尾張と遠賀川流域の謎を解く その16


今回は立屋敷八剣神社の由緒を検討します。

DSCN1116_convert_20170813074245.jpg
解説板。必要部分を以下に書き出します。

八劔神社由緒
主祭神:日本武尊(やまとたけるのみこと) 砧姫命(きぬたひめのみこと)
合祀神社:保食宮・天津神社・国津神社・天満神社・多賀神社・宮地嶽神社・貴船神社
境内社:月読神社・馬野神社・天照大神社・猿田彦神社

由緒
第十二代景行天皇の御代(71年~130年)、日本武尊は筑紫の熊襲征伐の途次、この地にて砧姫を娶られた。尊が東国征伐の帰途、崩御されたのを聞き、尊の仮宮跡に社祠を築き「御館大明神」として祭るを当神社の起源とする。後に「八剱大明神」と改称。文治元年(1185年)山鹿城主、山鹿秀遠が、社殿を造営、その後も尚武の神として、大内、小早川、黒田、と城主、国主により五度、社殿は造営された。当神社は元は、水巻の庄数か村の産土神であったが、遠賀川の改修工事(1628年)により分村、分霊して、今では立屋敷区だけの神社となっている。境内の大銀杏樹は、日本武尊のお手植えと伝承、樹齢千九百年、県指定の天然記念物で、昔から祈願してこの樹皮を煎じて飲めば母乳が出ると伝えられ「乳の神様」と近郷はもとより遠方からも多くの参拝があり、今も祈願者がある。社宝として、壇の浦の源平合戦の戦勝祈願に、山鹿秀遠が奉納した県内最古の「木造の狛犬と随神像」があり、共に町の文化財に指定され「水巻町歴史資料館」に展示されている。

上記由緒の「御館大明神」までは北九州の武人の話であり、後に「八剱大明神」と改称された以降(注:厳密には山鹿秀遠が、社殿を造営云々以降)は尾張の日本武尊になりそうです。注目すべきは、文治元年(1185年)山鹿城主の山鹿秀遠が社殿を造営し、その後も尚武の神として云々、と書かれた部分です。

1185年と言えば、源範頼が本城に剣大神(日本武尊)を勧請したのと全く同じ年。一方、立屋敷の八剣神社は日本武尊(=北九州の武人)の仮宮跡に祠を築き、御館大明神として祀ったのが始まりでした。そして時代も下った1185年、源平合戦の最終ステージとなる壇ノ浦の戦い(同年4月25日)より少し以前に、山鹿秀遠が社殿を造営した(実質的に創建した)ことになりそうです。山鹿秀遠に関しては以下Wikipediaより引用します。

山鹿 秀遠(やまが ひでとお、生没年未詳)は、平安時代末期の武将。筑前国遠賀郡山鹿の豪族。通称は兵藤次。『平家物語』「大宰府落」で、都を追われた平氏一門が九州へ逃れて来ると、平家から源氏方に転じた緒方惟栄に追い払らわれ、平家の家人であった秀遠と原田種直が軍勢を率いて迎えに参じたが、両者の不和のため、種直は引き返している。秀遠に伴われた平氏一門は一時秀遠の山鹿城に立て籠もったが、敵が攻めてくるとの知らせで再び海上へ逃れた。『平家物語』では秀遠は九州第一の精兵とされ、壇ノ浦の戦いで平家方の大将軍として軍船を率いて奮戦した。戦後、所領は没官となった(『吾妻鏡』文治元年12月6日条)。

彼の城は遠賀川河口の山上にあります。Wikiを見ただけでも、平家方の大物と理解されますね。問題は、平家方の山鹿秀遠が戦勝を祈願するため立屋敷の八剣神社を実質的に創建し、尚武の神・御館大明神(=日本武尊)を祀った点です。(注:検討の都合上、御館大明神を尾張の日本武尊と同じと一旦仮定しておきます)

対する源氏方の源範頼も、戦勝を祈願するため熱田神宮から剣大神(=日本武尊)を勧請して本城の八剣神社を実質的に創建しました。立屋敷と本城の八剣神社を別々に検討していれば多分何も見えてこないでしょうが、こうして並べると何となく違和感を覚えませんか?そう、本城八剣神社と立屋敷八剣神社の由緒にそのまま従えば、敵対する双方が同じ祭神の日本武尊に戦勝を祈願すると言う実に珍妙な状態となってしまうのです。神様もどちらに味方したらいいのか、さぞ困り果てたのではないでしょうか?

