尾張と遠賀川流域の謎を解く その57


今回は直方市大字頓野1541-2に鎮座する近津神社を見ていきます。宿泊したホテルに近く、日本武尊の伝承も残されているため訪問したものです。


鎮座地を示すグーグル地図画像。

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遠賀川に架かる日ノ出橋からの光景。

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向かい側から道路越しに撮影。

道路沿いにもかかわらず、ここだけが別世界で、かなりの神域感がある神社でした。向かいのコンビニに駐車させましたが、千円以上の買い物をしているのでお叱りを受けることはなさそうです。

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朱塗りの橋の前から撮影。

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鳥居と境内。

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拝殿です。

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本殿。

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ちゃんとした解説石板もありました。内容は以下。

祭神 伊弉諾大神、伊弉册大神、軻遇槌(かぐつち)大神

景行天皇平定より八年後(西暦七十九年)熊襲征討のため入国した日本武尊(ヤマトタケルノミコト)は、土豪大兄彦が献じた御神器の弓矢をこの地に鎮祭した。玉体を近くに守り給うとの意をもって近津大神と稱し、又戦に千度勝つようにとの願いをこめて千勝社とも呼ぶ。主祭神の伊奘諾命・伊奘冊命は健康長寿の神として、又軻遇槌大神は火の神として昔より多くの人たちの信仰を集めている。境内には直方藩主黒田長清の歌碑や当地名発祥の源となった十堂像も祀られている。社殿は慶長元年(一五九六)雷火のため焼失、寛文13年(一六七三)に再建され、その後大正十四年現在の神殿・拝殿を新築した。

既に書いたように日本武尊(実態は北九州の武人)は5世紀の人物で、西暦79年はあり得ません。けれども、遠賀川流域には数多くの伝承が残され、古くから地元民の崇敬を得ています。

             尾張と遠賀川流域の謎を解く その58に続く

尾張と遠賀川流域の謎を解く その56


遠賀川の堤防道路を走っていたら、堤防上に大きな二本の銀杏がありました。また堤防脇には神社があるらしく、樟の巨木が何本も見られます。これは何だろうと思い、急遽立ち寄ることに…。解説板を読んだところ室町時代に創建されたと思われる扇天満宮でした。鎮座地は北九州市八幡西区木屋瀬三丁目5番。


鎮座地を示すグーグル地図画像。

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堤防上の大銀杏。

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境内の楠。巨木とまでは言えませんが何本もあります。

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近くで見ると大きいですね。

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境内。残念ながらあまり手入れはされていないようです。

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拝殿と社殿。

コンクリ製の吹き抜けの拝殿です。こうした形態は珍しい。

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解説板。

創立は観応元年(1350)以前にさかのぼり、当時は久保崎天神と言っていたとのこと。室町時代の連歌師飯尾宗祗が当地に泊まり、天神と名乗る男から扇をもらう夢を見た後、実際に大宰府で扇をもらったことから、扇天満宮と呼ぶようになったそうです。大正6年(1917)の遠賀川土手改修のとき、神社は大銀杏の位置から現在の地に移されました。ちゃんとした由緒もあるので、社殿をもう少し考えていただければと思います。

           尾張と遠賀川流域の謎を解く その57に続く

尾張と遠賀川流域の謎を解く その55


今回は六嶽神社の近くに鎮座する十六神社をご紹介します。巨大な御神木はあたかも神社を守っているかのようでした。


十六神社の位置を示すグーグル地図画像。

鎮座地は鞍手郡鞍手町八尋489。地名の八尋は非常に長いことや大きいことを意味しますが、何に由来しているのでしょう?

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楠の御神木。幾星霜を経た老木です。

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もう一枚。根に近い幹部分はかなり空洞となっていました。

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鳥居。

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石段の途中の鳥居。

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拝殿です。逆光でうまく撮影できません。

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本殿。

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武骨な感じの石祠。豊日宮とあるので豊日別を祀っているのでしょう。

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こちらは更に立派な白山宮。注連縄まで張られています。

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境内からの光景。

同社の祭神は数多く以下となっています。周辺の小祠をすべて寄せ集めたのでしょうか?

国狭槌尊・豊雲野尊・泥土煮尊・沙土煮尊・大戸土尊・大苫辺尊・面足尊・惶根尊・高皇産霊神・神皇産霊神・魂留産霊神・生産霊神・足産霊神・御食津神・事代主神・高龗神・闇龗神・素盞鳴神・大宮能賣神・稲田姫神・大山祇神・菅原神・応神天皇・武内宿禰・八種雷神・神功皇后・仲哀天皇

由緒は以下の通り。

天平十五年(743)宗像朝臣烏丸が創建した。社殿は現在地より北西の森の中にあったが、延宝二年(1674)現在地に遷した。宗像朝臣烏丸より大宮司氏貞に至るまで四季の祭礼も盛んにおこなわれていたが、小早川秀秋のとき神田八反を引き上げられてからは秋のみとなった。

