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邪馬台国はどこにある その2


今回は「魏志倭人伝」に書かれた各国の戸数を通して邪馬台国の位置を探ってみます。弥生時代における日本の総人口は歴史人口学者の推計によると約60万人になるそうです。こんなに少ないのかと驚かされますが、ここでは60万人から百万人としておきましょう。(注:以降の人口に関する話は全て推計人口になるので、いちいち推計と書き入れません)

60万人から百万人ある日本の総人口に対して、邪馬台国が博多湾岸(或いは多少内陸)にあるとの古田氏の論に従った場合、北九州にどれほどの人口があったのか、また日本の総人口に対して北九州の人口が整合しているのかを見ていきます。仮に整合していない場合、邪馬台国は北九州にあるとする見解が成り立たないのは自明の理です。

検討の前提として一戸当たり3人とします。一戸当たり3人は最低人数で、数世代後には消滅する可能性も大ですが、戸数が水増しされている可能性も考慮して3人としたものです。「漢書」の地理志では凸凹があるものの、一戸当たり4人強となっていました。ただ、それを倭国に当て嵌めていいか不明ですし、4人強だと北九州の総人口が多くなり過ぎる問題も出てくるので、一戸当たり3人としたものです。では、「魏志倭人伝」に書かれた戸数と人数を具体的に見ていきましょう。

対海国(千戸、3千人)、一大国(3千家、9千人)、末廬国(4千戸、1万2千人)、伊都国(千戸、3千人)、奴国(2万戸、6万人)、不弥国(千家、3千人)、投馬国(5万戸、15万人)、邪馬台国(7万戸、21万人)。(注:「魏志倭人伝」では狗邪韓国も倭国に含まれるような記載になっていますが、戸数は書かれておらず韓半島なので省きます)

上記の合計だけで、何と15万戸、45万人もの人口になってしまいました。(注:一戸当たり4人で計算した場合、日本の総人口と同じ60万人になってしまう)他の戸数が記載されていない22国を1国平均3千人で合計すると6万6千人で、これを加えれば二つの島と北九州の人口は51.6万人となり、日本の総人口60万人の実に86%に相当することになってしまいます。日本の総人口を百万人に見積もっても50%以上ですから有り得ない話です。

以上、邪馬台国と投馬国が北九州にある仮定とした場合、日本の総人口に対して全くの不整合となってしまいました。従って、邪馬台国と投馬国は北九州に存在しないとの結論になります。邪馬台国北九州説の問題は他にもあります。

邪馬台国の人口が21万人だったとすれば、人口に対する必要面積は到底博多湾岸の範囲には収まりません。古田氏が「邪馬壹国の歴史学」に書いた論文の次は、「『倭人伝』の里程記事は正しかった」とのタイトルで、別の方が書いています。その最後の注には『「七万戸」の邪馬台国は中心が博多湾岸であっても、その領域は福岡全域と大分・熊本北部を含めさらに広大な面積を占める大国となろう。』と記述されていました。古田氏の邪馬台国が博多湾岸にあるとする主張を壊さない形で人口問題を整合させるため、苦心惨憺されている様子がありありと目に浮かびます。

苦心惨憺されても直ちに大きな矛盾に直面します。具体的には、邪馬台国の領域を福岡全域、大分・熊本北部とした場合、個別に戸数が書かれている末盧国、伊都国、奴国、不弥国が邪馬台国7万戸の内数となってしまう点です。(注:対海国と一大国、狗奴国を除く。投馬国は古田氏の見解では鹿児島なので除く)上記の4国はいずれも方位や道里(里数)まで書かれており、邪馬台国とは明らかに別の国々で内数になるはずがありません。

これが女王国の場合だと、例えば伊都国は「世に王あるも、皆女王国に統属す」とあり、また「次に奴国(海岸線に近い奴国とは別の国)あり、これ女王の境界の尽くる所なり」と書かれていることから、4国は女王国の領域内と考えても矛盾はなさそうです。ただ卑弥呼は共立された女王ですから、彼女を共立した全ての国々が形式的に女王国を支配者とする形を取っているだけで、女王国がその軍事力・経済力により諸国を実質支配しているとは思えません。