そもそも遠賀川流域の八剣神社は本城が本社であり、立屋敷八剣神社もここから分祀されたはずなのに、立屋敷側の由緒によれば実質的創建は源範頼に敵対する人物・山鹿秀遠だったとは…。どうこの矛盾した内容を整理・再構成すればいいのでしょう?実に悩ましいところですが、少し視点を変えれば謎の解明は比較的容易なように思えます。

山鹿秀遠が社殿を造営して祀ったのは北九州の武人としての御館大明神。そこに壇ノ浦の戦いで勝利した源氏方の源範頼が、尾張・熱田神宮の日本武尊(剣大神)を本城の八剣神社から分祀し上書きしてしまった、と考えればいいのです。源範頼が鎌倉に帰還したのは1185年の10月ですから、4月25日の平家滅亡後にそうした手配をする時間は十分にあったものと思われます。由緒に書かれた、後に「八剱大明神」と改称。との文言はその上書きの証拠とも言えそうです。一方、北九州の武人の妃となる砧姫は、影響が少ないと判断されたのかそのまま残した形になり、祭神の一柱となりました。

上記したストーリーなら、立屋敷八剣神社に関連する謎は解けることになりますし、熱田神宮からの勧請が宗教面における北九州統制強化の一つとする酔石亭主の視点も合理的なものとなってきます。また本城八剣神社から立屋敷八剣神社までは直線距離でおよそ5㎞。交通的にも行きやすい場所となっています。これだけ状況証拠が揃えば、立屋敷八剣神社が本城から勧請された可能性はかなり高そうです。

残る問題は、立屋敷八剣神社の由緒に熱田神宮の祭神を勧請した記述がない点です。そこで「太宰管内志」(江戸時代の編纂)をチェックしたところ、祭神は尾張國熱田宮を勧請せり、と記載ありました。やはり立屋敷八剣神社は本城から分祀されたと見て間違いありません。「太宰管内志」のコマ番号は277となるので以下を参照ください。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/766660

以上、立屋敷八剣神社の検討においても、北九州版日本武尊と尾張、大和版日本武尊は別人(別の神)であったと確認されました。また本城八剣神社の由緒に、八剱神社は、本城を本社として付近周辺合わせて十数社をかぞへる。と書かれ、遠賀川流域に鎮座する各八剣神社は本城から分祀されている点も、「太宰管内志」の記事により一定程度証明されました。もちろんこれだけではなお不十分なので、引き続き調査していく必要はあります。

注:立屋敷八剣神社には草薙神剣盗難事件関連の伝承も残されていますが、これは後の回で検討します。

        尾張と遠賀川流域の謎を解く その17に続く

尾張と遠賀川流域の謎を解く その15


前回の検討で、北九州版日本武尊と尾張、大和版日本武尊が別人(別の神)であり、遠賀川流域に鎮座する八剣神社は基本的に本城の八剣神社より分祀されたものであるとほぼ確認されました。もちろん一社を検討しただけで断定などできないので、その基本原則が今回訪問の立屋敷八剣神社にも適用できるかどうか調査したいと思います。同社鎮座地は遠賀郡水巻町立屋敷3丁目13。早速行ってみましょう。


鎮座位置を示すグーグル画像。

実はグーグル画像の下部に位置するのが立屋敷遺跡で、遠賀川式土器の発祥地とも言える場所です。

DSCN1122_convert_20170812083225.jpg
現在は遺跡を示す看板があるだけです。

DSCN1123_convert_20170812083320.jpg
遠賀川の流れ。

立屋敷遺跡の発掘は昭和6年(1931年)で、遺跡は現在川の底とのことです。この場所で発見された弥生式土器こそがかの有名な遠賀川式土器であり、稲作文化の東への伝播を示すものとして重要視されてきました。ただ、現時点で川の底となっている場所が弥生時代どうなっていたのか何とも言えません。そうした点は別にしても、遠賀川式土器の東限である尾張各地を見てきた酔石亭主にとっては、ようやくその始まりの地に至った訳で、感慨深いものがあります。立屋敷遺跡に関しては以下の水巻町ホームページを参照ください。
https://www.town.mizumaki.lg.jp/town/outline/hst_01.html