宗像氏が奉斎しており、六嶽神社との関連が推定されます。743年の創建ですから古い歴史を有していると理解されます。

            尾張と遠賀川流域の謎を解く その56に続く


尾張と遠賀川流域の謎を解く その54


今回は中間市大字垣生424に鎮座する埴生神社(はにゅうじんじゃ、はぶじんじゃ)を訪問します。鎮座地は池もあって公園のようになっており、周囲には何軒も豪邸がありました。


鎮座地を示すグーグル地図画像。

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立派で趣ある日本家屋。

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こちらの敷地は実に広大です。

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池と神社に通じる太鼓橋。

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一帯の概略図。

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大鳥居です。その先に太鼓橋が見えています。

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太鼓橋の手前です。

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さらに進むとまた鳥居。

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また鳥居があって、石段を登ります。

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境内と拝殿。

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解説板。

前回で仲哀天皇と神功皇后が登場しましたが、この場所も両者に関係しており、熊襲征伐のため船でこの地を訪れ、航海の安全を祈願し、船魂の神を祀ったとのことです。従って、位置関係からすると崗水門に到着して以降の最初の停泊地になりそうですが、「日本書紀」のその後の記事では筑紫の伊覩縣主(いとのあがたぬし、伊覩は現在の福岡県糸島郡)や筑紫橿日宮(つくしのかしいのみや、現在の香椎宮で福岡市東区香椎4丁目)などが出てきます。

埴生の埴は赤い土や粘土を意味しています。赤い土は水銀の丹生(にゅう、にふ)にも通じる意味があり、神功皇后が三韓征伐するに当たり、水銀の神である爾保都比売命が国造の石坂比売命に憑いて神託し、赤土を授けて勝利が得られたと言った伝説もあることから、(はにゅう)の方が適当かもしれません。ちなみに、現在の地名の垣生は(はぶ)と読みます。ただ、一帯は当時島だったようで、波浮(はぶ)の方が見合っているようにも思えてしまいました。

前に書いたようにパソコンが不調で、USBとUSBポートまで壊れているので、パソコンが完全にアウトになると、途中で終了せざるを得なくなります。その場合はご了承ください。

            尾張と遠賀川流域の謎を解く その55に続く

尾張と遠賀川流域の謎を解く その53


今回は高倉神社と同じ祭神が祀られている岡湊神社(おかみなとじんじゃ)を訪問します。鎮座地は遠賀郡芦屋町船頭町。


位置を示すグーグル地図画像。

海に近い場所にあります。祭神は大倉主命ですが、その時代には多分海の底だったと思われます。この神社は高倉神社の下宮だったとのことで、かなり遅い時期に分祀されたと見て間違いなさそうです。

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鳥居と境内。

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拝殿。

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拝殿と本殿。

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拝殿と本殿を別の角度から撮影。

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御神木。

同社の主祭神は大倉主命と菟夫羅媛命(つぶらひめのみこと)で、天照皇大御神、神武天皇、素戔嗚尊が配祀されています。一時は主祭神が忘れ去られ、素戔嗚尊を祀る祇園社と称されていたこともあったようです。

岡湊神社の詳細は「福岡県神社誌」コマ番号170、171を参照ください。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1040130/170

由緒の最初に「日本書紀」からの引用があります。ざっと現代文で書くと以下の通りです。

仲哀天皇八年春一月四日、筑紫に行幸された。崗県主の先祖の熊鰐が、天皇がお越しになったと聞き及び、周芳沙麼(山口県佐波)の浦にお迎えした。海路を導いて山鹿岬より廻り崗浦(おかのうら)に入られた。水門(みなと)に到ると御船が進まなくなった。天皇が熊鰐に尋ねられ「私は能鰐には清らかな心があってやって来たと聞いている。なのになぜ船が進まないのだろう」と言った。熊鰐は「御船の進まないのは、私の罪ではありません。この浦の口に男女の二神がいて、男神を大倉主と言い、女神を菟夫羅媛と言います。きっとこの神のみ心によるのでしょう」とお答えした。天皇はお祈りをして舵取の倭国の菟田(うだ)の人、伊賀彦を祝(はふり)として祭らされた。すると船は動くことができた。

由緒にはありませんが、「日本書紀」には上記の後に神功皇后の記述があるので、以下に現代文で書き出してみます。

神宮皇后は別の船で、洞海(くきのうみ)よりお入りになったが、潮が引いて動くことができなかった。このとき熊鰐はまた返って洞海から皇后をお迎えしようとした。しかし船の動かないのを見て恐れかしこまり、急いで魚池・鳥池を造って魚や鳥をことごとく集めた。皇后はこの魚や鳥をご覧になって、怒りの心もようやく解けた。潮が満ちて岡津に泊まられた。

上記から、仲哀天皇は外海を、神功皇后は内海(の水路となる洞海)を通って崗水門に至ったと理解されます。いずれにしても、岡湊神社独自の由緒はなさそうです。次回は埴生神社を訪問します。

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