女王国の戸数が記載されていないのも、この国が実力で強大になったのではなく、卑弥呼が共立され形式的・象徴的に他国に君臨している事実を示しているからだと思われます。また女王国に生産力や動員力を意味する戸数が記載されていないのは、国とは書かれているもののその実態が宮殿とそれに付属する施設、奴婢や警護の兵がいるだけだからだとも言えそうです。纏めれば、卑弥呼の女王国は宮中を意味し生産力を持たず、且つ北九州のほぼ全域を形式的に統括する立場にあったため、戸数の概念が適用されなかったことになります。

既に書いたように、「魏志倭人伝」に出てくる国々の推計総人口は51.6万人となります。投馬国を鹿児島としてもそれ以外の地域(佐賀、大分南部、熊本南部、長崎、宮崎など)を加えれば全九州で日本の総人口60万人を越えそうな数字となってしまい、邪馬台国や投馬国が九州にあるとの論は成り立ちそうにありません。やはり邪馬台国=女王国とするのは不可能なようです。

また古田氏の見解のように、邪馬台国が女王国の首都だとしたら、やたら首都が大きく、それよりも大きな女王国があることになって、全体像が描きにくくなります。邪馬台国が北九州にあるとすれば、他にも矛盾が出てきます。「魏志倭人伝」によれば、倭は旧百余国で小国同士が歴年相争っていたはずです。仮に他を圧する巨大な邪馬台国が北九州の盟主として君臨していれば、そうした争いは起こり得ません。邪馬台国が北九州にあったとの説は「魏志倭人伝」の記述とも不整合になるのです。

いや、邪馬台国は卑弥呼が女王になってできた国だとの反論があるかもしれません。けれども、卑弥呼は何年も争いが続いた末に共立された女王であり、自力で7万戸を勝ち取った訳ではないのです。仮に彼女が7万戸を有していた国の女王になったのだとしたら、卑弥呼以前に7万戸を有する巨大国家・邪馬台国があったことになり、争いは起きないでしょう。以上のように、どのような観点から見ても邪馬台国は北九州にはなかったとするしかなさそうです。

邪馬台国北九州説論者は、邪馬台国(と投馬国)を無理やり九州に嵌め込もうとするからとんでもない矛盾に直面することとなりました。この矛盾がないよう邪馬台国と投馬国を北九州から外して再構成すれば、北九州にあったのは末廬国(4千戸、1万2千人)、伊都国(千戸、3千人)、奴国(2万戸、6万人)、不弥国(千家、3千人)、女王国(戸数と里数の記載なし)及び戸数の記載がない22国となり、人口は14万4千人で日本の総人口にほぼ整合する比率となってきます。(注:狗邪韓国や二つの島は別枠と考えて上記に含めていません)

ここまでの検討だけで、邪馬台国と投馬国は北九州に存在しなかったと断定できそうです。但し酔石亭主の視点では、邪馬台国と投馬国は北九州に存在していないが、卑弥呼の女王国は北九州にあったことになります。それは「魏志倭人伝」に帯方郡から女王国まで万二千余里(一里は短里で77mとして合計924km)とあることからも明確です。

以上、戸数と人数の検討から邪馬台国と投馬国は北九州になかったと確認できました。もちろんこれだけでは不十分なので、さらに様々な視点から見ていく必要があり、それらは次回以降で検討します。

邪馬台国はどこにある その1


名古屋散策は一旦中断して、今回から少し邪馬台国問題を取り上げたいと思います。この暑さの中で書く訳ですから、支離滅裂な部分もあるかもしれませんが、その際は何卒ご容赦ください。では、早速始めましょう。

過去の邪馬台国論争は主に邪馬台国北九州説、畿内説の間で争われてきました。この論争に決着が付かないのは、両者とも間違った前提において争っているからだと思われます。両陣営ともに邪馬台国は卑弥呼のいた場所で、女王国と邪馬台国は同じ(或いは同じ領域内。九州王朝説で有名な古田武彦氏は「ここに古代王朝ありき」で女王国の首都を邪馬台国としている)との前提において議論がなされています。

けれども邪馬台国は卑弥呼のいた場所で、女王国と邪馬台国は同じとする前提は本当に正しいのでしょうか?まずはそこから疑ってかからなければなりません。と言うことで、邪馬台国と女王国の名前が「魏志倭人伝」に何回、どんな内容で出てくるのかを見ていきます。邪馬台国の名前は「魏志倭人伝」に一回しか出てきません。それに対して卑弥呼がいたと推定される女王国は複数回登場しています。具体的に書き出してみましょう。