では八剣神社に行ってみましょう。

DSCN1113_convert_20170812083409.jpg
鳥居です。扁額には八劔宮とあります。

DSCN1114_convert_20170812083508.jpg
境内と拝殿です。比較的狭い。

DSCN1124_convert_20170812083605.jpg
本殿。

DSCN1119_convert_20170812083708.jpg
境内の大イチョウ。真っ先に目に入ります。

DSCN1121_convert_20170812083754.jpg
幹の太さが見て取れます。

推定樹齢が1900年、高さ22.26m、幹周り9.7mとのことです。根元から4本の幹に分岐しています。樹齢1900年は記紀紀年における景行天皇の年代から推定したものであり、実際とは大きく異なります。

DSCN1115_convert_20170812083852.jpg
石柱。

日本武尊が景行天皇の43年(記紀紀年で西暦113年)に崩御されたのを悼み、砧姫(きぬたひめのみこと)が祠を建て、尊を祀られたのがこの神社の始まりとのことです。二人はどんな関係だったのでしょう?日本武尊は熊襲征伐のためこの地を訪れ、讒言により都からこの地に逃れてきた砧姫命と言う美女に出会い、結ばれました。けれども、日本武尊は熊襲征伐に旅立たねばならず、別れ際に姫への愛の証しとしてイチョウの木を植えたとか。実にほほえましい内容ですが、この話は日本武尊と宮簀媛命のロマンスにも通じるものがありますね。

ただ、日本武尊のお手植え話は伝説に過ぎません。同社鎮座地は遠賀川の堤防下であり、現時点でも遠賀川の水面と同じようなレベルの場所となってしまいます。景行天皇当時の水面(海面)がどのようなものかわかりませんが、陸化していたとしても湿地帯と思われ、樹木を植えるのには適さない場所となるでしょう。また他にも問題があります。

八剣神社のイチョウはイチョウに限った巨木ランキングで66位。日本における最大級のイチョウでも推定樹齢は1000年から1100年とされています。その倍近い樹齢のイチョウが66位のはずがありません。そもそもイチョウが中国で広まったのは11世紀。日本への伝来は諸説あり、早くても鎌倉時代で、室町時代まで下るとの説もあります。よって、樹齢1900年はあり得ない話となってしまうのです。同社の場合も本城八剣神社と同様に、実質的創建は1185年ですから、その時点なら多少の可能性がありそうだと言ったところでしょうか?

水巻町のホームページによれば、同じ遺伝子のイチョウが韓国や島根県に所在し推定樹齢は600年以上とのことなので、八剣神社のイチョウもこれらとほぼ同じと考えられそうです。水巻町のホームページは以下を参照ください。
https://www.town.mizumaki.lg.jp/town/outline/hst_02.html

今回はイチョウの巨木を検討しただけで、北九州版日本武尊の時代が景行天皇期ではないと確認されました。では、遠賀川流域に数多くの伝承を残している北九州の武人は、いつの時代の人物なのでしょう?それは今後の検討課題になりますが、後代になって日本武尊に接合された北九州の武人が存在していたこと自体は否定できないと思われます。同社の由緒に関しては次回で詳しく検討します。

       尾張と遠賀川流域の謎を解く その16に続く

尾張と遠賀川流域の謎を解く その14


今回は本城に鎮座する八剣神社の由緒を見ていきます。

DSCN1241_convert_20170810131158.jpg
由緒です。

DSCN1242_convert_20170810131242.jpg
由緒の続き。やや長いものの、非常に明快なので以下に書き出してみます。

八劍神社御由緒
御祭神 日本武尊(紀) 倭建命(記)
八剱神社は、本城を本社として付近周辺合わせて十数社をかぞへる。当神社の御由緒については、「筑前続風土記拾遺筑陽記筑前早鑑記太宰管内誌」にでたり。

伝えられる、次の二説がある。

「第十二代景行天皇の御代、日本武尊が熊襲征伐の折り、この地に立ち寄られた。又、神功皇后も、この地で神祇を奉り武運の長久を祈られた。かかる霊地として、第六十四代円融天皇の貞元元年丙子(九七六年三月)に、祠を建て日本武尊を奉斎した。」

