を宝蓮寺に改め大日堂を管理下に置き、「宝蓮寺縁起」が成立した時点で形成されたものと思われます。(この部分は「秦野市史研究 第25号 秦氏と波多野氏」を参照しました)

ちなみに、揖斐氏が薬音寺を宝蓮寺に改称したのは、揖斐与右衛門の令室の法名(迎接院宝蓮信女)に由来しているとのことです。

以上から、川勝の石碑も江戸時代の寛文年間以降に建てられたものと推測されます。言い換えれば、秦野における秦川勝伝承は江戸時代までしか遡れないことになってしまうのです。

もちろん他の史料である「駿国雑志」や木遣「観音」、「権現丸」も江戸時代のものに過ぎません。しかしながら、遠い過去の記憶が江戸時代に反映され上記のような伝説を生んだのは間違いないはずで、秦氏の手で各地を流転した千手観音像の伝承からしても、大磯における秦氏の存在を否定することはできないと思われます。

従って、慶覚院の千手観音立像に関する解説板の記載内容、「慶覚院の秘仏本尊で、伝えでは大磯唐浜の沖より漁民が網で引き上げた像といわれ、高麗人の渡来に関する由緒を持つ像として著名です。…以下略」(大磯町教育委員会)は、「高麗人の渡来」の部分が誤りで、「秦氏の渡来」と書き直すべきです。

同様に、高来神社解説板(現在は掲示されていない)の記述、木遣「権現丸」の解釈も高麗若光など高句麗系渡来人の渡来を反映したものではないので、訂正する必要があるでしょう。

一体の千手観音像の背後にかくも奥深い世界が広がっていたとは驚きですね。この一点だけを取っても、「大磯・高麗山の秦氏」シリーズを書く意味があったと思っています。

               ―大磯・高麗山の秦氏 その8に続く―

大磯・高麗山の秦氏 その6

大磯・高麗山の秦氏
04 /30 2012

楊谷寺横穴群に向かって下って行くと道が分岐しています。この分岐点にも案内柱が立っていますので、道を間違えることはないでしょう。

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分岐点の案内柱。

そのまま下って行くと…、ありました。楊谷寺横穴群です。

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楊谷寺横穴群。

鎌倉のやぐらとも違う雰囲気を持っています。こちらの方が時代も古いので当然ですね。

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上部の古墳。

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下部の古墳。

下部の二つの古墳は内部で繋がっています。夫婦のお墓だったのでしょうか?

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内部。

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横穴群解説板。

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もう一つの解説板。

とにかく高麗山一帯は古墳の宝庫です。問題は、これらは誰を埋葬した古墳かという点です。図書館でざっと調べても、それについて触れた資料は見当たりません。単純に古墳時代後期(7世紀頃)と言う時代性を考えると、秦氏あるいは高句麗系の古墳とも思えますが…。

ただ高句麗系は東国各地に移住させられる前の一時的中継基地として大磯に集まったとも推定され、大量の横穴墳墓を築造する余裕はなかったものと見られます。だとすれば、これらの墓は秦氏のものと推定されるのですが、それを証明する出土品がなく現状では不明とするしかさなそうです。王城山の釜口古墳に関しては、朝鮮式の石組の横穴式石室を持っていることから、高句麗系渡来人の墓とも考えられます。また王城山は城跡だそうですが、由緒や来歴は不明です。

横穴群からさらに下ると、渓流沿いに良い雰囲気の住居が点在していました。

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こんなロマンチックなお宅もあります。

国道一号線に出て、すぐに分岐した旧東海道に入ります。

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旧東海道大磯宿。松の並木が残っています。

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あちこちに桜が…。

歩いていると旧東海道部分も終わりに近くなります。

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趣のある街道沿いの光景。

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何やら解説板が。化粧井戸とあります。

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化粧井戸。

鎌倉時代の大磯の中心はこのあたり(化粧坂)だったそうです。江戸時代も多分同じで大磯宿の遊女が多くいたとか…。お化粧をする女性が多くいたから化粧坂なのでしょうか?

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化粧坂。


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一帯を示すグーグル地図画像。

立派なお屋敷の多いエリアです。高麗若光も化粧坂のあたりに住んでいたとのことで、結局古代から江戸時代に至るまで大磯の中心は高来神社から化粧坂一帯にあったと言えそうです。化粧坂から出発点の高来神社まではすぐの距離です。

              ―大磯・高麗山の秦氏 その7に続く―

酔石亭主

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