『邪馬台国』
南、邪馬壹国に至る、女王の都する所 水行十日、陸行一月。七万余戸ばかり。

『女王国』
(伊都国は)世に王有るも、皆女王国に統属す。
女王国より以北、その戸数、道里は略載を得べきも
次に奴国あり、これ女王(国)の境界の尽くる所なり。
その(女王国の)南、狗奴国有り、…中略…女王に属せず。
郡より女王国に至る、万二千余里。
女王国より以北には、特に一大率を置き、諸国を検察せしむ。
その国(女王国)、本男子を以って王と為し
常に人あり、兵を持して、女王国を守衛す。
東、海を渡る、千余里。また国有り。(前の文の流れから女王国の東と読める)

いかがでしょう?両国の位置付けがまるで異なっているとは思えませんか?女王国は帯方郡からの距離が里数で表示され、国の位置、方位、国のありようなどに関する具体的な情報が詰まっています。これに対し、邪馬台国は女王が都する所とあるものの、距離の表示が里数ではなく日数になっており、その日数自体や方位にも不自然さが目立ちます。

そこで、距離に関する里数表示と日数表示の違いの意味を考えてみます。「随書」には、夷人(倭人)は里数を知らず、ただ日数で計るのみ、と書かれていました。となると、里数表示は帯方郡の使節が実際に行った場所までの距離を示し、日数表示は使節が直接行っていない場所までの距離を示したものになります、

従って邪馬台国までの距離は、北九州の倭人(或いは魏や韓半島の商人など)から聞いた話が伝わったものに過ぎないことになり、不正確さがある点は否めません。一方女王国は、その詳細な内容や里数表示から使節が行った場所と考えられます。以上の諸点から、邪馬台国と女王国は別の国と理解するしかなくなります。これで邪馬台国論争における邪馬台国と女王国が同じ国であるとの前提は崩れました。

また、古田氏の意見のように邪馬台国が女王国内にあるとしたら、女王国の中に7万戸も擁する首都があることになり、後で詳しく見ていきますが、全体の整合性に欠ける見解となってしまいます。

邪馬台国問題の混乱は、卑弥呼がいた女王国と邪馬台国が同じ国であるという誤解に起因していました。両国は別の国であるとの前提で考えれば、多少の矛盾や不明点が残るにしても、大枠では解決できたも同様で、邪馬台国北九州説、畿内説の不毛な論争はなくなるでしょう。

この点に関しては、既に「大和王権と邪馬台国の謎を解く」シリーズにて書いており、不十分ながら一定の結論に達しています。それはそれとして、邪馬台国問題は日本古代史最大の謎である以上、何度考えても面白いので、さらに検討を加えてみようと思い立った次第です。

北九州説の重鎮としては九州王朝説を唱える古田武彦氏がおられ、同氏の舌鋒鋭い論考が多く掲載されている「邪馬壹国の歴史学」(古田史学の会編 ミネルヴァ書房)や「ここに古代王朝ありき」なども参考にしたいと思います。同氏は他にも、「邪馬台国はなかった」、「失われた九州王朝」など、数多くの著作を上梓され、その膨大な知識と論理構築には常に圧倒させられ、敬意を表せざるを得ません。

ただ、膨大な知識が必ずしも正解を導き出すとは限らないので、今回は同氏の見解を一部抜粋しながら論考を進めていきたいと思います。「邪馬壹国の歴史学」の最初の論文は古田氏が書いており、表題は『「邪馬壹国」はどこか ―博多湾岸にある―』です。驚いたことに、表題が既に結論となっていました。読み始めてもっと驚いたのは、その2ページ目で「倭は、女王・卑弥呼がいたところは、博多湾岸である」と断定された点です。

この結論に関する考察は後で書きますが、要するに同氏は、卑弥呼がいた場所を博多湾岸の邪馬台国としておられる訳です。古田氏は独自の視点から邪馬壹国と表記していますが、本論考では一般的な邪馬台国で統一しますのでお含みください。

酔石亭主は歴史史料や論考に矛盾や疑問がある場合、それがない或いは少ない形に再構成することで真相に迫れると考えており、今までもその手法を採り続けています。今回もそうした手法にて、邪馬台国が博多湾岸にあるとする古田氏の論考に問題点や矛盾がないか探っていきます。