「三河守範頼が、この地に本城を築いた折り、平家追討の戦い安らかなるを祈願するため、下河辺庄司、渋谷庄司の両名に命じて、尾張(名古屋)熱田神宮より劔大神を勧請して奉祀した。」

「今に至っては、いずれを創始とするか明らかではないが、ただ、この地に貝塚や多くの古墳が発見されていることから、既に、古代より人々の集落が形成され、又我が国の神社信仰の形態が皇室の祖先神人格神を祭神として奉祀し五穀豊穣鎮護国家を祈願してきたことからすれば、この地も、古い時代から至極当然のことであったと考えられる。そして、その祠は、源範頼がこの地に本城を築城した際に、御神殿を造営し、御祭神を勧請したと見るべきであろう。」
即ち、八劔神社の創祀は、貞元元年(976年)であったと考えられるが、それより以前に古代の人々が、劔大神を祭っていたのではないかと思われる。…以下略。


本城八剣神社の由緒により、源範頼が熱田神宮から剣大神(日本武尊)を勧請した点は確認されました。ややこしいと思った割には案外あっけなかったですね。そして由緒に書かれた二説こそが、酔石亭主の見解を裏書きするものです。すなわち当初は北九州の武人(記紀の日本武尊に擬せられた人物)が特に社名のない祠にて祀られており、1185年に源範頼が尾張の熱田神宮から剣大神(日本武尊)を勧請した結果、元の北九州の武人を祀る祠が上書きされて八剣神社になったのです。従って、二説はどちらも正しいことになります。

問題は、「八劔神社の創祀は、貞元元年(976年)であったと考えられるが、それより以前に古代の人々が、劔大神を祭っていたのではないかと思われる。」と書かれた最後の部分です。この場合の剣大神とは北九州の武人(としての日本武尊)と解釈すべきでしょう。仮に976年より以前に古代の人々が祀っていた剣大神が熱田神宮の日本武尊と同じだとしたら、源範頼が新たに勧請する必要など何もなく、既にある剣大神に戦勝祈願すればいいだけの話となってしまいます。源範頼が新たに尾張から剣大神(日本武尊)を勧請したのは、北九州の武人と尾張の日本武尊が別人(別の神)であることを知っていたからに他なりません。

本城八剣神社を検討しただけで、北九州版日本武尊と尾張、大和版日本武尊が別人(別の神)であると確認されました。この点は今後の検討にとって重要なので、ご留意ください。

もう一つ重要な点があります。それは、由緒の初めにある「八劔神社は、本城を本社として付近周辺合わせて十数社をかぞへる。」との記述です。「その11」で書いたように八剣神社の系統だけで10社以上はありそうで、剣神社も史料によって八剣神社と書いているものもあります。ここから何が見えてくるでしょう?

そう、遠賀川流域に鎮座する八剣神社は基本的に本城より分祀されたものと確認されるのです。例外はあるものの、当初北九州の武人を祀っていた遠賀川流域の各社(各祠)は、熱田神宮の剣大神(日本武尊)によって上書きされ、その結果八剣神社と称されていることになります。尾張から勧請された年代は源範頼が北九州に来た1185年であり、目的は源氏側による北九州統制強化の一環だったと考えられます。剣神社の場合はどうでしょう?剣神社各社に関しても同様に、尾張や大和からの影響を受けていそうですが、その時代は異なるはずなので後の回でじっくり検討する必要があります。

今回は短い記事の割に内容の濃いものとなりました。中山八剣神社など幾つかの例外は別途考えるとして、本城八剣神社の検討から導き出された重要事項を以下のように纏めます。

北九州版の日本武尊と尾張、大和版日本武尊は別人(別の神)である。
遠賀川流域に鎮座する八剣神社は基本的に本城の八剣神社より分祀されたものである。
当初北九州の武人を祀っていた遠賀川流域の各社(各祠)は、熱田神宮の剣大神(日本武尊)によって上書きされた結果、八剣神社と称することになった。
この上書きは源氏側による宗教面での北九州統制強化が目的であったと考えられる。

上記の纏めは一社を見ただけの結果であり、まだ断定するには至りません。それが他の八剣神社にも当てはまるのか調査し確認する必要があるのです。と言うことで、次回は立屋敷の八剣神社に行ってみましょう。それにしても、遠賀川流域に鎮座する一社の検討が終わっただけなのに既に14回を数えるとは、この先どんな展開となるのでしょうね?尾張と遠賀川流域を繋ぐ壮大なストーリーの行き着く先は予想もつきません。 

