名古屋散策 その6


城山八幡宮の境内を続けます。まずは前回でアップした境内図にある昭和塾堂に行ってみます。

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何か古い建物が…。これが塾堂?

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正面から撮影。

養心殿とあり、武術関連の道場のようです。

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昭和塾堂です。昭和と言っても初期の雰囲気です。概要は以下Wikipediaより引用。

1928年(昭和3年)に、愛知県が城山八幡宮の境内を借り受け建設されたもので、青年会などの精神修養の場として使用されていた。戦時中には陸軍の東海軍司令部として使用されていたほか、戦後は、名古屋大学医学部基礎医学系諸教室や、愛知県教育文化研究所、千種区役所仮庁舎などを経て現在は愛知学院大学大学院歯学部研究棟として使用されている。名称は当時の愛知県知事である柴田善三郎が命名したものである。

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塔の部分。では城山八幡宮に向かいましょう。

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神門と社殿。

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拝殿です。

緑溢れる木々と青空を背景にいい雰囲気を醸し出しています。

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解説板。画像サイズを大きくしています。

城山八幡宮を見終わり散歩を続けます。

名古屋散策 その5


桃厳寺を辞して名古屋市千種区城山町2-88に鎮座する城山八幡宮に歩きながら向かいます。まあ大した距離ではありませんが…。この場所は桃厳寺を創建した織田信行の居城・末森城があった場所です。


鎮座地を示すグーグル地図画像。

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途中の立派なお宅。屋根の重なり具合が凄いですね。

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鳥居と背後の森を遠望。いい雰囲気です。

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鳥居です。街中なのに奥深い感じがします。

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解説板。

信長が世に出る前の名古屋における織田家は、現在の名古屋城二の丸に位置する那古野城(1532年に勝幡城の織田信秀が今川氏豊から奪った。信長はここで生誕したとされる)、この末森城、古渡城(1534年、織田信秀により名古屋市中区に築城された)が拠点となっていました。なお、勝幡城は津島市に近い稲沢市にありました。末森城に関しては以下Wikipediaより引用します。

末森城(すえもりじょう)は、室町時代末期、尾張国愛知郡鳴海荘末森村(現・愛知県名古屋市千種区城山町)にあった日本の城である。縁起の良い名ということで末盛城とも書かれた。天文17年(1548年)、織田信秀が築城した。三河国松平氏や駿河国今川氏などの侵攻に備えてのもので、実弟織田信光が守る守山城と合わせて東方防御線を構成したものである。信秀は、城主に織田信行(信勝、織田信長の実弟)をあてていたが、自らが古渡城から移り、天文20年(1551年)にこの末森城で死去したとも伝わる。


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空堀跡。

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空堀を越えるとまた鳥居です。

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境内図。境内をぐるっと取り巻いて堀があります。

城山八幡宮に関しては以下Wikipediaより引用します。

この地域一帯は、江戸時代以前は尾張国愛知郡末森村といわれていた。500年以上前より楠という字(現在の千種区春里町)に八幡社が鎮座していたが、織田信行が白山比咩神社を勧請して以来末森城址にあった白山社、ほか末森村内の浅間社、山神社、一ノ御前社を明治41年(1908年)に合祀し、改めて創建となった。
明治45年(1912年)、末森城跡地が八幡社の所有地となり、昭和11年(1936年)に現在地に遷座した。昭和31年(1956年)に現在の城山八幡宮に改称した。


同社の歴史自体はそれほど古くはなさそうです。


名古屋散策 その4


弁財殿から屋上に行けるそうなので、行ってみます。

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外廊下を見下ろします。

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仏塔のような建物がありました。

中は何やら祀られています。

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蛇が二匹。白竜霊神だそうです。

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これは何とも…。

マラ仏、いやラマ仏だそうです。東南アジアなどにありそうな原始的な木彫りの彫刻で、かなり奇怪な造形ですが、これも仏様です。

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女性像。

こちらも局部を彫り込んであり、何とも言い難いものがあります。桃厳寺に関しては以上ですが、田縣神社に似通った雰囲気もありました。同社は以前にアップしていますので以下を参照ください。こちらは特に拝観料はありません。
http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/blog-entry-1087.html