博多湾の位置を示すグーグル地図画像。

古田氏の主張(詳細は省きます)では、この博多湾沿いに邪馬台国があるとなります。また古田氏の幾つかの論文を読む限りでは、同氏は卑弥呼に関係する倭、女王国、邪馬台国を同一のもの(倭=女王国=邪馬台国、或いは邪馬台国が女王国に含まれる)と考えておられるようです。この前提において邪馬台国の位置に矛盾がないか「魏志倭人伝」の記述から見ていきましょう。(注:古田氏の邪馬台国=女王国と言う見解に沿って見ていきますので、以下に女王国と書かれている部分は頭の中で邪馬台国と読み替えてください)

「魏志倭人伝」には「女王国より以北、その戸数、道里は略載を得べきも」とあります。女王国が博多湾岸だとすれば、その北側は海であり、対海国(対馬)と一大国(壱岐)があるのみで大きな矛盾が生じます。「魏志倭人伝」にはまた、「女王国より以北には、特に一大率を置き、検察せしむ」ともあります。

以上から戸数や道里(里数)の書かれた末盧国、伊都国、奴国、不弥国が女王国の北(注:北西や北東なども含み得る大雑把な北側)にあるとするのが常識的な見方になり、従って卑弥呼のいる女王国は博多湾岸ではないと考えるべきです。(注:各国の詳細は後の回で書きます)たったこれだけの検討で古田氏の論は成立し得ないことになってしまいました。

(注:古田氏のこの論文は2007年のものですが、同書の2012年論文では女王国の「宮室」は博多湾岸の春日市になるとさりげなく位置・論をずらしています。古田氏は春日市の須玖岡本遺跡(すぐおかもといせき)から銅剣、銅矛、銅鏡、ガラス玉などが多数出土している点を考慮して変えてしまったのでしょう。けれども、須玖岡本遺跡は8㎞程度内陸となっているので博多湾岸とは言えず、春日市は古田氏見解とは異なり同遺跡一帯を奴国に比定しています)

ここまでの検討は、古田氏の主張される邪馬台国の位置が博多湾岸から多少内陸にずれただけの話で、事実上同氏自身が後になってずらしています。ただ、邪馬台国北九州説は北九州のどこかに邪馬台国があるとする説なので、博多湾岸か多少内陸かはさほど大きな問題になりません。問題の本質は邪馬台国が北九州にはない点であり、それを論証するため、さらに「魏志倭人伝」の検討を続けます。

(注:本シリーズの記事タイトルは「邪馬台国はどこにある」ですが、記事カテゴリは既に書いた「大和王権と邪馬台国の謎を解く」に含めます。また「大和王権と邪馬台国の謎を解く」において、邪馬台国は北九州ではなく大和にあり、卑弥呼の女王国が北九州、投馬国は吉備であると書いています。今回の論考でもこれらに変更がない点、あらかじめお含み置きください)

邪馬台国と大和王権の謎を探る その41


石上神宮の参道近くの神宮外苑公園には神田神社(こうだじんじゃ)が鎮座しています。祭神は高倉下命で、神武東征において熊野で神武軍が危機に陥った際、石上神宮の主祭神となっている布都御魂神(布都御魂剣)を天皇に献上したのが高倉下となります。当初の鎮座地は天理市三島町の鎮座で、平成になってから現社地に遷座したとのこと。かつては旧社地に神饌田があって、ここで収穫された神米を祭祀に用いていたようです。いずれにしても、高倉下がここで祀られているのは物部氏との関連と理解していいでしょう。


神田神社の位置を示すグーグル地図画像。

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神田神社の案内柱。

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社殿です。

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社伝の手前に岩が置かれていました。烏帽子石と刻まれています。

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烏帽子石。陽石のようにも見えます。

「先代旧事本紀」の天孫本紀によれば、高倉下はニギハヤヒの子である天香山命の別名となっています。布都御魂剣と物部氏の祖であるニギハヤヒの子に当たる人物が、物部氏に所縁のある場所で祀られているのは当然ですね。

続いて天理市一帯の古墳などを簡単に見ていきます。天理教会本部施設が布留遺跡の上にある点は既に見てきたとおりです。この遺跡は旧石器時代から始まっており、布留川に沿って東西南北2㎞に及ぶ大きな遺跡となっています。この遺跡を挟むように、布留遺跡の南側に杣之内(そまのうち)古墳群があり、北側には石上・豊田古墳群があります。既に見てきた夜都伎神社に関しても、杣之内古墳群に含まれる古墳の上に鎮座しているようです。杣之内古墳群の盟主とも言えそうな古墳が古墳時代前期(4世紀)に築造された西山古墳と小半坊塚古墳です。西山古墳は夜都伎神社に行く途中に見ることができます。