           尾張と遠賀川流域の謎を解く その15に続く

尾張と遠賀川流域の謎を解く その13


今回は福岡県北九州市八幡西区本城2丁目1番56号に鎮座する八剣神社を見ていきます。検討課題は源範頼がここに熱田大神を勧請したかどうかです。とても興味深いので、早速行ってみましょう。


鎮座地を示すグーグル地図画像。主要道路となる199号線脇に鎮座しています。

DSCN1236_convert_20170809080610.jpg
鳥居です。八劔神社との表記になっています。

DSCN1237_convert_20170809080717.jpg
楠の巨木がありました。

DSCN1238_convert_20170809080820.jpg
木がコンクリの支柱を咥え込んでいるように見えます。

人の顔のようにも見えてしまいます。珍百景になるかもしれません。

DSCN1239_convert_20170809080918.jpg
石柱の咥え込み具合が凄い。

DSCN1240_convert_20170809081017.jpg
石段と鳥居。

DSCN1245_convert_20170809081121.jpg
拝殿。

DSCN1246_convert_20170809081158.jpg
本殿。

DSCN1247_convert_20170809081258.jpg
地神とあります。古い石祠だったようです。他に何社かの境内社もありました。

今回は同社の紹介のみとして、由緒の検討は次回とします。

       尾張と遠賀川流域の謎を解く その14に続く

尾張と遠賀川流域の謎を解く その12


前回で剣神社と八剣神社はどう違うのかとの問題を提起しました。違いが発生しそうな理由として、祭神や由緒、鎮座位置などが挙げられるはずです。この疑問を追求するため、まず各神社の祭神から検討していきましょう。遠賀川流域において八剣の名を冠する神社の多くが、祭神を日本武尊としています。一方、剣の名を冠する神社の多くは、後で詳しく見ていきますが、祭神は素戔嗚尊、日本武尊、宮簀媛命になっています。(注:中山八剣神社や、かつて八剣神社或いは八剣大明神、八剣宮と称したらしい熱田神社は上記3神を祀っており、実態は剣神社だった可能性もあります。いずれにしても、かなり錯綜しているようなので後で個別に検討します)

素戔嗚尊、日本武尊、宮簀媛命は全て熱田神宮・本宮において相殿神として祀られています。もちろん、素戔嗚尊と日本武尊に関しては北九州に独自の伝承があります。けれども宮簀媛命に関しては、活動範囲が年魚市潟周辺の、熱田、松炬島(現在の笠寺)、大高に限られており尾張以外に何の伝承もありません。従って、宮簀媛命は間違いなく尾張から勧請された神となります。(注:遠賀川流域で宮簀媛命が祀られた背景や意味は後で検討します)

000184157_convert_20170723071826.jpg
デジタル標高地形図を再掲。
地形図の象の鼻のような形の先端部が熱田神宮、その右斜め下の芋のような島の形が松炬島、松炬島の年魚市潟を挟んだやや西寄りの南側が大高となります。

宮簀媛命は尾張から勧請されたとの前提で考えれば、剣、八剣の名を冠する各神社の祭神(日本武尊と宮簀媛命)は尾張から勧請され、既に北九州で崇敬されていた武人(北九州版日本武尊)の伝承に上書きされた可能性が高くなります。これは単なる想像ではなく、特定の神社では上書きされた年代も明らかとなっています。

例えば新北に鎮座する熱田神社は金川宮司家の史料によると祭神は素戔嗚尊、日本武尊、宮簀媛命となっています。(注:その他の祭神は別グループとなるのでここでは無視します)この神社は1185年に尾張国の熱田大明神を勧請しています。従って、他の剣神社や八剣神社も同様に尾張の熱田社(現在の熱田神宮。以降は熱田神宮で統一します)から勧請された可能性が浮上してくるのです。(注:あくまで大雑把に捉えた可能性であり、詳しくは個別に検討します)