自宅に帰り開運のお守りを開けてみました。

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お守り。

十五童子とありますので、やはりこのお寺ではリンガを最重要視しているのでしょう。その中には小さな金色のリンガがありました。

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金色のリンガ。

写真は立てて斜め上部から撮影していますので、太く大きく見えますが、実際には非常に細く小さなものです。酔石亭主にとって必要不可欠かどうか何とも言えませんが、お守りとして大切にしたいとは思っています。

名古屋散策 その3


桃厳寺を続けます。

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境内です。今は夏を思わせる気候ですが、訪問時はまだ肌寒い感じでした。

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蔵でしょうか。

本堂に向かいますが本堂の撮影を漏らしてしまいました。本堂の中には巨大な木魚があるものの、これも撮影はしていません。ご住職に拝観料千円を払い、開運のお守りを頂いて本堂脇から弁財殿に向かいます。さぞ多くの弁財天が鎮座ましましているのでしょう。もちろんその眷属たる15童子たちも…。

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回廊的な外廊下。

外廊下を渡って弁財殿に入ると…。

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豊満な胸をあらわにしたねむり弁天です。

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こちらも弁財天。

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眷属の印鑰童子(いんやくどうじ)と牛馬童子(ぎゅうばどうじ)。

紗を通しての撮影なので不明瞭な点ご了承ください。各リンガに墨でそれぞれの名前が書かれています。奥側の最も大きな印鑰童子の本地は釈迦如来で、本来なら右手に宝珠、左手に鍵(鑰)を持っておられるはずですが、ご神体と化していますのでそれらは見られません。なお、神社としての印鑰社に関しては、尾張氏の謎解きの中で書いていますので以下を参照ください。
http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/blog-entry-1947.html

手前側の牛馬童子の本地は薬王菩薩で牛馬を牽く力強さを示しています。写真を見ると別の意味でも実に力強く感じますね。ここには数多くのご神体が鎮座しており、秘宝館のような雰囲気となっています。けれども、その本地は釈迦如来など由緒正しい仏様たちなのでお間違いなきよう願います。

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巨大なリンガ。これは眷属名が書かれていません。裏にあるかも…。

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まだまだあります。

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随分アクロバティックな姿勢で交合しておられます。

これは秘宝館的ではないかと思わざるを得ないのですが、以下のような張り紙がありました。

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張り紙。上の画像は張り紙に書かれた尊厳性が伴っているのでしょう。

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八臂の弁財天。

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拡大します。

写真では不明瞭ですが頭の上で蛇がとぐろを巻いています。宇賀神系の弁財天と考えられますね。神名の「宇賀」は宇迦之御魂神(うかのみたまかみ)に由来するとされます。宇賀神は天台宗に取り入れられて弁財天と習合されました。

名古屋散策 その2


今回は桃厳寺境内にある名古屋大仏を見ていきます。この大仏の名古屋における知名度はどの程度か知りませんが、有名なのは東大寺と鎌倉の大仏であり、以前にご紹介した岐阜市の大仏、東海市聚楽園の大仏、そしてこの名古屋大仏も全国的にはほとんど知られていないと言っていいでしょう。ただ、岐阜の大仏も聚楽園の大仏もその像容は有名大仏と似通っています。一方、なぜか名古屋大仏だけは他と異なっているのです。その違いを見るのも面白いので早速行ってみましょう。

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まず目に入るのは巨大な仏の手。

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名古屋大仏です。

昭和62年(1987年)に建立された青銅製の大仏で、全高15m(本尊の高さ10m 台座高さ5m)となっています。全く現代の大仏と言っていいでしょう。建立後、短期間で大仏の表面が劣化したのか、2006年に緑色に塗り替えています。

では、名古屋大仏が他と異なっている点を見ていきましょう。基本的に大仏の台座は蓮の花(蓮弁)となっています。東大寺の大仏も蓮ですね。鎌倉大仏は蓮ではないように見えますが、江戸時代の修復の際蓮の台座を作る予定だったのに、製作費用がかさみ、寄進者も少なかったので中止となってしまったものです。完成した32枚のうち4枚の蓮弁は大仏の背後に設置されています。ところが、名古屋大仏の場合10頭の象が本尊を支え、台座の正面は僧侶と鹿の像が配置されているのです。大仏下の平たく薄い台部分に彫り込まれているのが蓮でしょうか?

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台部分と象さんを拡大。

次に変わっているのはその色です。まるで半魚人のような緑色で違和感があります。なぜこのような色を塗ったのか知りたいですね。もっとも違和感があったのはそのお顔です。

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上半身を撮影。

大仏のお姿に何か怖さが感じられませんか?一般的に大仏の目は半眼(はんがん)となっています。これは目を見開いてもなく閉じてもいない状態を言います。多分仏様は目と言う器官だけでなく額の白毫(びゃくごう、透視も可能な第三の目)を駆使しているから半眼なのでしょう。また半眼だと優しい雰囲気が醸し出されます。鎌倉大仏はその典型ですね。ところが、名古屋大仏は怖さを感じさせるのです。唇が分厚いためかもしれませんが、酔石亭主はその目が気になります。

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お顔の画像。画像サイズを大きくしています。

いかがでしょう?名古屋大仏には黒目部分がない。森羅万象を心眼で見ているのでしょうか?金箔を施す前は黒目があったのかもしれませんが、確認できません。(黒目の跡がうっすら見えるような気がしないでもありません)工事する際全部金箔で覆ってしまったのかも…。多分黒目部分がないため、その容貌が怖さを感じさせるものになっているのではないでしょうか?

鎌倉大仏の場合も目が閉じる一歩手前程度なので、黒目部分はほとんど見えていませんが、それにもかかわらず優しい眼差しではあります。名古屋大仏の場合、半眼と言うほど目は閉じておらず、しかも全体が金色なので違和感があり、怖い感じにつながっているのではと思われます。大仏の目に焦点が当たってしまいましたが、東大寺の大仏の目に関しても、以下のような面白い伝説があります。

完成間近となった大仏に片方の目が入っていないと職人たちが気づきます。職人が片方の目玉を担いで大仏の顔に登り、空洞状態の目の中に入って内側から目玉をはめ込みました。そうなると、職人は大仏の顔の中に閉じ込められてしまいます。これは困ったと仲間の職人たちは頭を抱えました。すると閉じ込められたはずの職人は、鼻の穴から抜け出したのです。職人の賢さに仲間は拍手喝采。これが「目から鼻に抜ける」の語源となったのでした。

別バージョンは江戸時代まで下ります。ある日、大仏さまの目玉が抜け落ちて、どこヘいったかわかりません。そこでお坊さんたちは新たに目玉を造り大仏の目に嵌めようと考えました。ところが新たな目玉を造り次に足場を組んで大仏の目に嵌めこむと、莫大な費用が掛かります。値引きさせたいお坊さんと工事の親方の交渉は行き詰ってしまいます。それを見た江戸の男が、安く請け負おうと言いました。彼は抜け落ちた目玉が見つからないのは、大仏の中に落ちたからで、それを拾って嵌め直せばいいと考えたのです。

男が大仏の目から中に入って探すと、案の定目玉は大仏の中にありました。男は目玉を担ぎ上げ(大仏内部の下に落ちたものをどうやって担ぎ上げるの?大きな目玉を担いで柱や横木を猿のように登れるのでしょうか?)、大仏の中側から目に嵌めこんだのです。それを見ていたお坊さんや親方たちは、目玉を嵌めた後どうやって出てくるのだと騒ぎ始めます。すると男は大仏の鼻の穴からするりと出てきました。みんなは感心して、目から鼻へ抜けたと男を褒め称えました。これが、非常に利口で賢いさまや、物事の判断がすばやく抜け目のないさまを意味する「目から鼻へ抜ける」の語源となったのです。

さてはて、どちらが本当なのでしょう?東大寺の大仏は戦国時代の戦火で溶け崩れ、江戸時代に再建されたので江戸時代の話が正しそうです。ただ、江戸時代における大仏再建の技法がどのようなものだったのか酔石亭主には知識がありません。例えば頭部を造るのに、目玉だけ後ではめ込む、頭部全体を一体成型する、のどちらだったのでしょう?また鼻の穴にしても、子供が通れる程度の小さなもので、大人では通り抜けられないようです。大仏内部に落ちた目玉を担ぎ上げるのも簡単ではなさそうです。様々な難点をクリアできるか不明である以上、答えは出せません。江戸時代の話も伝説的なものとするしかなさそうです。
プロフィール

酔石亭主

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