西山古墳の位置を示すグーグル地図画像。

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西山古墳です。

全長183mの前方後方墳です。前方後方墳としては日本最大で物部氏の墓と推定されています。もう一歩で大王墓級の規模に達しますので、物部氏の墓とみて間違いなさそうですが、確定的なことは言えません。詳細は以下のWikipedia記事を参照ください。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3

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西山古墳をもう一枚。

解説板もありましたが、錆びており読めません。西山古墳の南にも幾つかの古墳が存在しています。


西乗鞍古墳と東乗鞍古墳の位置を示すグーグル地図画像。

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西山古墳の南にある西乗鞍古墳と東乗鞍古墳。

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西乗鞍古墳の解説板。

全長約118m、古墳時代後期の前方後円墳で、5世紀末~6世紀前半頃の築造とされています。このように布留遺跡の南側に位置する杣之内古墳群(杣之内町、勾田町、乙木町一帯)は4世紀から5世紀初め築造が始まり、いったん中断して5世紀末から6世紀にかけて数多くの古墳が築造されました。どんな事情があって中断したのか知りたいところです。

布留遺跡を間に挟むようにして北側に位置する石上・豊田古墳群(石上町、別所町、豊田町一帯)は6世紀前半から半ばにかけての古墳が多いようです。石上神宮に関係するのは物部氏と市川臣系(和珥氏の系統)の布留宿禰となります。この両氏の古墳が杣之内古墳群と石上・豊田古墳群になるのでしょうか?石上・豊田古墳群のすぐ近くには和珥氏系とされる東大寺山古墳群があり、石上・豊田古墳群が市川臣系と考えれば筋が通りそうですが、そうしたことを示す具体的な資料がない以上推測に過ぎません。

以上で本シリーズは終了とします。

邪馬台国と大和王権の謎を探る その40


今回は夜都伎神社(やとぎじんじゃ、やつぎじんじゃ)を訪問します。


夜都伎神社の位置を示すグーグル地図画像。鎮座地は天理市乙木町765。

「日本の神々」巻4夜都伎神社の項によれば、式内小社夜都伎神社の所在については、当社のほかに、天理市竹之内町明神山の十二神社、天理市田井庄町西浦の八剣神社とする説がある、とのことです。しかし、「石上振神宮略抄」には夜都留伎ノ神は今ノ田井之庄ノ八頭神殿是也とあることから、八剣神社が式内小社夜都伎神社となる可能性が高そうです。

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巨大な鳥居です。鳥居の先やや左手のこんもりした森が夜都伎神社です。

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解説板。

天理市乙木村の北方、集落からやや離れた宮山(たいこ山ともいう)に鎮座し、俗に春日神社といい、春日の四神を祀る。乙木には、もと夜都伎神社と春日神社の2社があったが、夜都伎神社の社地を竹之内の三間塚池と交換して春日神社一社にし、社名のみを変えたのが現在の夜都伎神社である。当社は、昔から奈良春日神社に縁故が深く、明治維新までは、当社から蓮の御供えと称する神饌を献供し、春日からは若宮社殿と鳥居を下げられるのが例となっていると伝える。…以下略。

元は夜都伎神社と春日神社の二社があり、夜都伎神社の社地を交換して春日神社一社だけとなったが社名は夜都伎神社を残したとのこと。随分ややこしい話になっていますが、実態は春日神社と言うことなのでしょう。祭神は武甕槌神で經津主命、比賣大神、天兒屋根命が配祀されています。

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鳥居。

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拝殿。

茅葺の拝殿が農家の家のように見えます。ちょっと珍しいですね。

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本殿。

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うまく撮影できていませんが、いい雰囲気です。

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扁額。夜登岐神社となっています。

「大和志」は乙木大明神となっており、地名の乙木=夜都伎と見ているようです。

        邪馬台国と大和王権の謎を探る その41に続く

邪馬台国と大和王権の謎を探る その39


前回で出雲建雄神社の創建は、尾張の熱田神宮にて祀られる草薙神剣に関係していると確認されました。実は天理市に八剣神社が鎮座しています。熱田神宮境内にも別宮として八剣宮が鎮座しています。だとすれば、天理市の八剣神社も尾張との関係が推測されるのでチェックしてみたいと思います。鎮座地は天理駅の西側になります。


八剣神社の位置を示すグーグル地図画像。鎮座地は奈良県天理市田井庄町273。

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八剣神社の鳥居。

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拝殿。

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本殿。

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解説板。内容は以下の通りです。

神代のむかし素盞男尊八岐大蛇を退治したまいき。大蛇は身を変え天に昇り神剱となって布留川の上流八箇岩に天降りしを水雷神とあがめ貞観年間にこの地に氏神として斎られた。 もと村社で五穀豊穣、邪霊退散、招福の守護神として尊信されている。

素戔嗚尊に退治された八岐大蛇が草薙神剣となって、布留川上流の八箇岩に天降ったと書かれています。貞観年間は859年から877年までの期間となります。「大和志料」中巻には、草薙神剣に関係して「布留川の上に八重雲が湧き立ち、その中に神剣が光り輝いているのを見た。翌日その地に至ると、八つの霊石があり、」との出雲建雄神社に関係する記述がありました。八剣神社由緒の布留川上流の八箇岩と、出雲建雄神社由緒に見られる布留川の上の八つの霊石は同じものと考えられ、従って八剣神社の祭神である八剣神も草薙神剣(の御霊)を意味していると確認されます。

「日本の神々」巻4の八剣神社の項には「石上振神宮略抄」の内容が以下のように引用されていました。

夜都留伎ノ神ハ八岐大神ノ変身ニテ、神体ハ八ノ此札、小刀子ナリ、乃チ八剣ノ神ト申ス  神代ノ昔、出雲ノ簸谷ノ八岐大蛇ハ一身ニテ八岐アリ、尊(素戔嗚尊)剣ヲ抜テ八段二切断シ給シカ、八ツ身二八ツ頭カ取付八ツノ小蛇トナリテ天ヘ昇リテ水雷神ト化為テ聚雲ノ神剣二扈従シテ、当国布留河上ノ日ノ谷(都祁郷属)二臨幸アリテ鎮座ス 八龍王八箇石是也、貞観年中(859年~877年)ニ吉田連カ族都祁ノ村公庸敬ガ神殿ヲ造リテ神格ヲナシテ八剣神ト申ス 今ノ田井之庄ノ八頭神殿是也

上記が八剣神社の由緒の元になっていると理解されます。大意は、夜都留伎(八剣)の神は八岐大神の変身であり、神体は八つの小刀で八剣の神と言う。神代の昔に素戔嗚尊が八岐大蛇を剣で八段に切られたが、八つの身に八つの頭が取り付き、八つの小蛇となって天に昇り水雷神となって叢雲の神剣に従い、当国の布留川上の都祁郷に属する日の谷に降臨して鎮座した。八龍王の八個石がこれである。貞観年中(859年~877年)に吉田連の一族である都祁の村公庸敬が神殿を造り八剣神と申すのが、今の八剣神社である。

八剣神社の由緒では八岐大蛇が草薙神剣に変身し、布留川上流の八箇岩に天降りしたとあり、「石上振神宮略抄」では八つに切られた八岐大蛇が八つの小蛇になって草薙神剣に従い、布留川上流の八箇岩に天降りしたような主旨となっています。両者の内容は微妙に異なっていますね。いずれにしても、尾張の八剣宮とは話の由来が異なるので、尾張の八剣宮と八剣神社の間に直接的な関係があるとは言えません。

ただ、八剣宮は元明天皇の和銅元年(708年)に草薙神剣のコピーを新たに鋳造し創祀されたものですから、話の内容は異なるものの、その根源に草薙神剣がある点では八剣神社の由緒と一致しています。尾張の八剣宮創建に石上神宮の話が影響を及ぼしている可能性はなお残りそうに思えてきました。

由緒の最初に夜都留伎ノ神とありますが、「日本の神々 その4」(白水社)によれば、この神に比定される長滝町日の谷(火の谷)の龍王社は現在の夜都伎神社(やつぎじんじゃ)の上社的存在と考えるなら、夜都伎は本来夜都留伎であった可能性もある。とのことです。

日の谷の龍王社に関しては以下に詳しく書かれていますので、興味のある方は参照ください。
http://kamnavi.jp/as/yamanobe/nagaryuou.htm

と言うことで、次回は夜都伎神社に行ってみましょう。

       邪馬台国と大和王権の謎を探る その40に続く


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