こう書けば、熱田神社はともかくその他の神社は熱田神宮から神様を勧請などしていないし、そんな由緒は存在しない、1185年では時代が新しすぎるので参考にならないとの反論も出てくるはずです。ややこしいので、順次問題を整理していきましょう。この問題を解く最初の鍵は1185年にあります。1185年はどんな年なのでしょう?そう、源平合戦に源氏が勝利して平安時代が終わり鎌倉時代の幕開けとなった年ですね。

熱田神宮は織田信長が今川義元と桶狭間で戦う際、戦勝を祈願した神社で、現在の主祭神・熱田大神は草薙剣を御霊代・御神体としてよらせられる天照大神のことだ、となっています。けれども、熱田大神とは本来草薙神剣(或いは日本武尊)とすべきです。さもなければ、信長が戦勝祈願などするはずがありません。同様に平家と戦った源氏も熱田大神に戦勝祈願したのではないでしょうか?

問題は1185年における戦いの場が信長のように尾張・三河の範囲内ではなく、遠く離れた九州である点です。その場合、彼らは熱田大神の分霊を九州の地まで持ち込んで祀り、そこで戦勝祈願することになります。1185年に北九州に遠征した人物と熱田大神の分霊を祀った神社を特定し、例えばその神社からさらに分祀されたのが遠賀川流域に鎮座する八剣神社や剣神社だとの流れが出てくれば、酔石亭主の見解はある程度正当性を持つものとなるでしょう。

と言うことで、まず源平合戦に出てくる人物を当たってみました。熱田から熱田大神を勧請できるなら、当然大物でなければならないはずです。ざっと見渡してみると、いましたよ。 源頼朝の異母弟にして、源義経の異母兄となる三河守範頼(源範頼、みなもとののりより。以降は源範頼と表記します)で、遠江国蒲御厨(現静岡県浜松市)にて生誕したとされます。範頼は尾張のお隣である三河に関係している点からも有力候補となり得ます。

彼は寿永4年(1185年)頼朝から平家追討の命を受け北九州に入り、本城の蛭子谷に陣を置いたとされます。「筑前国風土記拾遺」に、「参河守範頼陣されし所」と記されていることからもそれが確認されます。(注:1185年は寿永、元歴、文治の元号が重なっているのでややこしく、以降は単に1185年とだけ表記します)

さて、範頼が本城の蛭子谷に陣を置いたとすれば、そこに尾張から熱田大神(草薙神剣の剣霊或いは日本武尊)を勧請したはずです。でも、遠江国蒲御厨(現静岡県浜松市)で生まれて三河守となった源範頼が、どんな理由により尾張の熱田神宮を北九州に勧請したのでしょう?その答えを得るには彼の経歴を知る必要があります。既に別の記事で書いていますが、範頼は源義朝の六男で、兄の頼朝とは異母兄弟の関係となります。源範頼は頼朝と同様に熱田神宮の大宮司である藤原季範の手で養育されました。

源頼朝の母親は藤原季範の娘・由良御前とされ、彼女は出産のために熱田神宮の鎮座する熱田に帰り、熱田神宮の隣にある誓願寺にて源頼朝が誕生しています。それらの関係がベースにある以上、源範頼が熱田神宮を北九州に勧請し平家との戦いにおける勝利を祈願したのは必然であったと言う他ありません。誓願寺に関しては「熱田神宮の謎を解く その3」にて書いていますので参照ください。門以外に何もないような雰囲気であるのが残念です。

源範頼は本城の蛭子谷に陣を置いたとされますが、具体的にはどこになるのでしょう?前回で数多くの剣神社、八剣神社鎮座地を調べており、その中に該当するものがあるはずです。本城の蛭子谷と言う地名をヒントに考えると、現在の北九州市八幡西区本城が該当しそうです。ここには、「その11」で書いたように八剣神社が鎮座していました。1185年当時の地名がそのまま現在まで残っていたので、簡単に行き着けましたね。


北九州市八幡西区本城の位置を示すグーグル地図画像。八剣神社の表示があります。

この神社に源範頼が関与していれば一件落着となりそうなので、期待が高まります。

         尾張と遠賀川流域の謎を解く その13に続く
プロフィール

酔石亭主

Author:酔石亭主
FC2ブログへようこそ!

最新記事
カテゴリ
最新トラックバック
月別アーカイブ
カレンダー
07 | 2017/08 | 09
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -
天気予報

-天気予報コム- -FC2-
最新コメント
FC2カウンター
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
QRコード
QRコード
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる