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東三河の秦氏 その80 持統上皇東三河行幸の謎


本宮山奥宮に行く前に補足したい事項を書きます。酔石亭主は、持統上皇の東三河行幸を岩戸隠れから天孫降臨までの日本神話を現実の舞台である東三河において具現化しようとしたもの、と考えています。ただ書いた内容を読み返してみると、出雲神話部分の論証が不十分なままとなっていました。

単に大国主命(=大己貴命)を祀る神社が東三河に存在するだけで、出雲神話部分をクリアできたとはとても言い切れないのです。そこで出雲神話部分に関して、再検討し以下のように補足説明します。

まず気になるのが、持統天皇の伊勢行幸です。伊勢行幸は「その51」においても触れていますので参照ください。持統天皇の6年(692年)、天皇は伊勢の行幸を決断するのですが、中納言三輪高市麻呂は農事の妨げとなるので行幸を中止するよう上奏します。再度の上奏にもかかわらず持統天皇の決意は固く、伊勢行幸は決行されました。高市麻呂は中納言を辞職したとされます。なぜ、高市麻呂は伊勢行幸に反対し、持統天皇は決行したのでしょう?もちろん農事の妨げなどではないはずで、行幸の背後にある理由を探ってみたいと思います。

三輪高市麻呂は名前の通り三輪氏となります。三輪氏(大神氏、大三輪氏)は大神神社の祭神・大物主神を祭祀する氏族です。大物主神の子・大田田根子は三輪君などの祖であるとされ、作者不詳の能「三輪」には、「思えば伊勢と三輪の神。一体分身の御事。今更、なんと、いわくら(磐座・言わくら)や」と語られています。これは三輪の神が伊勢の神と同格であることを意味し、三輪の神の神威の高さが窺われます。

大物主の鎮座に関し、大神神社のホームページには以下のように記載されています。

大己貴神(おおなむちのかみ)【大国主神(おおくにぬしのかみ)に同じ】が、自らの幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)を三輪山にお鎮めになり、大物主神(おおもの ぬしのかみ)【詳しくは (やまとのおおものぬしくしみか たまのみこと)】の御名をもってお祀りされたのが当神社のはじまりであります。

大己貴神の幸魂・奇魂が三輪山に鎮まったいきさつは記紀に記載ありますが、以下の大神神社のホームページのご由緒とご祭神を参照ください。
http://www.oomiwa.or.jp/frame/f02.html

纏めれば、大己貴命(=大国主命)の幸魂・奇魂が大物主神で三輪山に祀られており、奉斎しているのが大田田根子(大物主神の子)の後裔である三輪氏となります。そして記紀などを読めば朝廷は大物主神を最も重視していたと理解されます。

例えば、神武天皇の后である姫蹈鞴五十鈴姫命は大三輪神(大物主神)の子です。「日本書紀」崇神天皇6年の条にも大物主神関連記事があります。前年に疫病がはやり災いが押し寄せます。当時天照大神と倭大国魂の二神は宮中に祀られていましたが、天皇は二神の神威の強さを畏れ、宮の外で祀ることにしました。天照大神は豊鍬入姫命に託して大和の笠縫邑で祀ります。倭大国魂は渟名城入姫命に預けたのですが、姫の体が弱り祀ることができません。災いはさらに猛威を振るいます。その後、大物主神が天皇の夢の中に現れ、「我が子の大田田根子命に我を祀らせれば天下は平らぐ」と告げたため、そのお告げに従うとようやく天下が平穏になりました。(注:崇神天皇の部分は長いので、はしょって書いています。正確には記紀を参照ください)

「筑前国風土記」(逸文)には神功皇后が新羅を討とうとしたが、兵が逃げたので理由を占うと大三輪の神(大物主神)が祟っているとわかり、この神の社を建てて新羅を平らげたとあります。これらの例からしても、皇室にとっての大三輪神の重要性が理解されます。

さらに、美和郷や大神郷、美和神社など三輪氏に関連する地名や神社は、東国方面では常陸・上野・下野・越後まで広がりを見せ、倭王の東国支配を信仰の側面から支援・擁護していたと思われます。

皇室の神をも凌ぐ神威を持つ大三輪神の存在は、国家の骨格が形成されつつあった天武・持統朝の時代に入ると、逆に疎ましさが増してきたのではないかと思われます。律令国家の建設を推し進めようとした持統天皇は、伊勢の大神を天照大神に転換させ、皇祖神と位置付け、全ての神の上位に置こうとしたのです。大和では依然として大三輪神の神威が強すぎて、天照大神を祀るのは困難だったことも、伊勢で祀ることにした理由の一つだったのでしょう。

律令以前において大三輪神を仰ぎ奉った倭王たち。そのありようを断ち切り、律令体制と神祇体制の両面で国家の建設を推し進めようとした持統天皇。この間には大きな断絶があります。そして持統天皇の伊勢行幸は、皇祖神・天照大神の創出と伊勢神宮の造営を目的としたものだったと推定されます。これは高市麻呂にとって自らの立場の喪失を意味しており、事態を憂慮した彼は職を賭してまでも諫言を繰り返したのですが、天皇の意志を翻すことは不可能でした。

持統天皇の伊勢行幸は、国家建設の両輪となる律令体制と神祇体制のうち、神祇体制の確立を図るため絶対に不可欠でした。だからどんなに高市麻呂が諫めても受け入れるなどあり得なかったのです。一方高市麻呂にとっては、倭王に仰ぎ奉られていた自分たちの神の地位が天照大神の下の置かれることになり、見過ごすことはできなかったのです。高市麻呂と持統天皇の伊勢行幸を巡るやり取りは、旧体制と新体制のせめぎ合いと言ってもいいでしょう。

記紀の出雲神話に見られる天照大神と大国主神の国譲り。自らを天照大神に擬した持統天皇と高市麻呂。天照大神は大国主神に無理やり国を譲らせて、自分の孫に当たる天孫・邇邇芸命を降臨させました。持統天皇は大三輪神を祭祀する高市麻呂を辞職に追い込み、大三輪神を一氏族神の地位に落したうえで、孫の軽皇子(後の文武天皇)を即位させました。それぞれの関係が相似形になっていると思えませんか?

そして大宝元年(701年)になって、大宝律令が制定・施行されました。この時点で日本の律令制が最終的に確立されたのです。高市麻呂がいかにあがこうとも、この流れを変えることはできません。大三輪神はそれでもなお、大和の地元民から崇敬され、日本各地に分祀された大三輪神は地域の民の信仰を集めていたと思われます。

翌大宝2年(702年)持統上皇は東三河に行幸します。上皇の立場からすると、地域の民の崇敬も受けている大三輪神を、地域においても神社の中に押し込めたと強くアピールする必要があったのでしょう。よって御津の安礼の崎に上陸した上皇は宮路山に登る前に、大国主命を御津神社に封じ込めました。東三河行幸における出雲神話の具現化はこのようにして完成されたと思われます。

封じ込め作業は持統上皇が自ら手を下したのでしょうか?出雲神話で高天ヶ原にいる天照大神が建御雷神などに命じたのと同様、上皇が直接手を下すことはありません。では誰に命じたのか…?

そう、持統上皇は職を辞した高市麻呂に命じたのです。残酷な仕打ちですが、摩擦を最小限に抑えるのに、これ以上の適任者はいないはず。上皇は出雲系の神々を自ら武装解除させたようなものですね。もちろん高市麻呂の名前は持統上皇の行幸関連で出てきません。しかしです。似たような名前の人物が頭に浮かんできませんか?そう、高市連黒人です。彼の歌は以下のようなものでした。

いづくにか舟泊てすらむ安礼の崎漕ぎたみ行きし棚なし小舟
右一首高市連黒人

一体何処に舟泊まりしているのだろう、安礼の崎を漕ぎ廻って行った、あの棚なし小舟は。

この歌に関し、「その58」で「波に飲み込まれそうな小舟が安礼の崎を漕ぎ廻って視界から消えることで、作者の不安感が高まります。それが、自分自身の旅に対する不安を誘発し、情景と作者の情感がうまく重なり合った歌になっています。」と書いています。高市麻呂にとっての棚なし小舟は、自分自身と自分の奉じる神の行く末に対する不安を象徴していたのです。

役割を終えた高市麻呂(=高市連黒人)は、持統上皇からこれ以上同行する必要はないと言われたのでしょう。よって、古代における古東海道と二見道の分岐点で持統上皇と文武天皇が別れた際、彼は文武天皇と同行したのです。この部分は「その53」にて以下のように書いています。

持統上皇に同行した高市連黒人・羇旅(きりょ)の歌八首の一つ(巻三・276)です。(注:万葉集巻三高市連黒人・羇旅の歌八首のうち、270、271、272、276の4首及び巻一 57~61の5首は東三河行幸関連とされるので今後も参照します)

妹も我れも一つなれかも三河なる二見の道ゆ別れかねつる
あなたも私も一つだからでしょうか。三河の二見の道から別れることができません。

三河の二見の道ゆ別れなば我が背も我れもひとりかも行かむ (一本に云く、妻の返歌?)
三河の二見の道で別れたなら、夫も私も一人で旅することに致しましょう。

この歌は明らかに古東海道と二見道の分岐点で読まれたと考えられます。高市黒人は二見道の分岐点で別れ難いとうじうじしているのに、妻は道が別れているんだから、あなたも私も別々の道を一人行きましょう、ときっぱり答えています。なぜ二人は別れなければならなかったのか?

理由は行幸の列が文武天皇(高市黒人が持統上皇と別れて同行)と持統上皇(妻が同行)に分かれ、持統上皇が本坂峠を越えて遠江国の浜名神戸の地に向かい、文武天皇は尾張国に向かったから、となります。


高市連黒人=三輪高市麻呂であれば、上記のごとく今まで書いた内容がさらに筋の通るものとなりそうです。

なお、大己貴命、大国主命、大物主神、大三輪神は一応同一神として扱っていますが、実際には異なる側面もあると思われます。この辺は非常にややこしいのでいずれ別途考えてみたいと思います。以上で、出雲神話部分の補足は終わりです。

             東三河の秦氏 その81 持統上皇東三河行幸の謎に続く

東三河の秦氏 その79 持統上皇東三河行幸の謎


前回で豊川市にある野添の地名から大己貴命の移動経路を探りました。ついでに新城市や豊橋市も見ていきます。チェック結果以下の地名がありました。

新城市川田野添、新城市浅谷野添。豊橋市大村町野添、豊橋市石巻本町野添。

新城市の二つの野添は本宮山麓の豊川上流部に当たります。本宮山麓にある以上、津守氏と大己貴命関連の地名だと思われます。面白いのは浅谷野添の南隣に、八束穂の地名があることです。


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浅谷野添一帯を示すグーグル画像。

八束穂は長い穂を意味しますが、この名前に思い当たるものがあります。そう、砥鹿神社の境内社に八束穂神社があり祭神は天穂日命でした。八束穂の地名は、浅谷野添にいる大己貴命を祀る出雲臣族の天穂日命に関係しているのかもしれません。

豊橋の二つの野添は明らかに石巻山麓に鎮座する石巻神社を志向しています。そして石巻神社の祭神も大己貴命です。八名郡には美和郷があり、美和は三輪で三輪氏に関連し、三輪氏(大神氏、大三輪氏)は三輪山麓に鎮座する大神神社(おおみわじんじゃ、奈良県桜井市三輪)を祀る氏族となります。従って、御津湊に上陸した津守氏と大己貴命(出雲族)の一部は石巻山にも向かったと理解されます。


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豊橋市石巻本町野添の位置を示すグーグル画像。

では、本宮山に向かいましょう。山頂付近まで本宮山スカイラインが伸びているため、簡単に行くことができます。本来は山麓から参道を歩いて登るべきなのでしょうが……。

山頂付近の駐車場に車を入れると、奥宮とは反対方向に小さな鳥居が見えます。

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鳥居です。

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解説板。

何と本宮山奥宮に次ぐ霊場が奥の院とのこと。随分奥の深い場所だと理解されます。洞窟のある巨岩の頂上が国見岩で、昔大己貴命がこの岩山に神霊を留め、この岩上から国見をして、穂の国を造ったと言われているそうです。こんなところまでなぜ出雲族はやって来たのか不思議です。

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もう一つの鳥居。

岩戸神社とあります。古代の磐座信仰の場所に高天ヶ原の岩戸があり、出雲の神様が神霊を留めたとは、随分複雑な構成になっていますね。しばし歩くと国見岩が見えてきました。

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国見岩。天の磐座とあります。いかにもと思わせる巨岩です。

国見岩から洞窟に向けて下ります。

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国見岩を見上げます。岸壁がそそり立っており、頂上は全体のほんの一部分と理解されます。

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洞窟らしきものが…。

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水の流れ落ちる祠もありました。

一応国見岩の最下部まで至ったのですが、岩戸神社はそこから岩を上に登る必要があるらしくギブアップしました。岩戸神社詳細は玄松子さんの以下のホームページを参照ください。

http://www.genbu.net/data/mikawa/iwato_title.htm
 
           東三河の秦氏 その80 持統上皇東三河行幸の謎に続く

東三河の秦氏 その78 持統上皇東三河行幸の謎


前回で砥鹿神社に関し、「三河国一宮として、三河における最も格式の高い神社となりますが、どのような神社なのかわかりにくい部分もあります。」と書きました。けれども、三河えびす社、御本社、八束穂神社、荒羽々気神社などを見てきた中では、どうわかりにくいのか明瞭でないまま終わっています。

ではどこに問題があるのでしょう?「その65」にて砥鹿神社の縁起を書いていますが、縁起に登場するのは砥鹿大菩薩(=砥鹿大神)であり、大己貴命ではありません。

砥鹿神社の祭神は、常識的に考えて縁起に出てくる砥鹿大神のはずなのに、なぜ大己貴命となっているのでしょう?ここが理解し難くわかりにくい部分なのです。砥鹿神社の深源には上記のような奥深い謎があり、答えは神社の境内を幾ら探索しても出てきません。ひょっとしたら、答えは神社の外にあるのかも……。

と言うことで、今回は砥鹿神社の深源に迫ってみたいと思います。最も古いと想定されるのは、縄文時代に遡ると思われる荒羽々気神社です。里宮に鎮座する荒羽々気社は当初祠宇など存在せず、神木を拝していたとのことで、弘化4年(1847年)に内藤彦兵衛経倫により始めて社殿が造営されました。本宮山の荒羽々気神社も同様に背後の磐座を拝していたものと思われます。いずれにしても、この時代に関しての検討は不可能です。

神社の祭神・大己貴命と神社の縁起に登場する砥鹿大神を比較した場合、砥鹿大神は文武天皇との関係で出てくるため、大己貴命の方がより古い神と思われます。言い換えれば、砥鹿神社の深源には大己貴命(旧)と砥鹿大神(新)の二つの流れがあることになります。従って、それぞれの視点から見ていくこととしましょう。まずは大己貴命から……。

御津神社に関連して「その71」で以下のように書いています。

伝承によると、祭神(大国主命=大己貴命)は、御舳玉・磯宮楫取・船津各大神を従えて船津へ着いたとのことです。船津の所在地は広石交差点の南となります。御舳玉大神は豊川市御津町豊沢石堂野15番地に鎮座する御舳玉(おへたまじんじゃ)神社に祀られています。祭神は住吉大神とのことで、伊勢より船にてお供した神だそうです。…中略…

一方砥鹿神社の由緒には次のような内容が書かれています。

「但馬続風土記」によれば、神代大己貴命は国土を開拓し、諸国を巡幸されて 但馬国朝来郡赤淵宮にお移りになって、更に東方三河国に向かわれたとあり、社伝にはその後命は「本茂山(ほのしげやま)」(本宮山)に留まって、この山を永く神霊を止め置く所「止所(とが)の地」とされたとある。

この記述から推定すると、大己貴命すなわち大国主命は但馬国から三河国に入り、御津神社に鎮まった後、本宮山に至ったことになります。


以上から、御津神社の祭神・大国主命は伊勢から御舳玉大神(=住吉大神)のお供で御津に上陸し、東三河を移動した末に本宮山に留まったと理解されます。よって大国主命の御津町上陸後の動きを知るには、お伴をした住吉大神を探る必要があるのです。この住吉大神とは、当然のことながら住吉大神を奉斎する一族を意味しています。そのような視点から砥鹿神社を検討できないでしょうか?

とは言っても、砥鹿神社本体に手掛かりはありません。境外摂社や末社の中から見ていく他に方法はないでしょう。そこで境外摂社・末社を調べてみます。神社ホームページを見ると境外末社に津守神社(つもりじんじゃ)があり、祭神は田裳見宿彌(たもみのすくね)です。他には饌川水神社(おものがわじんじゃ)があって祭神は罔象女命(みずはのめのみこと)になります。ホームページは以下を参照。
http://www.togajinja.or.jp/satomiya_sessya.html

「日本書紀」によれば、神功皇后の新羅征伐に際して神表筒男・中筒男・底筒男の3神(住吉大神)が神功皇后に「私の荒魂を穴門の山田邑に祭れ」とのたまい、穴門直の祖践立・津守連の田裳見宿禰が「その地を必ず定め奉るべし」と奏上しました。この功により田裳見宿禰の子・豊吾田が津守連を賜り、津守連の祖となっています。津守氏はWikiによれば、「住吉大社(大阪府大阪市住吉区)の歴代宮司の一族で、古代以来の連綿とした系譜を持つ氏族である。」とのことです。

御津神社摂社の御舳玉大神(=住吉大神、実際には津守氏)は大国主命のお伴をして御津湊に上陸しました。そして津守神社は、住吉大社歴代宮司の祖である田裳見宿彌を祀る砥鹿神社の末社となります。どんぴしゃりで繋がっていきますね。御津神社の大国主命(=出雲族)にお供したのは住吉大神(=住吉大社宮司の津守氏)であり、津守氏が砥鹿神社のすぐ近くに津守神社を創建したのです。


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津守神社の位置を示すグーグル画像。

津守神社は砥鹿神社の北東約1kmに鎮座しています。神域が船のような形になっているのは偶然でしょうか? 御津神社境内には舟形に積んだ石組があり、関連性が想定されます。写真は玄松子さんの以下のホームページを参照ください。
http://www.genbu.net/data/mikawa/mitu_title.htm

津守神社の位置を示すグーグル画像の下端の少し下に砥鹿神社があります。津守神社の写真に関しては以下を参照ください。
http://blogs.yahoo.co.jp/kanezane2/24659904.html

津守神社は国内神名帳大明神19所の第7位に当たり、菟足神社や御津神社よりも上位に記されています。太田亮氏はそのような高位の神社が砥鹿神社末社に過ぎないのは訝しいとして、海岸の御津郷に鎮座されたものではないか、としています。酔石亭主もその点は賛同しますが、津守氏が大国主命(出雲族)に随伴し御津に上陸した後、両者とも順次内陸部に移動していったと考えています。ではどのようなルートで移動したのでしょう?

津守神社の鎮座地は豊川市一宮町野添。これがヒントになりそうに思えます。すなわち野添の地名を拾っていけば、移動ルートを確定できるはずです。豊川市内には野添の地名が幾つかあるので、海岸から内陸に向かう順に書いていきます。

1御津町野添、2御津町上佐脇野添、3為当町野添、4三蔵子町野添、5大崎町野添、6一宮町野添、7上長山町野添。

正確な位置はグーグル画像で各自検索・参照してください。上記は四つのグループに分けられると思います。1から3は御津神社や豊川市御津町豊沢石堂野15番地に鎮座する御舳玉(おへたまじんじゃ)神社に関連する位置にあり、持統上皇の移動経路ともある程度重複しそうに思えます。1の御津町野添など、上皇関連地名の膳田や加美に接しています。

これらの場所を順次巡った出雲族と津守氏一行は新宮山麓に祠を建て、それが上皇の時代になって新宮山と御津山に挟まれた谷戸内の御津神社に押し込められたのかもしれません。

4と5の三蔵子町野添、大崎町野添は本野原(穂ノ原)近くに位置します。かなり砥鹿神社に近づいてきました。大崎町野添の北に位置する豊川市大崎町門には住吉神社が鎮座しています。


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住吉神社の位置を示すグーグル地図画像。

住吉神社の祭神は中筒男命(ナカツツノオノミコト)で神名帳の「正三位 津守大明神 坐宝飯郡」は、この社ともされています。住吉神社は津守連が移動中に創建したものと考えられ、祭神は津守大明神(=田裳見宿彌)で津守神社と同じになると推定されます。住吉神社の存在とその祭神などから、野添の地名と津守氏の移動経路の連動性が一層明確になりました。

そして6の一宮町野添が現在の津守神社鎮座地となります。7の上長山町野添は正しく本宮山奥宮(豊川市上長山町本宮下4)への参拝登山口手前に当たっています。住吉大神(=津守氏)は多分本宮山の麓まで大国主命(=大己貴命=出雲族)のお供をしたのでしょう。


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上長山町野添の位置を示すグーグル画像。

ここまでの検討から砥鹿神社祭神である大己貴命(=大国主命)の移動経路が明らかとなりました。しかしです。津守神社の祭神は田裳見宿禰であり、大己貴命ではありません。では、大己貴命は現在の砥鹿神社鎮座地にそのまま鎮まったのでしょうか?

調べたところ、砥鹿神社の東北数町のところに「砥鹿大明神往古御鎮座舊跡」なる明治5年建立の石碑が建っているとのことです。津守神社からは南に約二町(約220m)の場所になりそうです。さらに、石碑裏面には石碑の東南約二町の崖下に饌川水神の井戸があると記されています。ここは現在津守神社境内に鎮座する饌川水神社(おものがわじんじゃ)の旧社地となります。

砥鹿神社から津守神社の少し手前に至る崖線の東側の沖積層平野部は「欠下」の地名となっています。崖下が欠下を意味するのかよくわかりません。饌川水神社旧社地を石碑の東南約二町として位置関係を以下に示します。

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グーグル画像。

画像下部に砥鹿神社が鎮座し、上部に津守神社が鎮座しています。両神社を繋ぐような緑のラインが崖線となります。崖線の西側(台地)の大きな赤丸が砥鹿神社旧社地で崖線の東側の小さな赤丸が饌川水神社の推定旧社地となります。(注:正確性は保証できないのでおおよそのイメージとご理解ください)

驚いたことに、饌川水神社旧社地こそが砥鹿大神の流した御衣が着いたところになります。そして里人がこれを拾い、崖上に宮居を設けて奉安したのが砥鹿神社旧社地となるのです。

大己貴命は住吉大神と共に御津湊に上陸し、野添の地を移動しながら津守神社付近に至りました。一方、草鹿砥公宣卿が道に迷い本宮山に踏み入った時、老翁の姿で現れ、公宣卿を助けたのが砥鹿大神で、酔石亭主は砥鹿大神を秦氏の老翁と推定しました。砥鹿大神が秦氏なら、菟上足尼命 が関係する柏木濱すなわち然菅(志香須賀)の渡し付近に上陸し、豊川を遡って饌川水神社旧社地に至ったのです。

ここにおいて大己貴命に砥鹿大神が出会い、社名は砥鹿大神の砥鹿を取り、祭神は大己貴命となって砥鹿神社の創建に繋がりました。名は砥鹿大神、実は大己貴命と言ったところでしょうか?当初、砥鹿神社における大己貴命と砥鹿大神の関係がわからず不可解に思っていたのですが、以上のように考えればこの謎は解けたことになります。但し、上記した砥鹿神社創建の前史部分は草鹿砥公宣卿の時代よりかなり早いのではないかと思われます。

では砥鹿神社宮司である草鹿砥氏に関してはどう考えるべきなのでしょう?まず大己貴命が住吉大神のお伴で砥鹿神社旧社地に至り鎮まります。そこへ、秦氏長老である砥鹿大神が豊川を遡り饌川水神社旧社地付近に上陸。砥鹿大神は上長山町野添で住吉大神からバトンタッチされ大己貴命を本宮山に案内したと思われます。

砥鹿神社一帯の崖線下は豊川市豊津町で、ここにはかつて八名郡日下部村があり日下部氏の居住地だったと思われます。(注:室町時代の洪水の影響で豊川の流路は変わっているため、豊川の左岸、右岸のどこに日下部氏の居住地があったかはわかりません。「三河国二葉松」によれば津守神社の東、豊川市豊津町神ノ木に日下部城があったとのことです。築城時期等詳細は不明です)

いずれにしても、この地に入植した日下部氏(草壁皇子の養育氏族)は大己貴命と砥鹿大神の存在を知り、草壁皇子の子である文武天皇が事実関係は別として、持統上皇の意向によりこの地に存在しなければならないことを知ります。

そこで、上皇の意を受けた日下部氏の一人が、自らを砥鹿大神と文武天皇に関連付ける伝承を創作し、名前も日下部から草鹿砥に改姓。この地の開拓者・大己貴命を祀る砥鹿神社を創建し、自分が宮司に収まったのです。以上が砥鹿神社の創建に関する酔石亭主の復元・再構成したストーリーとなります。砥鹿神社の創建には、大己貴命(出雲族)、住吉大神(津守氏)、砥鹿大神(秦氏)、草鹿砥氏(日下部氏)、持統上皇、文武天皇など、実に多くのメンバーが関与していたと理解されます。

砥鹿神社の歴史探求はこれで終了とし、次回は本宮山と奥宮を見ていきます。

            東三河の秦氏 その79 持統上皇東三河行幸の謎に続く

東三河の秦氏 その77 持統上皇東三河行幸の謎


今回は砥鹿神社(とがじんじゃ)を探索します。石座神社を出て豊川沿いを下ると、豊川市一宮町西垣内2に砥鹿神社・里宮が鎮座しています。奥宮は本宮山山頂付近に鎮座しており、鎮座地は豊川市上長山町本宮下4。まずは里宮を見て、次に奥宮を訪問することとします。砥鹿神社の御祭神は大己貴命。三河国一宮として、三河における最も格式の高い神社となりますが、どのような神社なのかわかりにくい部分もあります。


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神社の位置を示すグーグル画像。神域の広大さが見て取れます。

既に書いたように同社の由緒によると、文武天皇大宝年中、天皇が御病気の時、草鹿砥公宣卿(社家草鹿砥氏の祖)が参河國設楽郡煙巌山の勝岳(利修)仙人のもとに勅使として派遣されます。公宣卿が道に迷い、本宮山に踏み入った時、砥鹿大明神が老翁の姿で出現し、彼を助けます。文武天皇はそれを聞いて喜び、天皇の勅願にて、本宮山麓に宮居を造立することとなりました。その時、老翁が清流に衣を流し、流れ着いた地に社殿を建てたのが現在の砥鹿神社とされています。

駐車スペースはたっぷりありますので、車を停め西側の鳥居を潜って境内に入ります。

境内図
境内図。

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鳥居。

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解説板。

「当社の由緒は詳らかではない。当社神名が国史に明記されるのは、文徳実録巻二、嘉祥三(八五〇)年秋七月の条からで、従五位下の神階に叙せられたとある。」とのことです。前回で見てきた石座神社は、851年に従五位下の神階に叙せられたのですから、年代も位もほぼ同じとなり、ほとんど誰も知らない石座神社と同格であったと理解されます。

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西側神門。

門を潜ると拝殿が見えます。三河えびす社とあり、二宮社が事代主命、三宮社が建御方命とあります。

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三河えびす社。

いずれも出雲系の神様で、天孫降臨に先立ち天孫に服従しています。建御方命は石座神社でも祀られていました。

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真打ちの砥鹿神社拝殿です。さすがに広大な神域を誇っています。

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拝殿に接近します。

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もっと接近。

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表神門です。本来ならこちらから境内に入るべきです。

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末社・八束穂神社です。

祭神は天穂日命。天穂日命は葦原中国平定の条で、石座神社に祀られる天稚彦命の前に地上界に遣わされた神ですが、大国主神に媚び従って3年経過しても復命しませんでした。困った高天ヶ原の神々は次に天稚彦命を派遣して…、となるのです。

天穂日命は出雲大社にて大国主大神を祭祀する出雲臣族の祖となります。名前に穂が入っているのは、穂の国と関係するのでしょうか?

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末社・荒羽々気神社です。

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解説板。

祭神は大己貴命荒魂とのことです。石座神社に続いてここでもアラハバキが祀られていました。

石座神社、砥鹿神社を続けて見ると、天孫降臨に関係する神々が数多く登場しているように思えてなりません。両神社は天孫降臨の舞台装置のようにも感じられますが、本宮山が本家高天ヶ原に当たっていると考えれば、それも当然の話です。

既に見てきた各神社に石座神社や砥鹿神社を加えると、岩戸隠れから天孫降臨神話に関連して登場する神々の数がさらに増えてきます。東三河において現実の舞台装置が整った以上、邇邇芸命である文武天皇も出現せざるを得なくなり、東三河に天皇の痕跡が数多く残ったのです。

やはり持統上皇は、岩戸隠れから天孫降臨に至るまでの筋書きを、東三河を舞台装置として具現化する意図があり、そのために死の直前にもかかわらず行幸したのです。またそうした意図を史書に書く訳にはいかず、「続日本紀」には東三河行幸の内容が何もないと言う不自然な形となったのです。

           東三河の秦氏 その78 持統上皇東三河行幸の謎に続く

東三河の秦氏 その76 持統上皇東三河行幸の謎


今回は本宮山の前に見ておきたい場所があるので、そちらを先に訪問します。鳳来寺山から豊川に沿って下ると、長篠城址や信長本陣跡、家康本陣跡など戦国時代の歴史を偲ばせる場所があります。ただ、この時代は酔石亭主の守備範囲ではないので、すっ飛ばして石座神社(いわくらじんじゃ、鎮座地:新城市大宮字狐塚14)に向かいます。


大きな地図で見る
場所を示すグーグル地図画像。

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神社へと向かう石段と鳥居。

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解説板。

解説板にあるように、当社の創立年代は非常に古く、式内神社であり「三河風土記」には大宝3年(903年となっていますが、703年の誤り)9月奉圭田行神事とあり、長い歴史を持っていると理解されます。始まりは社名からも理解できるように磐座信仰が元になっており、背後の雁峯山には巨石がごろごろしているとのことです。磐座の写真は以下のブログを参照ください。
http://blog.goo.ne.jp/familyplot1976/e/19f7da09c95ddda5ee455b103332282f

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参道と鳥居。

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鳥居の脇に荒波婆岐社(あらはばきしゃ)が鎮座しています。

祭神は豊石窓命(とよいわまどのみこと)、奇石窓命(くしいいまどのみこと)です。あまり聞いたことのない神様で、愛知県ではここだけでしょうか?アラハバキは門客神(もんきゃくじん)として祀られ、門客神とは神社の門におかれた客人神(まろうどかみ)を意味しています。

ここのアラハバキも門客神の立場通り鳥居の脇に鎮座しています。でも、なぜここに豊石窓命と奇石窓命が祀られているのでしょう?これらの神は天石門別神(あめのいわとわけのかみ)の亦の名であり、詳細は以下Wikipediaより引用します。

天石門別神(あまのいわとわけのかみ)は、日本神話に登場する神である。
『古事記』の天孫降臨の段に登場する。邇邇芸命が天降る際、三種の神器に常世思金神・天力男神・天石門別神を添えたと記され、同段で天石戸別神は又の名を櫛石窓神(くしいわまどのかみ)、豊石窓神(とよいわまどのかみ)といい、御門の神であると記されている。天孫降臨の段に登場する神の多くはその前の岩戸隠れの段にも登場しているが、この神は岩戸隠れの段には見えない。
天石門別神は古来より天皇の宮殿の四方の門に祀られていた神である。天太玉神の子ともいう。


Wikiには天石門別神は岩戸隠れの段には見えない、とありますが、それは当然でしょう。神の名を見れば天石門別神は天の石屋戸そのもの(或いはその門、或いは石屋戸を神格化した存在)を表しており、既に岩戸隠れの段に登場しているですから、改めてこの神名を記す必要はないのです。

いずれにしても、豊石窓命と奇石窓命の2神は日本神話の中核となる天照大神の天の石屋戸隠れと天孫降臨のいずれにも係わっている神なのです。それがなぜこんな場所で、しかも荒波婆岐社の祭神として祀られているのでしょう?不可解だとは思いませんか?

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拝殿です。

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神馬舎です。

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中には神馬さんが…。

解説板によれば、この馬は元は白い馬だったが、夜ごとに田畑を荒すので、格子造りの馬小屋に入れて黒く塗ってしまったら、もう田畑には出てこなくなったとの言い伝えがあるとのことです。

神馬さんはともかく、豊石窓命と奇石窓命に関してもう少し考えてみたいと思います。石座神社の祭神は、天之御中主尊(あめのみなかぬしのみこと)と天稚彦命(あめのわかひこのみこと)です。天之御中主尊は天地の初めの神です。天稚彦命は頂いた神社のチラシによると、穀物神として安孫子神社(滋賀県愛知郡秦荘町)などに祀られているが、祀る神社は少ないとのことです。

天稚彦命は天孫降臨に先立って葦原中津国に派遣されます。ところが高天ヶ原を裏切り復命せず、使いの雉を弓矢で射殺してしまいました。その矢が高天ヶ原まで届き投げ返された矢に当たり死んでしまうのですが、葬儀に訪れた味耜高彦根神(アジスキタカヒコネノカミ)があまりによく似ていたため、天稚彦命と勘違いされてしまいます。

「日本書紀」によれば、天稚彦命が矢に当たって死んだのは、「新嘗して休臥せる時なり」とあります。新嘗は穀物神の死と再生に関連する儀礼であり、天稚彦命の死と、味耜高彦根神の登場は、神の死と再生を意味していると考えられます。穀物神である天稚彦命が死と再生を司る秦氏の拠点秦荘において祀られているのも意味深いものがあります。また、石座神社の末社には保食社(うけもちのやしろ)もあり、穀物神である倉稲魂命が祀られています。

この神社境内には実に多くの摂社、末社があり、神社で頂いたチラシに詳しく書いてあるので他に関係しそうな社を見ていきます。

摂社・須波南宮社は建南方刀美命(たけみたかたとみのみこと、「古事記」では建御名方命)を祀ります。この神は天稚彦命の話に続いて登場する大国主神の子で、建御雷神との力比べに負け、諏訪に逃げて隠れます。その結果、大国主神は葦原中津国を天孫に譲ることになり、ようやく天孫降臨の準備が整ったのです。

末社・神楽社は宇須女命(うずめのみこと)を祀ります。こちらも岩戸隠れに関係する神様ですね。だとすれば、天照大神もいるはずですが、末社・伊雑社(いざわのやしろ)は伊雑大神を祀り、これは天照坐御神御御魂=天照大神となります。

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拝殿に向かって右側には児御前社(ちごぜんしゃ)が鎮座。

祭神は石鞍若御子天神(いわくらわかみこてんじん、石座石を神格化した神)で文徳実録によれば、石鞍の神が仁寿元年(851年)冬10月、従五位下の神階を与えられたそうです。

末社・金刀比羅社には大物主命が祀られています。末社・山神社には大山祇命が祀られています。大山祇命は徐福とされる説があります。

以上、石座神社にはなぜか岩戸隠れから天孫降臨に至るまでの神話に関連した神々が多く集結し祀られていました。他に例の少ない祀られ方と思われます。これは、東三河と言う現実の舞台装置において日本神話の全体を具現化し、心的に追体験しようとした持統上皇の隠れた意図の一端を担っているものと理解されます。

            東三河の秦氏 その77 持統上皇東三河行幸の謎に続く
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